1/11説教「十人のおとめのたとえ」<動画>

喜びの歌
新年を迎えて、今年こそ、1人ひとりにとって良い年となるようにと願います。今朝私たちに与えられています旧約聖書、詩編98編は1節の最初にある表詞とよばれる小見出しに「賛歌」とあります。ただ「賛歌」とだけ記されています。何の制限も修飾もない「賛歌」とだけ記されている唯一の詩編と言われます。5節、6節で歌っているように、この詩人は、楽器をもってほめ歌い、この詩編が神殿礼拝で用いられるために作られた歌であることは推測されます。6節で「ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」(6節)と歌っていることは、本編がすぐ前の96編や97編と同じようにヤハウェ王の即位詩編の一つであることを示しています。本編は、歌い出し(1節)と結び(9節)が96編とほぼ同じです。
「新しい歌を主に向って歌え
主は驚くべき御業を成し遂げられた」(1節)
まさに新年にふさわしい歌ではないでしょうか。
琴に合わせてほめ歌え
琴に合わせ、楽の音に合わせて。(5節)
ラッパを吹き、角笛を響かせて
王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。(6節)
まさに年末に行われる第九の喜びの大合唱・大演奏を思わせます。

喜びのクリスマスキャロリング
ところで、喜びの大合唱ということで、私たちの身近な体験を少しお話しすることをお許しください。昨年の12月21日の大磯クリスマスキャロリングを思い出します。昨年と言ってもまだ半月前です。クリスマス礼拝の日ですが、天気予報では70パーセント雨という予報でした。会場は大磯駅前の聖ステパノ学園のレリーフ広場ですから屋外です。雨天の場合は中止と決めていました。4部合唱もハンドベルも4カ月もかけて練習した成果が発表できないのは残念ということで、一昨年から一週間前の日曜日に公開リハーサル(ゲネプロ)を行うことになり、今年も14日(日)午後2時にカトリック大磯教会でその公開リハーサルを開催しました。皆さんの声かけが良かったのか私の予想以上の参加者がありました。そして今年度のクリスマスキャロリングは、数日前からの天気予報で、本番の日はほぼ雨との予報でしたので、3回目にして今回は初めての中止になるかな、と思いました。せめても、公開リハーサルは成功だったので、まあいいか。と思っていました。しかし、前の日、土曜日、大磯キリスト教会のI牧師から電話があり、雨がほぼ確実なので場所を教会に変更したらどうでしょう。との提案がありました。指揮者のIМ兄と相談し、直前過ぎるので無理でしょうとのアドバイスがあり、その提案は行わないということで、本番当日のクリスマス礼拝前の9時に、より確実な天気予報で私が判断し、中止にするかどうかを各教会に連絡することになりました。土曜日にはT兄とIМ兄が本番当日の案内看板を制作し、客席用のパイプ椅子もH姉からお借りし、IМ兄の軽トラックで会場にあらかじめ運び、準備を整えました。
いざ本番当日、天気予報も局地的にはかなり変わるんだということを今回知りました。午前中は曇っていて雨が降りそうではありましたが、降っていなかったのです。開催を決定しました。クリスマス礼拝、クリスマス祝会を祝い、会場に行き、リハーサルの途中から雨が降り出しました。傘を差しながらリハーサルで歌いました。いよいよ本番開始。雨は小降りになり、止んできたのです。MCのカトリック大磯教会のIH兄がこの雨はあと10分経つと止みます,とユーモアを交えて語りました。ほぼ10分して雨は本当に止んだのです。なんと後半からは日が差してきたのです。合唱もハンドベル演奏も練習の成果が発揮できたと思います。雨予想の中、参加者・観客も例年とほぼ同じくらい集まりました。2回もアンコールに応え、今回の喜びのクリスマスキャロリングは終わりました。

新しい歌を主に向って歌え
詩編98編の喜びの歌に戻ります。この詩編の詩人は1節で、
「新しい歌を主に向って歌え
主は驚くべき御業を成し遂げられた」(1節)
と歌います。この主が成し遂げられた「驚くべき御業」、つまり過去の勝利とは何を指しているのでしょうか。出エジプトの出来事を指すのか、あるいはバビロン捕囚からのユダの民の帰還を指すのか、それとも別のことを指すのか。おそらく詩人は第2の出エジプトであるバビロン捕囚からの帰還のことを頭に浮かべており、全世界の救いと喜びへの参加を呼びかけていると思われるのです。「新しい歌」は96編1節でも歌われています。
この詩編の詩人が「新しい歌を主に向って歌え」と促す時、その「新しい歌」はこれから未来に作詞作曲される歌ではなく、今すでに見られる「神の救済の出来事」であって、それが、この喜びの歌を意味しているのです。詩人は4節で次のように歌います。
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。」
8節でも歌います。
「潮(しお)よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え、」
しかし、捕囚から解放された民が直面した現実は、厳しいものでありました。そして、最後に9節に至って、この歌は世界審判のために現れる神について歌っているのです。
「主を迎えて/
主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き / 諸国の民を公平に裁かれる。」
神の裁きを恐れながらではなく、喜びをもって、この詩人は神の裁きを切望しているのです。ここには、旧約聖書の枠内ではありますが、審判の神を待ち望む信仰があります。ここに、キリストによる救いの成就の土台が用意されているのです。
この詩編が歌う、バビロン捕囚からの解放に歓喜するユダの民の喜びと感謝のことばが、キリストの来臨と終末における再臨として成就するのです。

十人のおとめのたとえ
今朝私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書25章1節から13節までです。説教題にあるように「十人のおとめのたとえ」です。このたとえは、終末に関するたとえです。聖書が伝える終末は、キリストが再び来られる再臨の喜び、希望と考えるのです。
ところで、終末は、一方では滅びと捉える面もありますが、微笑みをもって待つべきものと言われます。マタイによる福音書は「天の国」のたとえ、と記していますが、ルカによる福音書では「神の国」のたとえと記しています。意味は同じことです。マタイはユダヤ人に語っており、ユダヤ人は神の名をたえず口にすることをはばかり、神は天におられるということで、神の代わりに天と言っているのです。
十人のおとめたちは友人の婚礼に招かれた人々だと考えられます。おとめたちは、その祝宴に来たのです。
ところが、花婿の到着が遅れて、真夜中になってしまったというのです。そこで、おとめたちは眠り込んでしまったのですが、ここで注意しなければならないことは、ここでは愚かなおとめは眠り込んで、賢いおとめたちは目を覚ましていたのではなくて、全員が眠り込んでいたのです。眠ってしまったことは何も否定されていません。どこが違うのか。賢いおとめたちは万一の時のために予備の油を用意していたが、愚かなおとめたちはそのことを考えていなかった、という違いがあったのです。そこで、話しは、真夜中に「花婿だ、迎えに出なさい」と恐らく、花婿と同行してきた人が叫んだ時に、ランプの油が切れてしまったということです。「油を分けてください」と言っても分ける分はないと、断られ、愚かなおとめたちは、仕方なく油を買いにいったという話しになっています。果たして夜中に油屋さんは開いていたのでしょうか。たとえですから、厳密に考える必要はないので、油は他人に分けたり、貰ったりするような性質のものではないというところにポイントがあるのです。油は何を意味するのでしょう。花婿を待つこころということですが、花婿はキリストを意味していますから、一人一人が「キリストを待つこころ」だと言うことになります。これは決して他人の分を分けてもらえるような性質のものではありません。愚かなおとめたちも決して花婿、つまりキリストを待つこころが無かったわけではありません。ただ中途半端であった。準備が足りなかった。賢さが無かったのです。時が限られているのです。いざという時に間に合わなくてはならないのです。
私たちの信仰のことを考えたときに、信仰とはもとより一人一人の問題です。いくら親が信仰深い親であっても、子どもがその親の信仰の分け前に与かることはできません。自分の油は自分で調達しなければなりません。自分がキリストに出会わなければならないのです。親の七光りはないし、押し付けの信仰は子供も迷惑なのです。

キリストを待つこころ
このマタイ福音書だけが伝えるたとえから、私たちは何を汲み取るべきでしょうか。花婿は明らかに再臨のキリストです。教会は昔から再臨のキリストという花婿を待ち望む花嫁にたとえられてきました。この話のおとめたちは花嫁の友人であって花嫁そのものではありませんが、本質的な違いはないのです。教会もまた、そこに集まる信仰者も、主キリストを待つこころをしっかりと持ち続けなくてはならないのです。
当時の教会はこの物語をどう聞いたのだろうか
このたとえは、元来は「やがてくる神の国に備えて準備しなさい」という主イエスの教えでしょうが、初代教会の人々は、物語を「主の再臨の遅延」として聞き直しています。福音書が書かれた紀元後80年当時、マタイの教会は苦難の中にありました。イスラエルはローマとの戦争に敗れ、ローマ軍がエルサレムを占領し、神殿は崩壊し、マタイの教会の人びとはエルサレムを追われて難民生活をしています。その中でマタイの教会は、「主が来られ」、「神の国が来る」ことを切望していました。彼らは「主よ、来りませ(マラナタ)」と祈り続けていました。それは彼らが迫害を耐えるための大きな支えでした。しかし再臨(終末)はなかなか実現しない。終末遅延の問題は、当時の教会にとって緊急の課題でした。たとえの花婿の到着が遅れたのは、キリスト再臨の遅れを象徴しています。再臨を待望する者にとって、信仰の火を消すことなく、灯し続けることは重要でした。乙女たちが眠りこんだ真夜中、突然、花婿の到着が告げられ、灯油の控えの用意をしていなかった愚かな乙女たちは、婚宴に遅れ、会場の扉は閉じられ、締め出されます。初代教会の人々にとって復活のイエスとの出会いは強烈であり、終末は既に始まり、「再臨は近い」との熱意を持ち続けていました。しかし主の再臨はなかなか来ません。教会の中には主の再臨の実現を疑う人々も出て来ました。ペトロの手紙二3章4節にはこうあります。「主が来るという約束は、一体どうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(第二ペテロ3:4)。その中で教会は、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(第二ペテロ3:8-9)と語りました。
現代は科学の時代です。私たちは科学的真理を信じます。しかしその結果、私たちは科学が承認することしか受け入れることができなくなり、死からの解放であるべき復活を信じることが難しくなりました。復活を信じることの出来ない現代人は、ますます死の束縛の中に捕われ、死はタブーとなって社会から隠されました。しかし死は厳然としてあります。科学ですべてのことが語り尽くされるのではない。この科学の時代において、私たちは改めて復活信仰を正しく理解しなければならないのです。
十人の乙女のたとえでは、十人とも花婿を待つ間に眠ってしまいましたが、それについては叱られていません。何故ならば主イエスは私たちの弱さを知っておられるからです。主イエスはゲッセマネの園で眠り込んだ弟子たちを赦されています(マタイ26:41)。とすれば祝宴から締め出された5人の愚かな娘たちも、締め出されたままではなく、もし彼女たちが求め続けるならば、やがて門は開かれるでしょう。主イエスは約束しておられます「たたきなさい。そうすれば門は開かれる」(マタイ7:8)。愚かなことをした、取り返しのつかない罪を犯したことが問題ではなく、その後でどう立ち直るかが問われているのです。イエス・キリストは私たちの弱さや悲しみを知っておられる方です。ユルゲン・モルトマンは語りました「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる」と語っています。(モルトマン説教集「無力の力強さ」)。主イエスは、「私たちが一人もかけることなく天の国に入り、共に祝宴にあずかることを待ち望んでおられるのです。それを信じて今日を生きよ」というのが、このたとえのメッセージだと思います。お祈りします。

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