1/25説教「成長する種」

はじめに
今朝の聖書箇所のマルコによる福音書4章26~34節には、主イエスがお語りになった二つのたとえ話が記されています。「成長する種」のたとえと、「からし種」のたとえです。これらのたとえ話は一度に語られたのではなくて、主イエスの伝道の歩みの中で折々に語られたものがここに集められているのだと思われます。主イエスはこのようなたとえ話を用いて人々に教えを語られ、「神の国」を告げ広めておられたのです。神の国とは、マタイによる福音書では天の国と言っていますが、要は神のご支配ということです。神の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神のご支配が実現しようとしている、その神の国のことを主イエスはたとえ話によってお語りになったのです。今朝の箇所の二つのたとえ話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」のたとえでは「神の国は次のようなものである」と語り始められていますし、「からし種」のたとえでも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」という言葉で始まっていることからも分かります。
神の国は既に始まっている
「神の国はこのようなものである、このようにたとえられる」というこれらの話ですが、そこに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」というような話ではありません。主イエスが語っておられるのは、神の国は、もうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということです。マルコによる福音書1章15節には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスが語られたことが記されています。あなたがたが生きているその現実、あなたがたのその人生そのものにおいて、神の国、つまり神のご支配が今や実現しようとしているのだ、と主イエスは語っておられるのです。
しかし、この人生において神の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。隠されている神の国、神のご支配は、説明によって理解して分かるようになるものではありません。主イエスがお語りになったたとえ話は、分かりやすい説明のための話ではなくて、隠されている神の国を垣間見させ、それが全く見えない現実の中で、なお神のご支配を信じて生きる信仰へと私たちを招くための話なのです。
神の国は成長している
「成長する種」のたとえによって主イエスが語っておられるのは、神の国は隠されており、目に見えないけれども、確実に前進し、成長している、ということです。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。このたとえに語られているのは、蒔かれた種が芽を出し、成長していき、実が実る、そのことはひとりでに起るのであって、種を蒔いた人はどうしてそうなるのかを知らない、というのです。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。私もプランターで野菜を少しばかり育てていますが、店で買ってきた小袋に入った種を蒔き、何日も水をやってもすぐには芽を出しません。しかし、しばらく時期を置くと芽を出しどんどん成長してきます。その成長は「夜昼、寝起きしているうちに」進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかし、それらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、その作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、またその力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。
「ひとりでに」という言葉は「アウトマテラー」という言葉で、英語のオートマチックという言葉の下になっている言葉です。自動的に育つのです。そして、自動的になされることは、私たちがそれに手を加えることが出来ないということです。「ひとりでに」なされていることを、わたし達の働きによって思い通りにすることは出来ないのです。
そして、自動的になされることの「どうしてそうなるか」を私たちは知ることが出来ません。「ひとりでに」育つということは、そのことの「どうして」を私たちが知りえないということです。神のご支配が「隠されている」というのは、それが不完全ということではなく、私たちが知りえない部分があるということなのです。神の国は、確かに私たちの内で実現されることです。しかし、神のご支配が、どうしてそのようになるのかは、分からないのです。
今朝、旧約聖書の御言葉として読んだエゼキエル書17章24節には、「『そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。』主であるわたしがこれを語り、実行する」とあります。語り、実行するのは主なのです。神の手の内にあるからこそ、それが神の支配なのです。人間は自分の計画、予定によって神の国を実現しようとすることがあると思います。大抵、そのような時に意味されている「神の国」というのは、その人が描く理想であったり、主義、主張であったりします。そこで起こることは自分を絶対化して、他人を否定することです。本当の神の国、神のご支配とは、人間の業、人間の努力でもたらされるものではないのです。それは私たちが知りえない内に成長していくのです。私たちが自分の手によって神の国を実現させようとする時には、いつもこのことに立ち返らなければならないでしょう。
夜寝起きしている間に
そして、27節に「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」とあります。私たちは、朝晩とか朝昼というように、朝、新しい一日が始まると考えますが、聖書は反対です。夜に日が暮れると一日が始まったと考えるのです。ですから「夜昼」という順序になるのです。一日が終わって、新しい一日が始まったと考えながら眠りにつく。眠りから一日が始まるのです。特にここでは種の成長の話として記しています。一日の労働をする。畑仕事を終える。夜が来る。そこからは神に委ねて、自分は寝るのです。寝ている間に神が働いてくださる。自分は知らない間に、その実りがもたらされるのは、神にかかっている。そういうことがここで記されているのです。
しかしまた、このことは、私達にとっての励ましでもあります。この箇所における「夜昼、寝起きする」という言葉に注目したいと思います。神の業が、「ひとりでに」進むのに対して、私たちについて記されているのは「夜昼、寝起きしている」ということだけなのです。それにしても、私たち一日の歩みが「寝起きする」ということだけで表現されているのは、あまりにもそっけないように思います。種を蒔いたなら、その人は、当然必死で世話をするだろうと思うのです。しかし、そのようなことは語られていないのです。 
私たちは、毎日の日常の繰り返しの生活の中で、倦怠感を覚えることもあるでしょう。そのような中で、私たちは自分の日常の生活の意味を見失ってしまいます。何の進歩もない生活を漫然と過ごしているのではないかと考えたりするのです。そして、ただ疲れの中で一日を終えるということもあるのです。そのような私たちが過ごす日常を、「夜昼、寝起きする」という言葉が言い表しているのではないかと思うのです。しかし、そのような私たちの日常の繰り返しに見える生活の中で、神のご支配が進められているのです。神の国は「ひとりでに」成長しているのです。繰り返される私達の日常を切り開くように、神の業が進められているのです。私たちが「どうしてそうなるか」を知らないままに、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」というのです。
すべて神の働きによる
神の御支配に身を委ねる時に、私たちは眠りについている間に、神がその種を育ててくださるように、自分の知らない間に、それは成長するのだといいました。しかも、その成長というのは、私たちが望む美しい花の部分を切り取って、そこに成長を見ようとするけれども、本当の実は、私たちが見ようとしているところではないところにあるのです。しかも、その実の刈り取りを私たちは自分の手柄のように思い込むのですが、その実は私たちの努力ではなくて、すべて神の働きによるのだということです。主イエスの姿を見てみればそのことがよく分かります。主イエスはどこで身を実らせたのか。それは、その伝道の生涯になさったすばらしい出来事や教えの数々ではなく、最後に十字架にかけられて殺されたことにあります。主イエスの死を通して、やがてこの世界の多くの人々に実を実らせることになったのです。私たちが成長し、実を実らせるには、理解しがたいことがいくつもあるのです。美しい花が枯れてしまって、すべてが散ってしまうその後に、種ができるようにです。
からし種のたとえ
「からし種」のたとえも同じことを語っています。このたとえ話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さいからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。粉粒のようなからし種が、五メートルぐらいにまで成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」のたとえです。神の国、神のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。主イエスを信じるキリスト者ですら、ともすれば疑いに陥ります。神のご支配は疑い始めればきりがないのです。神の国を告げる福音はまさにからし種の一粒のようにちっぽけな、吹けば飛ぶようなものなのです。しかしそのからし種一粒のような神の国が、成長してどんな野菜よりも大きくなり、鳥がその葉陰に巣を作るようになる、それはただ大きくなるというだけでなく、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となる、ということでもあるでしょう。今は目にも止まらないようなちっぽけな種である神の国が、最終的にはそのような素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこのたとえによって語っておられるのです。
私たちの信仰を考えた時に、まことに小さな種であったとしか言えないのです。日照りで干上がってしまうような石地のような環境にあっても、また信仰から外れる誘惑の多い茨のような生活の中にあっても、主は私たちを育ててくださったのです。からし種のような小さな種を30倍、60倍、100倍にもしてくださったのです。
私たちを巻き込んで
このように、主イエスがこれらのたとえ話によって描き出しておられる神の国は、私たちのただ中に、隠された仕方で既にあり、そして神のみ力によって成長しつつあるのです。成長しつつあるということは、実りの時へと向かっている、ということです。あの「種を蒔く人」のたとえにおいて示されていたように、神の国の種は、この世の様々な力によって成長を妨げられ、なかなか実を結ばないという現実がありますが、しかし最終的には大きく実を結ぶのです。神の国はそのような豊かな実り、収穫へと向かって前進しているのです。私たちを巻き込んで動いている、前へと進んでいるのです。私たちの日々の生活は、人生は、神の国のこの隠された前進の中に置かれているのです。たとえ話は、私たちを、目的地である豊かな実りへの旅に参加させようとしているのです。豊かな収穫を待ち望みなさいと、主イエスは語りかけておられるのです。信仰者は、この世では旅人であり仮住まいの者である、と聖書は語っています。信仰者は神の国を目指して、地上を生涯旅していくのです。
聞く力、聞く耳
33、34節には、一連のたとえ話のしめくくりとして、主イエスが多くのたとえで御言葉を語られたこと、しかし弟子たちにはひそかにすべてを説明されたことが語られています。つまりここには、主イエスが、群衆にはたとえを用いて教え、弟子たちにはその意味を説明するというある区別をつけておられたことが語られているのです。それと同じことは11節にも語られていました。そこには、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とありました。「あなたがた」とは弟子たちであり、彼らには神の国の秘密が打ち明けられている、しかし外の人々にはたとえしか語られないのです。どうしてこんな区別が、あるいは取りようによっては差別がなされているのでしょうか。33節には「人々の聞く力に応じて」たとえで語られたとあります。その「聞く力」とは何でしょうか。この「聞く力」を人間の理解力と考えてしまうとおかしなことになります。主イエスは弟子たちにたとえの意味をすべて説明されたわけで、ということは弟子たちは理解力がなかった、聞く力がなかったから説明が必要だった、それに対して群衆は理解力があり、聞く力があったからたとえだけでよかった、ということになってしまうのです。この「聞く力」は理解力ではありません。では何を意味しているのか。それは9節と23節にあった「聞く耳のある者は聞きなさい」というお言葉における「聞く耳」を持っているということだと思います。「聞く耳」とは、「聞こうとする耳」つまり主イエス・キリストに聞き従おうという姿勢でみ言葉を聞く耳です。「聞く力」というのは、理解力ではなくて、み言葉に聞き従おうとする姿勢なのです。主イエスは人々のその姿勢に応じてお語りになったのです。自分の思いや考えをみ言葉によって打ち砕かれ、変えられていくことを受け入れ、そのみ言葉に聞き従っていこうとする思いで聞く時には、私たちはみ言葉の恵みを豊かに汲み取ることができるのです。聞く力に応じてというのは、このみ言葉を聞く姿勢、恵みを汲み取る器の大きさに応じてということでしょうか。群衆たちは、自分の思いや願いを叶えてもらおうとして主イエスのもとに来て、み言葉を聞いたのです。自分の願い求めを基準にして、み言葉を量っていたのです。その自分の秤で量って、これは役に立たないと思ったら彼らは去っていくのです。そのように、自分の願いを叶えるのに役立つ限りにおいてみ言葉を聞こうとしている者には、たとえのみが語られます。つまり彼らには神の国はいつまでたっても隠された秘密のままなのです。それは主イエスが意地悪をしているのではなくて、彼らの思いが、神の国、神のご支配を受け入れようとせずに閉ざされているからなのです。それに対して弟子たちは、主イエスに聞き従おうという思いをもって共に歩んでいる者たちです。群衆が「外の人々」と呼ばれるのに対して、彼らは内にいる人々です。勿論彼らにもいろいろな欠けがあり、罪があり、主イエスに従っていくことにおける弱さがあります。人間的な能力や、善良さ、清さ、誠実さにおいては、彼らと群衆の間に何の違いもないと言えるでしょう。つまり彼らは特別に立派な人や優れた人では全くなかったのです。しかしただ一つ、彼らは、主イエスに聞き従おうとして、主イエスの傍らにいたのです。その一点において、彼らは聞く耳を持っており、聞く力を持っていたのです。主イエスはその弟子たちには、ひそかにすべてを説明されました。主イエスにおいて神の国、神のご支配が既に到来していること、それが今は隠されているけれども着実に前進していること、そして神がそれをいつか必ず完成し、豊かな実を実らせて下さり、その収穫が行われること、それらのことを主イエスは弟子たちに説き明かして下さったのです。主イエスに従っていったことによって、そのようなみ言葉の説き明かしを与えられた、そこに、たとえのみを聞いた群衆との違いがあるのです。
神の国の前進
そのようにみ言葉の説き明かしを聞いていた弟子たちでしたが、神の国の秘密が本当に分かっていたわけではありません。主イエスが捕えられ、十字架につけられた時、彼らは誰一人として、最後まで従っていくことはできませんでした。皆主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。つまり神の国を告げるみ言葉の種は、彼らの心にしっかりと根付いてはいなかったのです。しかし主イエスは、そのような彼らをご自分の弟子としてお側に置き、み言葉を語り続けて下さいました。み言葉の種を蒔き続け、彼らの心を耕し続けて下さったのです。そして主イエスは、彼らの、そして私たちの、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。その時弟子たちは皆逃げ去ってしまい、主イエスに従う信仰の歩みにおいて決定的に失敗し、挫折しましたけれども、父なる神の力によって復活なさった主イエスが、彼らをもう一度みもとに召して下さり、彼らの全ての罪を赦して新しく生かして下さったのです。神の国、神のご支配は、このようにして、主イエスの十字架の死と復活を通して、つまり人間の力や思いをはるかに超えた神の力によって、まさに万軍の主の熱意によって前進し、実現していったのです。 神の国は今、私たちをも巻き込んで前進しています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、自分を乗せて既に走り始めていることを信仰の目を開いて見つめ、目的地である豊かな収穫を待ち望みながら、旅人としての歩みを続けていきたいのです。その旅路において私たちは、主が私たちをも神の国の前進のために用いて下さる、その恵みをもまた体験させられていくのです。 お祈りします。

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