断食の問題
今日の説教でも主イエスのたとえ話から話します。このたとえ話は主イエスが断食についての質問を受け、それに答える中で話されたたとえ話です。今朝のルカによる福音書5章33節に、「人々はイエスに言った」とあります。彼らはこう言っています。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。彼らが問題としているのは「断食」のことです。一定期間食事を断つ断食は旧約聖書以来、信仰的な行為として重んじられてきました。その伝統を受け継いで、いわゆる洗礼者ヨハネの弟子たちも、また律法を厳格に守るファリサイ派の人々も熱心に断食をしていたのです。そういう人々に比べて、主イエスの弟子たちはあまり断食をしていなかったようです。ということは勿論彼らの指導者である主イエスご自身もそうだったのでしょう。断食を頻繁にしているかどうかという点に、主イエスの弟子たちと、ヨハネの弟子やファリサイ派の人々との大きな違いがある、とこの人々は感じているのです。つまりそこに、主イエスを信じる者たちの信仰の、それまでの伝統的な信仰に対する新しさがある、と感じているのです。
悔い改めと断食
伝統的な信仰において断食はどのような意味を持っていたのでしょうか。旧約聖書を読みますと、断食は、罪の悔い改めと深く結びついています。自分の罪を覚え、神の前にそれを懺悔し、お詫びをする、そのことを食事を断つという行為によって、空腹の苦しみを自分に課して、その苦しみに耐えることによって表すのです。断食はそういういわゆる苦行の一種です。またそれは祈りと結びついています。今日の所にも「断食し、祈りをし」とあるように、ただ食事を断って空腹に耐えるだけでなく、その間、神に祈るのです。それは悔い改めの祈りです。罪人である自分が神に祈り、悔い改めを言い表すのです。断食はユダヤ人たちの信仰の大切な要素だったのです。
私が若い頃、食事療法の1つであったと思いますが、ある青年が断食している方がいましたが、体の健康のことだけでなく、精神的なこともあったようにも思いました。その方は定期的に断食療法をしているようでした。その頃の私の体重は70キロもなかったのですが、今の体重なら断食療法をやった方がいいかもしれません。今朝の旧約聖書の御言葉はイザヤ書58章全体を読みました。長い箇所を読み司式者は大変だったと思いますが、ここには旧約時代の断食についてイザヤが語っているのです。
神の好む断食とは
イザヤ書58章3節に、「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。」とあります。イスラエルは宗教的には熱心でしたが、その熱心は神に喜ばれるものではありませんでした。それは、いわば「霊的空回り状態」だったのです。私たちも注意しないと、同じような過ちに陥ってしまうことがあります。自分では熱心だと思っていてもその熱心が神のみこころからズレていると、イスラエルと同じように空回りしていることがあるのです。しかもそのことにさえも気付かないこともあります。いったい神に喜ばれる信仰とはどのようなものなのでしょうか。イザヤ書5章1~5節には、虚しい断食について記されています。確かに彼らは断食という行為そのものには熱心でしたが、そこに具体的な心が伴っていませんでした。神の義、神を求めているようでも、実際は自分の好むことを求めていたのです。たとえば3節後半に「断食の日」とありますが、これは「贖罪の日」と言って、イスラエルで年に一度行われていた罪が贖われる日のことです。そして、この日には断食することが定められていました(レ16:29)。ところが彼らは年に一度どころじゃないのです。何回も、何回も断食しました。彼らは自分たちがバビロンの捕囚になったのは神に対して罪を犯したからだと、その罪を悲しみ、悔い改めるしるしとして断食をしたのです。しかし、どんなに身を戒めて断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ全く意味がありません。彼らは断食の日に自分の好むことをし、労働者を圧迫していました。そのような断食をどんなにしても、主に喜ばれるはずがありません。断食の本来の目的は心砕かれて神の前にへりくだることなのですから・・。それがなかったらどんなに断食をしても、空回りに終わってしまいます。そればかりではなく、そのような信仰は、いつしか偽善的なものに陥ってしまいます。この律法学者やファリサイ人たちの問題はここにありました。
そして、6節と7節には、神の好む断食とは、どのようなものなのかが教えられています。すなわち、悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
これが神が喜ばれる断食だと語っています。これが愛だと言っているのです。愛は惜しみなく自分を与えることです。愛は惜しみなく奪うという言葉がありますが、本当の愛は違います。本当の愛は奪うのではなく与えるのです。神がそのひとり子をこの世にお与えになったほどに愛されたように、私たちの最も大切なものを与えること、それが愛です。これが神が好まれる断食であり、見せかけでない本物の信仰なのだとイザヤは言っているのです。
食べたり飲んだりする
ルカによる福音書5章33節以下に戻ります。ここで、人々は主イエスと弟子たちはその断食をしていなかったと非難しているのです。断食を全くしていなかったわけではないと思います。主イエスご自身も、例えばこの5章の16節に「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあるように、祈りの時を大切にしておられました。そのような祈りを弟子たちにも教えておられたと思います。けれどもそれは今読んだ箇所にもあったように「人里離れた所に退いて」のことで、人々の目にとまることではありませんでした。人々の目に印象づけられたのはむしろ、主イエスと弟子たちが、徴税人レビの家で催された盛大な宴会の席に連なり、喜んで食べたり飲んだりしている姿です。この人々が「あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と批判しているのは、このレビの家での宴会を見てのことでしょう。別に飲んだり食べたりしてはいけないと言うわけではないけれども、でもあんな宴会に連なることはどうなのか。それに対してヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は熱心に断食をしているのに、あなたがたは徴税人の家で楽しく宴会をしている、それで本当に神を信じ従って生きていると言えるのか、そういう批判ないし疑問を彼らは投げかけているのです。
信仰の基本的性格
彼らが見つめているのは、主イエスの弟子たち、主イエスに従う信仰者たちにおいて、信仰がどのような生き方として現れているか、ということであり、その現れ方が、洗礼者ヨハネの弟子たちとも、ファリサイ派の人々とも、根本的に違っているということです。彼らはこの違いに、両者の信仰の基本的性格の違いを見て取っているのです。問われているのは、断食をしているか否かではなくて、それぞれの信仰の基本的な性格の違いなのです。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の信仰は、断食という苦行に代表される、自らに苦しみを課してそれによって神に祈り、罪の赦しを願い、従っていくという性格の信仰でした。簡単に言えば、努力と精進に生きる信仰です。それに対して主イエスを信じる弟子たちの、つまりキリスト教会の信仰は、食べたり飲んだりするという宴会の喜びに代表される、喜びに生きる信仰だったのです。この違いに、主イエスを信じる信仰の決定的な新しさがあったのです。
婚礼の客として
主イエスはこの新しさを34節でこのように言い表しておられます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。つまり主イエスは、弟子たちのことを「婚礼の客」と言っておられるのです。弟子たちが断食をしないのはそのためです。主イエスの弟子たち、主イエスに従う信仰者たちにおいては、断食はそのように相応しくないのだ、と主イエスは言われたのです。
悔い改めの喜び
主イエス・キリストを信じて生きることは、婚礼の祝いの席に連なるような喜びに生きることです。それは、罪を赦され、新しく生まれ変わって生きることへの招きです。それは悔い改めの喜びです。悔い改めて神のもとに立ち帰ることができた喜びです。主イエス・キリストを信じる信仰者、キリスト者は、この喜びに生きるということなのです。この喜びを主イエスは、婚礼の祝いの席に連なる喜びにたとえられました。信仰者の喜びが悔い改めの喜びなら、断食がそれに相応しくないとはどういうことなのでしょうか。ここで主イエスは、断食がその本来の精神から離れて陥りやすい落し穴を見つめておられるのです。断食は苦行です。自分に苦しみを課して、それによって悔い改めの思いを表すのです。それが断食の本来の精神ですが、それはしばしば、そのように自分に苦しみを課してそれに耐えることによって救いを獲得することができる、という勘違いを生んでしまうのです。悔い改めは、本来、神が罪を赦して下さり、それによって私たちが新しくされることです。神の赦しの恵みのゆえに私たちは悔い改めることができるのです。ところが、その神の赦しの恵みよりも自分が悔い改めることが主になってしまい、悔い改めが自分の手柄のようになってしまうのです。そうなると何が起るか。自分はこれだけ断食をして、熱心に悔い改めている、ということを人に見せようとする、ということが起るのです。だから断食をしている時にはいかにもそれらしい陰気な顔をして、わたしは罪を悔いて断食しています、というオーラを発していくのです。それは本当に悔い改めて生きることとは違う、ということです。本当に悔い改めるとは、神の恵みによって罪を赦していただき、神のもとに立ち帰ることができた、その喜びに生きることであるはずなのであって、いかにも断食をしています、ということを表面に出すのは、自分の悔い改めを誇ろうとしているのです。祝いの喜びに連なりつつ、人知れずなされる断食こそあなたがたの信仰に相応しいのだと主イエスは言われたのです。
花婿主イエス
しかし主イエスがこの婚礼のたとえによって語っておられるもっと大事なことがあります。それを表しているのが、「花婿が一緒にいるのに」という言葉です。婚礼の宴席が成り立つのは、そこに花婿がいるからです。勿論花婿と花嫁がいなければならないのですが、ここで花婿のみが出てくるのは、それが主イエスのことを指しているからです。弟子たちは今婚礼の喜びの席にいる、その喜びは、主イエス・キリストが彼らのまん中におられることによる喜びなのです。そこにこそ、彼らの信仰の新しさがあるのです。主イエスがおられなかったら、彼らもまた、古い信仰のまま、自分の力で必死に悔い改めなければならなかったでしょう。ヨハネの弟子やファリサイ派の人々と同じように彼らも、断食に生きるしかなかったのです。主イエスが来て下さったからこそ、断食ではなく、喜びの宴会に連なって飲んだり食べたりする新しい信仰に生きることができるようになったのです。
花婿が奪い取られる時
主イエスは続く35節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われました。花婿である主イエスが奪い取られる時、それは主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されてしまうその時です。その時には弟子たちも断食をすることになる。断食は悲しみの表明でもあります。悔い改めも、自分の罪を悲しみ、悔いることであるがゆえに、断食と結びつくのです。ですから主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて悲しみの断食をするのは相応しいことであり、それゆえに教会は、主イエスの受難を覚えて断食して祈ることをしてきました。しかしここでしっかり覚えておかなければならないのは、その主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちの罪が赦されたことです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しの喜びを私たちは与えられています。花婿が奪い取られる時には彼らは断食することになる、と言われた主イエスは、根本的には花婿主イエスを迎えた婚礼の喜びの中を生きる私たちが、あくまでも自分の意志で、時として断食をすることがあると言っておられるのです。
古いものと新しいもの
36節以下で主イエスは二つのたとえを用いて語られました。第一のたとえは、新しい服から布切れを破り取って古い服に継ぎを当てたりはしない、そんなことをしたら、新しい服もだめになるし、新しい服の布切れは古い服には合わない、というたとえです。第二のたとえは、新しいぶどう酒は古い革袋には入れない、そんなことをしたら古い革袋は破れて革袋もぶどう酒もだめになってしまう、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない、というたとえです。第二のたとえで言われているのは、新しいぶどう酒はまだ盛んに発酵を続けているので、弱くなっている古い革袋はそれに耐えられずに破れてしまう、ということのようです。いずれにしてもこれらのたとえによって言い表されているのは、新しいものと古いものとは合わない、新しいものを古いものにあてはめようとするのは愚かだ、ということです。その新しいものとは、主イエスを信じる弟子たちの信仰、つまりキリスト信者の信仰です。古いものとは、断食に代表される伝統的な信仰のあり方です。主イエスの弟子たちに断食することを求めるのは、新しい服を破ってその布切れを古い服にあてはめようとすることで、とうてい合うものではないし、どちらもだめになってしまう、またそれは新しいぶどう酒を古い革袋に入れるようなもので、やはりどちらもだめになってしまうのです。ですから、新しいものが本当に生きるためには、それを古いものにくっつけるのではなくて、新しい枠組み、新しい器が必要なのです。
新しいぶどう酒は新しい革袋に
主イエスはこのたとえによってこのように、古い信仰のあり方を主張する人々に対して、主イエスによる新しい信仰のあり方を語られたわけですが、私たちはこの教えを、単にユダヤ人の伝統的信仰と主イエスを信じるキリスト教信仰との間でのこと、と読んでしまってはならないでしょう。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」という御言葉は、私たちが今、自分自身に対して語られている御言葉として聞かなければならないものだと思うのです。なぜなら私たちの信仰もまた、主イエスによる新しさを失って、いつのまにか古い、断食という苦行に象徴される、自分の力で悔い改めて、努力と精進によって正しい者となろうとする信仰になってしまうことがあるからです。私たちの信仰の新しさは、主イエスという花婿が共にいて下さることによってしか維持され得ないものです。弟子たちが、喜びに生きることができたのは、彼らを招き、悔い改めを与え、新しく生かして下さる主イエスと共にあったからです。私たちは常に新しく主イエスと出会い、生きておられる主イエスとの交わりを聖霊によって与えられていくことによってのみ、主イエスによる新しさに生きることができるのです。主イエスを信じ、主イエスと共に歩む信仰は、常に新しいぶどう酒です。その新しいぶどう酒は、古い革袋を打ち破っていくエネルギーを秘めています。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。このみ言葉は、私たちが、また大磯教会が、主イエスが与えて下さる新しいぶどう酒に相応しい新しい革袋となることを求めています。大磯教会は、今、変化の時、さらなる信仰の成長のために、新しい革袋に新しいぶどう酒を入れる時です。主イエスは私たちに、常に新しいことをなさろうとしておられるのです。聖霊のお働きによって共にいて下さる生ける主イエスとの出会いと交わりとを求めていくことによって、私たちは主イエスによる本当の新しさに生きることができるのです。
お祈りします。