2/22説教「神の愛が注がれる」

はじめに
今朝は、主イエスの御受難を心に刻む、受難節第一主日の礼拝を捧げています。先週の水曜日2月18日は灰の水曜日と言われる日でした。キリスト教では、その日から、日曜日を別にすると40日間を受難節、レントと言います。この期間は、キリストの苦しみに連なって、私たちに何ができるのかということを考える期間とされています。私自身も家族の突然の大病で先週から、悲しみと苦難の中にあります。受難節の今、今朝の聖書箇所から苦難について考え、御言葉の説き明かしと恵みにあずかりたいと思います。
キリストの十字架の出来事がどう私と関係するのか
私が大磯教会で牧会している17年間に日本で幾つもの困難、苦難がありました。東日本大震災がありました。その後も熊本、能登など大きな地震がありました。水害も、山火事もまた道路の大きな陥没事故も起きています。自然災害には出来る限りの予防はできても、勝てないのです。またウクライナやガザでの戦禍は、過ぎ去った過去の戦争を再び思い起こさせました。そして新型コロナウイルスで世界は戦慄しました。その中で、教会は礼拝を守るために様々なことを試みました。礼拝のライブ配信は当たり前になり、あらためて共に集まる礼拝とは何かを考えるきっかけになりました。科学は驚くほどの進歩をしたようでも、克服は出来ないのです。困難はいくらでもやってくるのです。そして教会員の高齢化と減少と財政の困難があります。私たちの一人一人の人生において、誰もが遭遇し、避けることが出来ないものが苦しみです。洗礼を受ければ苦しみが無くなるのではありません。信仰の歩みをしても、様々な苦しみが襲いかかってきます。洗礼を受け、信仰が与えられたからこそ、新たに苦しまなければならない隣人との苦しみもあります。使徒パウロは実に様々な苦しみに遭遇してきました。また、各地の教会信徒の苦しみを覚えて、祈り、手紙を通して語りかけています。パウロの手紙の至る所に、「苦難」という言葉がちりばめられています。今朝のローマの信徒への手紙5章1節から11節は、使徒パウロが、自分の信仰と存在を命をぶつけるようにして語った言葉です。約二千年前にユダヤで起きたイエス・キリストの十字架の出来事が、何故、現代に生きる、私と関係があるのか。という問いに対する応えが、パウロの口を通して、この御言葉で語られています。
苦難を喜びとする
パウロはここで、驚くべきことを語っています。「苦難をも誇りとします」と語っています。「誇る,誇りとする,歓喜する」という意味のギリシャ語の「カウカオマイ」という言葉は,良い意味にも悪い意味にも用いられるようですが、「誇る」という言葉には「喜ぶ」という意味もあるようです。そして主イエス・キリストに連なる者は、苦難をも喜びとするとパウロは語るのです。しかし、誰が苦しみを喜ぶ事ができるかと思います。苦しみから救われたいから教会に来るのです。「神様、助けて」と心の中で叫びたいから教会に来るのです。一体誰が苦難を喜ぶことが出来るでしょうか。どんな苦しみにもへこたれない強靱な伝道者パウロだから「苦難をも誇りとします」そのように言い切ることができるのだと思ってしまいます。しかし、パウロは語るのです。これは私だけの特別なことではない。あなたのことなのだ。キリストに連なる者は誰でも「苦難を喜びとするのだ」と語っているのです。パウロは3節から5節で語ります。「そればかりでなく、苦難を誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と。ここにも驚くべき言葉が語られています。「希望は私たちを欺くことがありません」と。「忍耐」とは何か。「忍耐とは、じっと歯をくいしばり、やせ我慢して耐えることではない。聖書が語る忍耐は待ち望むことだ。望みがあるから忍耐して待つことが出来る」と、ある説教者が語っています。その望みはイエス・キリストです。「練達」とは、精錬すること。真っ直ぐな心で神に向うことです。その練達は希望を生み、希望は私たちを欺かないとパウロは言っているのです。それは「神の栄光にあずかる希望」ということです。信仰によって救われるとは、この希望を与えられることなのです。しかし、なぜ、パウロはこのように言い切ることが出来るのか。その根拠はただ一つ。それは私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
財力も富も死の前には何の役にもたたない
今朝のもう一つの御言葉、詩編49編1~21節の個所をお読みしました。この詩編のメッセージを聴きましょう。この詩編の作者は、昔から繰り返し問われて来た人生の謎の一つに答えようとするのですが、彼自身の人生における苦しみの体験をも併せて、考え抜いた解決を示しているのです。詩編49編6節の「災いのふりかかる日、わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも、どうして恐れることがあろうか」という言葉はおそらく作者の体験からの言葉でしょう。この詩編の作者は、恐らく一般の庶民であって、富める権力者に痛めつけられ、富める彼らに対する不安と嫉妬を抑えながら、心の平衡とやすらぎを与える思想をここに告げ知らせているのです。したがって、この詩の背景には何らかの社会的な問題があり、この世の財産についての倫理的、宗教的な判断が問題になっていると学者は言っています。詩編の詩人は6節で「災いのふりかかる日、わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも、どうして恐れることがあろうか」と歌っています。そして、彼らは自分の財力に信頼し、その豊かさを誇っているに過ぎないというのです。しかも、人はどんな財力や富の豊かさを持とうとも、永遠に生きることも、定められた死からの贖いの身代金とすることもできないと詩人は歌っています。8節の言葉です。
 8神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。
ここからは、多数の敵がもたらした不快なことに直面して自らを抑えつける詩人の感情がにじみ出ています。それは恐怖と嫉妬です。この二つの感情はどこにでも認められるので、この詩が立てる問いは時と場所とを越えて人々に訴えかけるのです。この詩編が、財力を誇る者たちをさげすんだり、富める者たちをおそれたりしないように、と諭すのは、彼らがいずれは死の滅びへと下るからです。その財力も富も死の前には何の役にもたたないのです。
失望に終わることのない希望
ローマの信徒への手紙5章3節から5節をご覧ください。
「そればかりではなく、患難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」
キリスト教信仰とほかの宗教、いわゆるご利益宗教と言われている宗教との大きな違いは、ここにあるのではないでしょうか。すなわち、一般的に言われている宗教では、患難、苦難を悪いものと見て、それから逃れる道だけを説きますが、キリスト教では必ずしもそうではないということです。キリスト教では、患難を必ずしも悪いものとして見てはいません。むしろ歓迎すべきものとして見ています。いや、ここでは患難そのものを喜んでいるとしるされています。なぜでしょうか。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そして、この希望は失望に終わることがありません。失望に終わることのない希望とは何でしょうか?それは、やがて世の終わりの時にもたらされる天の御国のことです。イエス・キリストを信じる者には、天の天国、終末が約束されています。それは確実にもたらされるものなので、失望に終わることがないとパウロは語っているのです。
星野富弘さんの生き方
口に筆をくわえて詩と絵を描いておられる星野富弘さんは、中学の体育の教師として赴任したばかりの頃、鉄棒の実演中に頭から地面に落ちて首の骨を折り、首から下が全く動かなくなってしまったのです。その療養中に主イエスを信じました。その時の様子を、「いのちよりも大切なもの」という本の中で紹介しておられます。 元々、体力には自信があって、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたためか、怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。  そんなある日、星野さんの治療にあたっていた看護婦さんが悲しそうな顔をして星野さんにこう言いました。「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」 「えっ、俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」  星野さんのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。しょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたというのです。 幸せな人を見れば、憎らしくなり、大怪我をして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、お母さんを起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、自分の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったというのです。 その様な時にふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)  生まれてから、怪我をするまで、どのくらい嬉しい事があったか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを、誰に感謝していただろうか。反対に、辛い事も沢山あっても、そのつらさや苦しみを、誰に打ち明けていたか。誰にも言えないでいたことがたくさんありました。そんな自分に「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言ってくださるイエス様が、何よりも、誰よりも、大きな存在であると思い、このイエス様を信じたのです。 それからというもの、星野さんの心が少しずつ変えられていきました。見方、考え方が180度変わりました。そして、神様のために詩と絵を描くようになったというのです。「ことばの雫(しずく)」という本の中で、星野さんは次のようなことを言っています。
「苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。」
まさに、練られた品性から生み出されたことばです。詩編119編の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と語りましたが、同じような心境に至ったのでしょう。これが福音の力です。人間の本当の強さとはこういうところにあるのではないでしょうか。ほかの人々が耐えられないことを耐え忍び、ほかの人々がしたくないことを静かに行える。患難さえも喜べる力、それこそ本当の力です。主イエスを信じる者には、このような力が与えられるのです。
神の愛とはどのようなものなのでしょうか。パウロはここで、その神の愛がどのようなものなのかということについて語っています。6~8節です。
  実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ここでパウロが語っている神の愛の大きさは、全く愛されるに値しない者に注がれたことによって明らかにされました。パウロはここで、全く愛されるに値とない者を表すことばとして、三つのことばを使っています。一つは「弱かったころ」ということばで、もう一つは「不信心な者」、そしてもう一つが「罪人」です。まず「弱かった」ということばですが、これは、力の欠如を表していることばです。つまり、霊的無能力であったということです。たとえば、パウロはエフェソの人たちに、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・」(エフェソ2:1)と言っておりますが、そういう意味での弱さです。ですから、この「弱かったとき」というのは、からだが弱かったとか、意志が弱かったとか、立場が弱かったということではなく、人間として霊的本質的に欠陥があったということなのです。このような欠陥があると人間はどうなるかというと、いつでも外的なものでそれをごまかそうとします。たとえば地位とか権力といったもので自分を飾ろうとするのです。そうした弱さが私たちの中にはあるわけです。
もう一つの「不信心な者」というのは、神を敬う心が欠如している人たちのことです。人は神によって造られたとき、神のかたちに造られましたが、罪に陥ったことで、それを失ってしまいました。神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなります。不敬虔な者とはそういうことです。    
それから「罪人」ということばですが、これはもともと「的をはずした」人のことです。人は神がお造りになられた本来の姿からそれてしまい、してはならないことをするようになってしまいました。自分の思いのままに生きるようになったのです。これが罪人の姿です。
人間は、正しい人を尊敬します。権力とか財力に屈しない正しい人を英雄視するのです。しかし、だからと言って、その人のために死んであげるという人などいません。けれども、私たちのために何かをしてくれた慈善家のためなら、死んでもいいという人も、中にはいないわけではありません。しかし、正しい人でもなく、まして慈善家でもない、むしろ神に敵対し、神の戒めを少しも聞こうとしない罪人のために、死んでくれる人などいるわけがありません。がしかし、いたのです。それが神の御子イエス・キリストでした。そしてこのキリストの愛は、絶対に変わることがありません。その変わることのない神の愛が、聖霊によっていま、私たちの心に注がれているのです。であれば、この希望が失望に終わるということがあるでしょうか。絶対にないのです。心はコロコロ変わるから「心」だと言った人がいますが、神の愛は人の心のようにコロコロ変わるようなものではありません。ですからパウロはこう言うのです。9~11節です。
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
ここで注目すべきことばは「なおさらのことです」ということばです。ここでは二回も繰り返して使われています。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちはそれほどまでに愛されているのですから、私たちの希望は決して失望に終わることがないばかりか、この神を大いに喜ぶことができるのです。
私たちは時としてジレンマに陥ることがあります。「主イエスを信じてもちっとも変わらないじゃないか」「信仰によって救われたとは言っても、実際の生活の中にその力が全然見られないではないか」・・・と。しかし、実のところ私たちには、これほどの力が与えられているのです。信仰によって義と認められた私たちは神との平和をいただいているばかりか、患難さえも喜ぶことができるのです。聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。この愛が私たちを生かすのです。そして、この愛こそ、今、最も必要なものではないでしょうか。なぜなら、この希望こそ失望に終わることがないからです。この確かに希望によって一歩一歩を歩んでいきたいと願うのです。

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