はじめに
受難節第3主日の礼拝を共にしております。大磯の運動公園に河津桜が植わっており、大磯教会への道すがら見事に咲いているのを見かけましたが、もうしばらくすると本格的に桜の時期になるでしょう。半ば頃には本格的な桜も見られるでしょう。そういう春の希望に満ちた時期に、毎年、受難節のときを過しています。主イエスが、ご自分の死と復活を弟子たちに予告した後に語られた言葉、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉の意味を考えたいと思います。
弟子たちへの受難の予告
主イエスは、弟子たちを伴って都エルサレムへ上ってゆきます。そこは主イエスを殺そうと企むユダヤ人たちが手ぐすねひいて待ち構えているのです。何故、あえてそのような場所へ出かけてゆくのか、不安を感じた弟子もいたでしょう。あるいは、いよいよ地上に神の国を打ち立てる決戦の時、との覚悟を決めた弟子もいたかもしれません。ペトロの信仰告白を聞いた主イエスは、弟子たちに、自分が進んで行かれる道の意味について説いてゆかれます。
今日の箇所では、弟子たちに対する最初の受難告知がなされています。21節には、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。主イエスは、ご自身がこれから、十字架における苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっていると言われました。「なっている」とありますから、神がそのことを既にご計画になっているということです。
しかし、このことは弟子たちにとって、理解し難い、受け入れ難いことでありました。主イエスの受難の予告を聞いたペトロは、22節にありますように「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめはじめた」とあります。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した人です。ここではペトロは主イエスの言葉を否定し、諫めはじめました。主イエスへの信仰告白をしたペトロも、主イエスのご受難の予告を理解できなかったのです。ペトロや他の弟子たちは、主イエスこそ、人々を救い、神としての力と栄光を持ち、人間に臨まれる方であると信じていたのです。つまり、十字架において苦しみと死を受けられるという受難の予告は、それとは矛盾すると思ったのです。ペトロもまた、当時の人たちと同様、イスラエルの民を解放する栄光のメシア、救い主を待ち望んでいたのです。
イエス、ペトロを叱責する
そのようなペトロの言葉に対して主イエスは厳しい言葉で叱責されました。23節です。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。そこまできつく言われなくてもいいのでは、と思う程の主イエスの言葉です。
サタンは、人間を神から引き離す力です。ペトロは主イエスを愛していました。大事な方が、苦しみ、捨てられ、殺されるという話に耐えられなかったのです。しかし、その思いは人間の思いであって、神の思いとは異なったのです。そして「邪魔をする」者となっていったのです。
主イエスは「サタン、引き下がれ」とペトロを叱って言われました。続けて「わたしの後について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。「引き下がれ」というのは、私の後ろに退けということです。主イエスは、ペトロをその本来の位置に立ち戻らせようとされたのです。
「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということはどういうことでしょうか。主イエスのために多少なりとも重荷を負うということではありません。主イエスを助けることなど出来ません。「自分の十字架を背負う」ようにと言っているのです。
自分の十字架を負う
私たちの一生の間にはさまざまなことが起こります。あと三日で東日本大震災から15年を迎えます。まだまだ私たちの記憶から風化することはありません。巨大津波の映像が記憶から離れることはありません。あの福島の原子力発電所の爆発のテレビ映像、自衛隊のヘリが必死に水をかけている映像は頭から離れません。災害が起きた2011年の秋、私は大磯教会からの献金を届けに、車で岩手県釜石市にある新生釜石教会に、大磯教会とゆかりのある柳谷明牧師とご子息の柳谷雄介牧師を見舞いに行きました。教会堂はまだ津波の後で泥だらけでしたが、テントを張って近隣の支援活動をしていました。私も今より若かったので、自分の車で2日かけて釜石にたどり着きましたが、途中で見た被災地の状況を良く覚えています。流された自家用車やトラックがうず高く積まれた光景を思わず写真を撮ろうとしたとき、近くにいた人に怒られて、自分の心ない行為に恥ずかしさを覚えたことを思い出します。そこで何十人も亡くなっていたのです。そして福島の原発の原子炉解体は何十年もかかるのです。心に痛みを覚えます。何故このような苦しみがふりかかるのか、説明のできない苦しみがあります。また突然の病気や、問題などによる苦しみが起こります。誰かのせいにすることの出来ない苦しみがあります。そのような苦しみによって、私たちの人生はしばしば脅かされるのです。信仰によって、それらの出来事を受け止めるのです。神が独り子主イエスの命を罪人である私たちのために与えて下さり、贖って下さいました。それが苦しみの中で私たちを支えていくのです。たとえどのような苦しみに脅かされていても、私たちの命は、神が本当に大切なものとして導き、支えてくださるものなのだ、ということを信じることができるのです。その時それらの苦しみを忍耐して生きることも、主イエスに従うものの背負う十字架となるのです。ある人はこう語っています。
「『自分の十字架を負う』という言葉、これは恵みの言葉である。皆それぞれの力に合わせて、自分にふさわしい仕方で十字架を負うことを、主イエスは定めていてくださる。なぜここでわれわれはうろたえるのであろうか。
またある人は、こう言っています。
「いったいここでの十字架とは何であろうか。自分が苦しい思いをしたら、十字架ということになるのか。そうであるならば、随分勝手な苦しみを苦しんでおいて『十字架を背負っている』といくらでもわめくことができる。ここで言っていることは、そんなことではない。主イエスが十字架になぜつけられたか、もう一度考えて見たらよい。それは人間のわがままな心と、神が私どもを生かそうとしている御こころとがぶつかりあったところに生まれた死であった」
私たちは自分の十字架を負って生きるためにも、私たちを贖っていてくださる神のみこころを大切にしなければなりません。そして自分自身のいのちを大切にしなければなりません。そのことがよく分かった時に、献身があるし、また、そんなに大きな決意をしなくても、毎日の小さな決心を重ねながら神の御こころを問いながら生きることが出来るはずです。主イエスに従うとき、私たちの負うべき十字架があります。負いきれない重荷を背負って、苦しみながら行くのではありません。主イエスが先立って歩まれる道は、十字架から復活へと続くのです。
様々な祈りを集めて祈る
今朝私たちに与えられております旧約聖書の御言葉は、詩編86編5節から10節までです。詩編86編には旧約の他の箇所の言葉が多く引用されています。つまりこの詩編は様々な祈りの言葉、聖書の言葉の寄せ集め集と言ってもいいのです。聖書学者のある人は、「独創性のない寄せ木細工的詩編」と酷評する人もおります。でも果たしてそうでしょうか。 なぜこの詩編を作った人は、多くの祈り、御言葉を集めて、一つの祈りとしたのでしょうか。わたしたちも実は多くの祈りを集めて祈っているのです。祈りを真似ているのです。祈りの言葉は受け継がれていきます。 そしてもう一つ覚えたいのは、わたしたちは祈れない時があるということです。この詩人は 苦難の中にあります。そういう中では神に呼びかけることすらできない。皆さんもそういう経験はないでしょうか。だから詩人は、他の詩編から祈りの言葉を借りてきて祈ったのかもしれません。自分の心に留まった珠玉の祈りを集める。その祈りの言葉に助けられて祈ることができたのではないでしょうか。ある聖書学者は、それゆえにこの詩編86編の祈りは、祈りの模範、祈りのガイドになっていると述べています。珠玉の祈りの言葉を集めたゆえに、結果として祈りの傑作選のようなものに仕上がったのです。
本来わたしたちは祈れない存在なのではないでしょうか。もともと神の形に造られた人間は、神に呼びかけ祈ることができる存在でした。しかしアダムとエバの失敗から人間はその関係性を失いました。神を呼ぶ特権を自ら放棄したのです。 けれども、その私たちが再び神に呼びかけ祈ることができるようにされた。それがイエス・キリストの十字架の贖いです。このキリストの贖いによって、わたしたちは神に呼びかけ、神がそれに応えてくださるという関係性が回復されたのです。困難の中で、たとえ祈れない時も、主が祈りを導いてくださり、拙い祈りを御前に 届けてくださる一筋の心を与えてくださいました。この恵みを感謝したいと思います。
『塩狩峠』や『氷点』で有名なクリスチャン作家の三浦綾子さんに『祈りのことば』という本があります。そこに心を捕える祈りがありますので、ご紹介します。
神よ、人生は一人、林の中を歩み行くようなものかも知れません。自分の前には何の道もなく、 また自分の後をついてくる者もありません。そんな辛いものかも知れません。でも、どんな辛い道でも、主が手を引いて下さるなら、私たちは安んじて生きて行けるのではないでしょうか。 何十年間かの人生の中で、人は幾度、大きな重荷を肩に負い、おろし、また負って来たことで しょうか。でも主が共に在すならば、それは何と幸いな人生であることでしょう。
自分の十字架を背負って
主イエスは私たちに命を与えるために十字架の苦しみと死への道を歩んで下さいました。その主イエスの後ろに従う私たちも、栄光への道ではなく、十字架を背負って歩むのです。それは、キリスト者であるゆえに世の人々の無理解にさらされ、妨害や迫害を受けることであり、人と人との関係において、多くの苦しみを味わうことであり、それは私たちの罪のゆえの苦しみです。人の罪によって傷つけられ、苦しみを受けることもあれば、自分の罪が人を傷つけ、苦しめてしまうこともあります。私たちは、自分の十字架を背負って主イエスに従って行くのです。そのことによってこそ、主イエスの十字架の死と復活によって実現した命の恵みにあずかることができるのです。
主イエスの十字架の苦しみと死は、私たちの罪のためであり、私たちの罪を赦して新しい命を与えて下さるためでした。ですから私たちがお互いの罪のために受ける苦しみと、主イエスの苦しみとは重なるのです。私たちは、人の罪による苦しみを背負ってそれを赦すという忍耐において、また自分が人に対して罪を犯していることを覚えて、その重荷を負うことによって、主イエスが私たちの罪のゆえに受けて下さった苦しみを自分自身の身に体験していくのです。つまり私たちがお互いの罪による苦しみを負って歩むことも、自分の十字架を背負って主イエスの後に従うことの一環となるのです。要するに、主イエスの十字架によって神が与えて下さった命にあずかって生きるなら、私たちが人生において味わう全ての苦しみは、主イエスに従う者の背負う十字架となるのです。
コヘレトの言葉から
旧約聖書の中で、コヘレトの言葉ほど人生の無情を感じさせる書物はないと思います。コヘレトはイスラエルの賢者ですけれども、人間の幸せを求めて、世界のあらゆることを観察して、自分でもあらゆることを試みてみた、と述べています。けれども、人には神の思惑は隠されていて、世の中は不条理に満ちている。たとえ全世界を手に入れて、思いのままに人生を楽しんだとしても、人生には思わぬ時に不幸が訪れ、また、生きる時も死ぬ時もすべては神が定めている。この世での人間の営みは風を追うようなものだ、との境地が諄々と語られます。富も権力も、知識も健康も、自分の命を救うためには本当は役に立たない。少しばかり寿命を延ばすことはできるかもしれないけれども、どれひとつとして幸せな人生を約束してはくれないし、最後には死の裁きが待っている。千年の人生を二度繰り返したとしても不幸であったら意味はない、とコヘレトは言います。
主イエスはそこでこう言っておられます。「わたしのために命を失うものはそれを得る」。命を失うものが命を得るとは謎めいていますが、その意味するところは、今の限りある命を主イエスのために費やす者には、神からいただく永遠の命がある、ということです。人は自分の命を失ったら、どんな代価を払ってもそれを買い戻すことはできない。けれども、私の命をキリストに預けた者は、イエス・キリスト御自身が汚れのない御自分の命を代価として、私の命を買い戻してくれる。イエス・キリストの歩まれる受難の道は、自分の十字架を背負った救い難い罪人の命を贖うための、神の定めた道であって、主イエスを信じて従う者たちは、主イエスの十字架にあやかって罪人として死にますけれども、主イエスが三日目に復活したように、もはや罪のためにさいなまれることのない、真のいのちの輝きに報われます。
27節と28節では「人の子」の到来が告げられています。復活された御子イエスが世界を裁く終わりの時です。御子の再臨によって神の国が訪れる時、「それぞれの行いによって報いられる」とあります。「行い」とは様々な行状ということではなくて、一つのことの「実践」です。つまり、「わたしに従え」と言われた主イエスの言葉に従ったかどうか。主イエスに生涯ついていこうと志して、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスの後をついていったかどうか、ということが、それぞれに問われる、と言うことです。そして、ついていった弟子たちには、復活の栄光に輝く御子が必ず報いてくださるとの約束がここにあります。苦労しても真実に向かって歩んでいる人生は決して空しくはありません。終わりの約束に確信を持って、主イエス・キリストに従ってゆきたいと思います。 お祈りします。