はじめに
今朝は受難節第4主日の礼拝を共にしております。今朝私たちに与えられております新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書17章1節から13節までです。この箇所は昔から「山上の変貌」と言われる個所です。主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネをつれて高い山に登られたと記されています。まだ悲惨な紛争があるパレスチナのガザは地中海に面した地域で高い山など無いところですが、今朝の聖書個所の舞台になっている地域はフィリポ・カイサリアというガリラヤ湖より北東にある山岳地帯で、ヨルダン川の源流の一つで、泉も湧き出ている風光明媚なところのようです。その名の通りローマ皇帝の名が付けられたローマの植民地です。海抜2760メートルのヘルモン山があります。主イエスはなぜ、この地に行かれたのかは謎ですが、主イエスの地上での旅では最も北になります。
光輝く主イエス
今朝の箇所は先週の礼拝で語られたように、主イエスの受難の予告の後の出来事です。「六日の後、主イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。そこで主イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(1,2節)とあります。この「六日の後」というのは、主イエスが受難の予告をされてから六日目ということです。この主イエスのお姿が変わったということをどのように私たちは受け取ったら良いのでしょうか。それは主イエスの栄光のお姿と理解することが出来ます。主イエスは、弟子たちとエルサレムへの旅を続けていますが、彼らに主イエスの本当のお姿、本質をお示しになった出来事と言うことではないでしょうか。そして、この主イエスのお姿を見ることが出来たのは、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子のみでした。この三人とは、この後の26章で、主イエスの「ゲッセマネの祈り」に伴われて行く三人でもあります。主イエスの光り輝く栄光を見た三人が、同じ主イエスの苦しみのお姿をも見させられたのです。
この三人は主イエスの光輝くお姿の目撃者とされているのは、主イエスの十字架のご受難の準備でもあったと言うことが出来ます。弟子たちは、栄光に輝く神の子としての主イエスのお姿を見たのです。そして、その主イエスはこれから十字架の死を目前に苦しみ悶える主イエスであり、同時に栄光に光り輝く神の御子なのだということです。この主イエスのお姿は別々なものではなく、一人のお方の姿であるということなのです。多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺されようとしている主イエスが、実は、神の子としての栄光に輝くお方なのだ、ということがこの出来事によって示されているのです。本来は神の子としての栄光に輝くお方である主イエスが、その栄光を放棄して人間としてこの地上を歩み、十字架の苦しみと死への道を歩んで下さることによって、神の救いのみ業が実現しようとしている。山上の変貌の出来事はそのことを明らかにしているのです。
ペトロたち三人にとっても、私たちにとっても、苦難だけが強調されると、「三日目によみがえる」復活の輝きが忘れられてしまいます。人間には、暗い面を考えると、反対に明るい面を考えることが出来なくなる傾向があります。これは誰にも当てはまることで、暗い面だけが気になって光を信じられなくなるという本能に基づくものです。そこで主イエスは、山上の変貌を通して苦難を見据え、十字架を負うことによって、救い主の栄光へと通じることを具体的にお教えになられたのです。
旧約の完成者イエス
3節に「見ると、モーセとエリヤが現われ、イエスと語り合っていた」と記されています。エリヤは預言者の代表であり、モーセは律法の代表であります。イスラエルの民は、モーセの十戒によって、神のご意志が何であるかを知り、そして預言者によって救いの道を示されたのです。この山の上で、主イエスを中心に、エリヤとモーセが語り合っているということは、主イエスは律法と預言を成就する者であるということを表しているのです。さらにまた、律法と預言者といえば旧約聖書全体のことでもあります。したがってこの山の上の出来事は、主イエスは旧約の完成者であることを示しているのです。ここには、旧約と新約の出会いがあり、神の救いのご計画のすべてが最終的に示されているのです。
主の栄光とは何か
ペトロは山の上で、主イエスの栄光のお姿を見、モーセとエリヤがそこに現われたのを見ました。そして、仮小屋を建てて、主イエスとモーセとエリヤにそこに留まってもらおう、主イエスの栄光のお姿がいつまでも残るようにしよう、と思ったのです。しかし、主イエスの栄光とは、仮小屋を建ててそこに留めておけるようなものではないのです。ここに「仮小屋」と訳されている言葉は、元の言葉は「天幕」という意味の言葉です。聖書の用語で言えば「幕屋」です。その後、神殿における最も神聖な場所となった「至聖所」と呼ばれる場所を意味することになります。しかし、ペトロはここで神が示してくださった主イエスの栄光を、余りにも人間的に受け止め、人間の工夫によってそれを維持しようとしたのです。この素晴らしい栄光に満ちた状況を、自分たちの間に留めておき、それを見たい時に見られるようにしたい、という思いがこのペトロの言葉には表われているのです。それは主イエスの栄光を、いわば自分の所有物にしようとする思いと言うことも出来るのです。しかし、主イエスの栄光は人間の所有物になってしまうものではありません。そこに神の声が響きます。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたのです。神のひとり子、その主イエスの御言葉を聞くこと、そして、救い主である主イエス・キリストに従って生きる大切さを教えられたのです。
限定の沈黙命令
さて、主イエスは9節で、「今見たことをだれにも話すな」と言われています。しかし、この沈黙命令は「人の子が死者の中から復活するまで」という限定つきの命令です。つまり主イエスが復活なさった後は、このことを大いに語り、人々に伝えてよいと言っておられるのです。それは、主イエスの復活においてこそ、その栄光は正しく、誤解なく受け止められ得るからです。十字架の苦しみと死を経て実現する復活の栄光です。主イエスは私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けてくださいました。そのお方が復活して生きておられ、私たちと共にいてくださる。これが主イエスの栄光なのです。三人の弟子たちは、主イエスの復活において明らかにされる栄光を、前もって、見ることが許されたということです。
礼拝から生活が始まる
私たちの主日の礼拝は、主イエスの復活の記念日である日曜日に守られます。9節に「一同が山を下りる」とあります。山を下りていく弟子たちの姿は、言い換えれば、日曜礼拝から日々の生活へと歩み出していく私たちの姿でもあります。三人の弟子たちが、この山の上で、主イエスの栄光のお姿を一時かいま見て、そして山を下ってきたように、私たちも、日曜日ごとの主の日の礼拝において、主イエスの復活の栄光を示され、そしてその礼拝から日々の生活へと歩み出していくのです。高い山での体験は、弟子たちにとって、特別な体験です。その山から下るとは、この地上における日常の生活に戻ることです。私たちにとって、主の日の礼拝は、一週間の中の特別な時です。私たちは、常に、この一週間の特別な時を、顔を合わせて礼拝出来るようにと祈るのです。しかし、礼拝を守ることだけが、信仰を持って生きることではありません。日々の生活へと下っていくのです。そこで私たちは信仰者として生きるのです。神が、ひとり一人の生活の中に既に神の恵みのしるしを与えていて下さるのです。
神の偉大さと、栄光の賛歌
今朝、私たちに与えられております旧約聖書の御言葉は、詩編145編1節から13節までです。本詩はアルファベット詩といって、数え歌のようにアルファベット順に歌っている詩編ですが、全体として神の全世界支配を歌っている賛歌です。万物に及ぶ神の偉大さと、栄光まで賛美しています。そして詩編150編の最後を飾る賛歌の始まりでもあります。どのフレーズも神を賛美しています。
2節「絶えることなくあなたをたたえ、世々限りなく御名を賛美します。」
5節「あなたの輝き、栄光と威光、驚くべき御業の数々をわたしは歌います。」
今朝は、13節で区切って詩編の言葉を読みましたが、14節、15節には次のように歌われています。
14主は倒れようとする人をひとりひとり支え
うずくまっている人を起こしてくださいます。
15ものみながあなたに目を注いで待ち望むと
あなたはときに応じて食べ物をくださいます。
2千年前の、初代教会では、15節の「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます。」という御言葉を、昼の食事の歌として用いられたと言われます。日々食べ物が与えられることの感謝を捧げたのです。
15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」に関して、ティンデル聖書注解『詩篇』は、これはご自分の世界で気前よく振舞う創造者の喜びを反映している。この主題は、また私たちへの励ましとして、山上の説教の中でも語られていると解説しています。マタイによる福音書6章25節「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。
この賛美の詩編、145編のどのフレーズが皆さんにとっては心に響きますでしょうか。
渡辺和子という修道女で聖心女子大の学長をなさった方の「心に愛がなければ」という詩の一節です。
神が置いてくださったところで、咲きなさい。
仕方がないと諦めてではなく、「咲く」のです。
「咲く」ということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにするということです。
「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、
私は幸せなんだということを、示して生きることなのです。
「神が私をここに置いてくださった、それは、すばらしいことであり、
ありがたいことだ」と、
あなたのすべてが、語っていることなのです。
変貌の山を降りて
私たちは主の日の礼拝において、復活なさった主イエス・キリストの栄光に触れるのです。主イエスの復活を覚え、そのことを喜び祝うために私たちはこの礼拝に集っています。そしてこの礼拝で、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受け、復活して下さった主イエスと出会うのです。私たちは日々の生活において、この世の厳しい現実をいやという程体験しており、疲れた心と体をもって礼拝に集ってきます。人それぞれ様々な悩みや苦しみ、悲しみや怒りをかかえており、立ち上がることができないような思いでここに集うことも多いのです。それは単に私たちが無力でこの世の現実をどうすることもできない、ということではありません。私たちにとって一番の問題は、この世の現実の中に神のご支配が見えないということです。主なる神が恵みをもってこの世界と私たちの人生を支配し、導いていて下さるのだと聖書は告げていますが、しかしその神のご支配ははっきりとは見えません。むしろこの世界と私たちの人生には、この世の力、悪の力が支配し、猛威を奮っている、それが私たちの目に見える現実であると感じられるのです。それによって私たちは、心においても体においても、力が萎えてしまって、立ち上がれなくなってしまうのです。そんな思いをかかえて礼拝に集ってくる私たちに、復活して生きておられる主イエスが歩み寄り、み手を触れて、「起きなさい、恐れることはない」と語りかけて下さる。そういうことが起るのがこの礼拝です。私たちはこの礼拝において、私たちの罪と死に勝利して復活して下さった主イエス・キリストの栄光のお姿をかいま見、そして父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語りかけて下さるみ言葉を聞くのです。9節以下の、変貌の山を降りていく弟子たちの姿は、この礼拝から日々の生活へと歩み出していく私たちの姿と重なります。三人の弟子たちが、山の上で、主イエスの栄光のお姿を一時かいま見て、そして山を降りて行ったように、私たちも、主の日の礼拝において、主イエスの復活の栄光を示され、そしてその礼拝から日々の生活へと歩み出していくのです。私たちにとって、主の日の礼拝は、一週間の中で特別な恵みの時です。しかしその恵みをいつまでも自分の手元に持っていることはできないし、この恵みの山の上にずっと留まっていることもできません。私たちはこの山を降りて、日常の生活へと戻って行かなければならないのです。
苦しみや悲しみの中にも
そしてもう一つ、神の恵みのしるしは、私たちの生活に何か良いことがある、感謝すべきこと
がある、というところにのみ見出されるものではありません。たとえ嬉しいこと、感謝すべきこ
とが無かったとしても、しかしまさにそこに、主イエスによる救いの恵みが示されているので
す。信仰の目をもって注意深く見つめていく時に、私たちは、このようなしるしを見出すことが
できます。即ち、苦しみや悲しみの中にすら、神の恵みを見出し、それを数えていくことができ
るのです。それが出来るのは、礼拝という山の上で、主イエスの神の子としての栄光を示され、
救いのみ言葉を聞いているからです。私たちはこれから、その恵みの山を降りて、日常の生活へ
と歩み出して行きます。そこで、主イエスによる救いの恵みのしるしを一つひとつ見出し、それ
を数えていきたいのです。