3/22説教「仕える者になりなさい」<動画>

はじめに
 今朝は、受難節第5主日の礼拝を捧げています。私の大磯教会主任担任教師としての説教は次週、29日を残すのみとなりました。大磯教会で牧会した17年の歩みに感謝しつつ毎日を送っています。楽しい事、苦しい事、悲しい事がありました。しかし、すべてのことについて、主がまことに貧しい器を用いて、光栄ある福音宣教の業に携わる働きをさせてくださったことに感謝を覚えています。来月、4月の誕生日を迎えると79才になるので、牧師になったのが60才過ぎてからであったので、隠退が多少遅くてもいいのかもしれませんが、一般の定年をはるかに超えてここまで牧師として勤めることができたことにも感謝を覚えています。私が大磯教会に赴任した当時と、教会員は大きく変わっています。主のもとに召された方々がいますが、洗礼を受けられた方、今日も私の大磯教会での最後の受洗者が与えられた喜びに浴することが出来ました。まことに主に感謝いたします。そして転入会者も与えられました。私が赴任した当時の礼拝出席者は20人前後で、途中、少し出席者が増えた時期もありましたが、コロナ禍の時は出席者はなく、家庭礼拝を守るという事もあり、減りましたが、今また17年前と同じになりました。不思議な気もしますが、4月以降はまた教会学校も再開されますし、お弁当を食べながら交わりの機会も増えるようで、礼拝で御言葉を聞く人たちが増えることを願っています。
 ところで、3月第4主日の今朝、私たちに与えられております新約聖書の御言葉は、マタイによる福音書20章20節から28節までです。特に受難節の中にあって、26節から28節の言葉、主イエスが言われた「皆に仕える生き方」とは何かということを中心に考えたいと思います。
主のために仕えることは、牧師だけではなく、長老だけでもなく、礼拝に集う一人ひとりに語られている言葉なのです。
弟子と母の願い
 ヤコブとヨハネの母親が弟子と一緒にやって来て、主イエスの前にひれ伏しました。主イエスは「何か望みか」と聞きました。彼女は「主イエスが王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と言いました。この願いは極めて自己本位で、自分の栄誉を第一に考え、人を出し抜いてでも息子を出世させたいという思いが赤裸々に語られています。こういう教育ママは、昔から存在していたということなのでしょう。ここには、わが子可愛さのあまり、母親の出過ぎた名誉心がむき出しに出ているように思います。主イエスの弟子の中には兄弟がいましたし、家族ぐるみで主イエスに従うケースもありました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネとその母サロメの家族、アルパヨの子ヤコブとマタイとその母マリヤの家族などです。彼ら、彼女らは最初のクリスチャンホームです。そのように家族ぐるみで主イエスに従うことは素晴らしいことであると思いますが、主イエスの弟子集団の中に地位争いの問題が起こりました。
 主イエスがご自分の死と復活を予告された言葉を聞いたばかりだというのに、全く見当違いの、的はずれの願いをしているのです。私たちは、信仰者として歩み出してからも、この世の地位や名誉を求める思いから完全に自由になったわけではありません。場合によっては、教会の中にさえ、そういったことは入り込んでくるものです。
 ここでの話は、ヤコブとヨハネ、そしてその母親だけの思いや願いではありません。他の10人の弟子たちも同じでした。24節に、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」とあります。それほどまでに、人にとってポジション争い、人より上に立ちたいという欲求、願望というのは拭いがたくあるということなのです。誰がトップで、自分は誰より上で、誰よりは下かもしれないと、常に人を見て自分の位置を確認しようとするのです。誰かの下よりは、なるべく上の立場にいたい。そういう欲求を人間は持っているのです。そして時としてそのポジション争いは醜くなります。
 私たちの生活の中でいろいろな覇権争いがあり、上に立ち力を持つ者が偉い者であり、価値のあることということが当然の価値として私たちに植え付けられているのです。しかし、主イエスは、ここで全く反対のことを言われる。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(27節)。

偉い人は仕える者
 「仕える者」は奉仕者とも訳されるし、ルカによる福音書では「給仕する者」、すなわち食事を整える者の意味で使われています。「僕」とは直訳すれが「奴隷」です。当時の社会では、食卓における給仕の仕事は、奴隷や身分の低い人たちがすることで、主人とか、自由人、社会的身分の高い「偉い人」のすることではありませんでした。
 「偉い人」という言葉が使われていますが、偉い人とはどういう人なのでしょうか。一般的に「偉い人」は、人の上に立ち、人を使い、力を持つというのが社会の価値基準でしょう。今、世界にはこういう意味で、何人かの「偉い人」が世界をかき回しているように見えます。偉いというのは「メガス」(大きい)ということです。向上心や上昇志向を主イエスは否定されているわけではありません。人が偉くなりたいという思いや、一番上になりたいという思いはむしろ必要でしょう。教会では、キリスト者は品行方正、自分を殺して、型にはまった生活や振る舞いに小さく閉じこもっていなければならない雰囲気が、一般的にはある気がしますが、大磯教会はそんなことは決してないと思いますが。つまり、本当の意味で偉く(=大きく)なるとか、一番上になるというのは必要なのです。最近の大磯教会は、大変良い意味で、それぞれが積極的に自分の個性なり良いところをお互いに出し、奉仕していると感じます。そのような働きが出来ない人の痛みを覚えながら、これからも更に積極的に奉仕をしていったらよいと思います。
つまり、主イエスが言われる「偉い人」は、皆に仕える者になること、すべての僕になることだと言われるのです。主イエスは、社会の価値基準を変えたわけです。根本的にひっくり返した衝撃的な教えを弟子たちに告げたのです。主イエスはこう言いました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)。私たちの模範は弟子の足を洗われた主であり、仕えるために、多くの人を罪の縄目から解放するために、身代金として自分の命を献げるためにこられたキリストであります。この方がもっとも「偉い」方なのです。
 主イエスには磁石のように人を惹きつける力があります。薄い板の上に砂鉄を置き、下から磁石を動かすと、砂鉄は命を帯びたように動き出し、磁力を帯びて立ち上がるのです。主イエスに呼び寄せられた人は、命が与えられ、生き方が変えられていくのです。

サーバント・リーダーシップ
 サーバント・リーダーシップという考え方があります。会社組織などで、上司が上から権力を振るって部下を動かすのではなく、上司の方が下から仕えるようにして部下を支えて良い働きを引き出すというリーダーシップの考え方です。もともとは、聖書にあるようにキリストの教えに基づいて修道院などで実践されてきた考え方だと言われています。確かに、このキリストの教えは、キリスト者として何らかの組織団体の中で働く者にとって、大切な考え方を示していると言えます。
 たとえ自分は人の上に立とうと思っていないというキリスト者も、このキリストの教えを聞き流してはならないのです。主イエスは、私たち皆が主の受けられた洗礼を受けることを期待しておられると思うし、主の飲まれた杯を飲み続けることを期待しておられるからです。私たちの先頭に立って真のリーダーとして進み導いてくださる主イエスは、従う私たち皆を、ご自身と同じリーダーの生き方、小さく仕えられるのではなく大きく仕える生き方へと、導いてくださろうとしておられるからです。
自分の分別には頼らず
ただいま本田昌樹兄弟の洗礼式が行われました。私の牧師としての最後の授洗者になるでしょう。嬉しいことで、主なる神が与えてくださった恵みです。本田昌樹兄弟は、教会員であった稲子夫人がおられた頃は、車で送り迎えされておられましたが、礼拝堂の中には入られませんでした。しかし、今は、体調が良くない時以外は、毎週礼拝に出席され、それも一番早く来られ、説教メッセージも読まれています。天上で稲子夫人も喜んでおられるに違いないと思います。
 ところで、受洗者に教会から聖書を送ります。礼拝後にお渡ししますが、私は本田昌樹兄弟に箴言3章5節、6節の言葉を書きました。こういう箇所です。
   5.心を尽して主に信頼し、自分の分別には頼らず
   6.常に主を覚えてあなたの道を歩け。
     そうすれば
     主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
 ここには、神を信頼することの大切さが記されています。「心を尽して主に信頼し、自分の分別には頼るな」という言葉は、私たちが自己中心的に行動するのではなく、神に従い、導きを求めることが求められています。神の前だけでなく、人々の前でも好意と良い結果を得ることができます。主を知り、主の道を歩むことが私たちを正しい方向へと導いてくれるのです。主イエスは弟子たちに「偉い人」は、皆に仕える者になること、すべての僕になることだと、言われるのです。私たちもこの主イエスの教えを聞き流してはならないのです。
主はわたしの味方
 今朝の聖書の箇所、マタイによる福音書を書いたとされる弟子の徴税人マタイは、目立たない弟子でした。語る事は得意でなかったのですが、文章を書くことは得意であったのです。新約聖書の最初にあるマタイによる福音書を書いたのです。私たち一人ひとりが十字架の主イエスに呼び寄せられつつ、祈りながら他者のために命を注ぎ出す道を考えてゆきたいと願うのです。
今朝の旧約聖書の御言葉、詩編118編の5節から9節には、私たちを解放し、味方となってくださる主を賛美する詩人の言葉があります。ちなみに旧約聖書の957頁です。
5苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた.
6主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
7主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
8人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
9君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 誰が偉いかの権力争い、人を裁く時には、とげとげしい空気が流れます。弟子たちの間にもそのような空気が流れたことでしょう。しかし、主イエスは命を捧げて、お互いが尊敬し高め合う世界を広げて行かれました。平和が広げられたのです。ひっくり返さなければならなかったのは、そして真にキリストの支配を受け入れなければならなかったのは、弟子たち自身の心だったのです。
 競争よりも大切なことがあります。それは大きな目標を持つことです。世界中の人々が幸せになれる社会の実現を目指して、一歩でも仕える道を歩むことです。今年、大磯教会は、6月3日で創立126周年を迎えます。主イエスに仕え、人々に仕え、社会に仕えた多くの先人たちがいました。私たちもその後に続く者です。高い次元の尊い目標は、仕える道にあります。到達出来なくても次世代に引き継がれていくその道を私たちも歩きましょう。私事ですが、私は3月で隠退して、少しゆっくりできると内心喜んでいました。確かに牧師としては生涯大磯教会だけで終わります。17年は決して長くはありません。しかし、25才から地方公務員、出版社、建設会社、行政書士、マンション管理会社、そして最後が大磯教会牧師です。失業していた期間や一時待機の期間はありましたが、50数年間、休みなく働き、初めての隠退生活です。ようやくゆっくりとした生活ができるなと思っていましたが、そうは行きませんでした。当面、来月から毎月3回、3つの教会の礼拝説教を担当することになりました。8月には夏休みをとる牧師のために代りに説教することにもなりました。日曜日に関して言えば、今までよりも早く家を出て説教奉仕する教会に行くことになります。しかし、考えてみれば、奉仕できることは喜びでもあります。用いられる内は華だとも思います。感謝です。
 今、受難節です。主は十字架に向われます。私たちは、十字架に向われる主の杯に共にあずかります。自分の命を献げるほどの献身をもって神に仕え、私たちにも仕えてくださる主イエス・キリストに、私たちは、出会い直すのです。 祈ります。

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