はじめに
今日から始まる一週間は受難週と言います。主イエスがエルサレムに入城して十字架につけられるまでを心に刻む時とされています。その最初の日曜日を、日本では棕櫚の日と呼ばれてきました。英語圏ではパームサンデーと言います。イエス・キリストがエルサレムへ入城した時、群衆が手に手になつめやしの枝を持って主イエスを歓迎したことにちなんでそう呼ばれています。そして、今日から4月4日(土)までは受難週ですが、4月2日の木曜日は洗足の木曜日、つまり主イエスが弟子たちの足を洗われた日です。そして、3日金曜日は、キリストが十字架につけられた受難日です。そういうわけで、今朝は少し長い聖書箇所を読みました。主イエスの十字架の出来事をあらためて読んで、心に刻んだわけです。
そして、また、今日は、2025年度最後の聖日礼拝です。そして私の大磯教会牧師として最後の礼拝になります。イエス・キリストの十字架のご受難を思い、私たちもそれぞれに重荷を負いつつ、主なる神にどのように仕えて行くかを考える時でもあります。私にとって大きな重荷を負った時でもありましたが、御言葉を語る宣教の使命に支えられて過ごすことができたことを感謝しています。イースターから始まる祝福された新年度へ希望を託しつつ、今朝の御言葉から恵みのメッセージを聴いていきたいと思います。
エリ、エリ、レマ、サバクタニ
さて、早速、今朝の御言葉からその恵に与りましょう。主イエスが十字架上で語られた、あるいは叫ばれた7つの言葉というものがあります。今朝の聖書箇所、マタイによる福音書にその一つが記されています。十字架上で主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と当時の日常語であるアラム語で叫ばれたとマタイは記しているのです。昼の12時になると、全地が暗くなり、午後3時までそれが続いて、その時、主イエスは大声でこの言葉を叫び、そして息を引き取られたとマタイは語っています。今朝は、この言葉に注目してみたいと思います。
これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味であると記されています(46節)。最後になって主イエスは父なる神を信じられなくなったのでしょうか。私たちの愛する主イエスが、苦しみの中で最後に弱音を吐いたのでしょうか。私たちはどのように、この言葉を捉えたらよいのでしょうか。この言葉は、そのまま素直に読めば、神に見捨てられてしまったという絶望の叫びです。弟子たちも皆逃げてしまって、一人捕らえられ、十字架につけられた主イエスは、最後は神にも見捨てられたという絶望の中に死んでいった、ということになるのでしょうか。事実、明治時代の初め、キリスト教の布教が開始され、宣教師たちによって洗礼を受けたクリスチャンが日本にも増えて来た頃、仏教徒たちの中には、このことでキリスト教を批判した人たちがいました。「キリストは、最後に臨んで、天主(ゴッド)をうらんで、泣き出して死んでいった愚か者だ」「神に恨みを言いつつ惨めに死んでいった。何と愚かな、情けない奴であるか。そんな奴を信じているクリスチャンはさらに輪をかけて愚かな連中だ」というわけです。十字架上で主イエスが叫んだ最後のこの言葉のことを言っているのです。確かに、自分たちの救い主と信じている人が、最後は神に見捨てられたという絶望の内に死んでいったのだとしたら、それは救い主とは言えないのではないか、という思いが私たちの中にもあります。しかし、そうではないのです。
詩編22篇の言葉
この言葉は、先程読んだ旧約聖書の箇所、詩編22編の出だしの言葉なのです。この詩編22編は、苦しみの中に置かれた信仰者が、神に救いを求める叫びから始まります。詩編22編2節をもう一度お読みします。
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。
主イエスは十字架の上で、死に臨んで、この詩編22編の冒頭の言葉を語ったのです。そしてこの22編は、最初は確かに神に見捨てられた絶望を、この詩人は語っているのですが、読み進めて行くと、最終的には、神の助けを信じ、神を賛美する歌になっていきます。そして最後は、31節、32節で次のように語っています。
わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(32節)
という言葉で終わっているのです。そうすると、主イエスのこの最後のお言葉の意味は全く違ってきます。主イエスは、十字架につけられて死んでいこうとする苦しい息の中で、この詩編22編を御自分の思いとして語ろうとなさったのです。主イエスも、また当時の人々も聖書という本は無かったけれど、皆そらんじていたのです。主イエスは一見絶望に見える死の苦しみの中で、なお神に信頼していることを語ろうとなさったのではないか。だからこれは、神に見捨てられた絶望の言葉ではない。神を讃美している。そういう解釈が出来るのです。
信頼の言葉
このように、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という主イエスの最後の言葉は、確かに、昔からキリスト者を悩ましてきました。主イエスは神から見捨てられた絶望の内に死なれたのであろうか、それとも最後まで神への信頼を貫かれたのであろうか。そのようにそれを知りたいと思うのは当然のことでもあります。しかし、私たちのこのような問いというものは、ある意味、主イエスの十字架の死を、他人事として、客観的に眺めている問いなのだという見方も出来るのです。そのような問いは、主イエスの十字架を本当に見つめるべきことから、私たちの目を反らせているのではないか。
十字架を客観的に眺める
そもそも、主イエスはなぜ十字架にかかって死なれたのでしょうか。神がその独り子を救い主としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが、神の恵みの言葉を語り、救いのみ業を行って下さったのに、それを信じて受け入れようとしない罪深い連中が、逆恨みをして敵対し、主イエスを捕らえ、無実の罪で処刑してしまった。つまり主イエスの十字架の死は、罪深い悪人たちの仕業だった。だから、私は神の独り子主イエスを拒み、十字架につけるような罪に陥らないように気をつけよう、主イエスを信じて従う者になろう、という教訓をただ聞き取っているだけならば、主イエスの十字架の死は、他人事になっているのです。つまり、主イエスの十字架の出来事を外から客観的に眺めていることになるのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という主イエスの最後の言葉の意味を問うている私たちの思いも、基本的には同じです。その時、主イエスはどのような思いを抱いていたのだろうか。神に見捨てられた絶望を感じておられたのだろうか。そのように問うている時、私たちは、主イエスの十字架の死を、自分が関わっていない他人事として外から客観的に眺めているのではないでしょうか。
十字架につけたのは私たち
主イエスの十字架の死を、私たちは他人事として客観的に眺めていることはできません。十字架にかかって死んだのは、私たちのせいなのです。主イエスは神を心から愛し、自分を愛するように隣り人を愛しなさいと教えられましたが、私たちは神を拒み、自分が主人となって生きているからです。神に対しても隣人に対しても文句ばかり言って、また、自分を守るために人を批判し、攻撃するのです。それが私たちの罪です。主イエスを十字架につけるような罪に陥らないようにしようとか、主イエスに従って生きる正しい人になろう、などとのんきなことを言っていられる者ではなくて、既に主イエスを十字架に追いやっているのです。神の独り子、主イエスを苦しめ、十字架につけて殺したのは、神に逆らっている罪深い誰か、マタイは、祭司長、律法学者、長老たち、そして主イエスを罵(ののし)った人々のことを記していますが、十字架につけて殺したのは、この私なのです。だとしたら、私たちは、神の裁きを受け、神に見捨てられた絶望の内に死ななければならない者です。しかし、主イエスはそうはなさらず、本当は私たちが受けるべき十字架の苦しみを、ご自分の上に引き受け、死んでくださいました。主イエスの十字架の死において起こったのはそういう出来事なのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは、私たち自身の叫びなのです。その叫びを、主イエスが私たちに代わって叫ばれたのです。だからあの叫びは確かに神に見捨てられた絶望の叫びです。罪人である私たちが本来受けなければならない、見捨てられた絶望の中での死を、主イエスが代わって引き受けて下さったのです。昼の十二時から三時まで全地が暗くなったと記されています。それは、私たちすべての人間が、罪のゆえに、神に見捨てられた絶望の内に死ななければならない、その希望のない暗闇の現実を、主イエスが十字架の死において背負われたことを示しているのです。
主の十字架によって生かされる
私たちは信仰と裏切りの狭間で生きています。完全に、どんなことがあっても疑わず、裏切らないと言い切ることができない弱さを抱えています。ユダにもなるし、ペトロのように三度もイエスを否定もします。日々、信仰と不信仰の間で揺れています。つまり、私たちが、どんなに深く篤い信仰を持っているか、ということによって私たちが救われるのではありません。主イエス・キリスト、このお方が、十字架について死んでくださった。その主を仰ぎ見て、従って行くことによって、私たちに信仰が与えられていくのです。聖霊なる神が導かれるのです。
私たちは誰でも最初は主イエスの十字架の死を、外から、自分には関係のないこと、人々の罪によって昔起こった悲惨な出来事として眺めています。しかし、神の御言葉を聞いていく中で、主イエスを十字架につけ、あざけり、苦しめているのは実はこの自分なのだ、ということに気付かされていくのです。絶望の叫びをあげて死なれた主イエスのお姿に、自分に代わって罪を背負い、その絶望を引き受けることによって、私たちを新しく生かして下さる救い主のお姿を見つめることができるようになっていくのです。
17年の牧会生活
私が大磯教会に赴任したのは2009年4月です。17年前の3月の最終の礼拝を、愛知県豊橋市の教会で信徒として守り、自分の車に僅かな荷物を積んでやってきました。60歳を過ぎて初めての伝道者の道でした。毎日が試行錯誤の連続でした。辛抱強く見守ってくれた教会員の皆様に感謝致します。困難なことがあっても、主イエスが共にいてくださるのです。私たちの代わりに十字架の苦しみを負い、罪を背負ってくださった主イエスが最後まで共にいてくださるのです。
私が最後に一言、聖書の言葉を送るとすれば、詩編の次の23編の1節の言葉を送ります。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という言葉です。羊飼いは羊を知り、名前で呼び、必要なものを与え、危険から守ります。主イエスは私にとっても、皆さんにとっても、そのような羊飼いです。「何も欠けることがない」とは、物質的な豊かさだけでなく、心の平安、主イエスの愛、その導き、私に本当に必要なものは、すべて神が与えてくださるという約束です。私は大磯教会でそのことを学びました。困難と思われた礼拝堂や牧師館の建築や、コロナ禍の中での家庭礼拝においても、3教会合同のクリスマスキャロリングにしても、新島襄記念祭の休憩所のことにしても、不可能かと諦めかけていた連合長老会への加盟にしても、さまざまなことが不思議な導きで満たされました。これから皆さん、どうぞ恐れることなく、たじろぐことなく、進んでください。17年間、大磯教会の牧師として支えてくださったことを心より感謝いたします。祈ります。