交 読:詩編145編(交読詩編162頁)
讃美歌:4,30,50,467,24
【説教の参考に】
ヨハネによる福音書には、信仰と不信仰の例が交互に出てきます。人間がどれほど堕落し、不信仰だと言っても、それは決して神のご支配から離れるものではありません。ヨハネはイスラエルの堕落においても、神の統治を仰ぎ見ています。その意味は別な言葉で言えば、「人間は不信仰を自分でつくることはできません。私たちは、悪や反逆で神に対抗できるほど、偉くはないのです。」もしそうなら不信仰の中にも、神の不思議なお働きがあるのではないか。それは恵みではないでしょうか。ここで引用しているイザヤ書53章1節以下の言葉や、6章10節の言葉はイエス・キリストを預言しています。預言者イザヤは、人間の不信仰がついにキリストにゆきつくことを預言しているのです。それなら人間の不信仰は自分に責任はないのか。確かに、不信仰の罪はありますが、それに上回る父なる神の愛を拒むほどの罪を人間は犯せないのです。神の恵みはそれをはるかに越えています。主イエスは言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。・・・わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」