聖書:詩編1編1―6節、ヨハネによる福音書15章1-10節
私たちは、ぶどうの枝にたとえられています。イエス・キリストが幹なのです。キリストという幹を通して、生ける神につながっているのです。「つながっている」という言葉は、進行形であり、「どこまでも、つながり続ける」という意味です。そして、相手の中に住み続けるのです。全存在が、主イエス・キリストの中に入るということで、「わたしの言葉」がその人の中に「とどまり続けること」だと主イエスは言われるのです。
主イエスに「つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とは、どういうことか。それによって、キリストの父なる神が栄光を受けられる、というのです。改革者カルヴァンは、「実を結ぶ」ということは、神が求めておられる善い事をすることだと言い、その善を行う欲望が、わたしたちの中に生まれるのだ、と言っています。神が栄光をお受けになるために、私たちが善を行うことが大切だと言われたら、それをしないわけにはいきません。「わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(8節)と言っています。父に栄光をもたらすための、私たちの生き方とは、ここではっきり「イエスの弟子としての道」だと語られているのです。