【イザヤ書53章5節】彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イザヤ書には「主の僕の歌」と呼ばれる歌が4つあります。この歌は第二イザヤによって歌われその最後の歌の中の1節です。主の僕の歌の「僕」とは誰なのか。メシアを指しているのか、イスラエル共同体なのか、イスラエルの預言者たちのことか、昔から様々に解釈されてきました。しかしそれらは究極の僕であるイエス・キリストへ、私たちの目を向ける役目を果たしています。キリスト教会は昔からここに、キリストの苦しみと、究極の十字架の死を投射させてきました。この僕の特徴は、その苦しみの意味が明かにされることです。それは「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53:5)。つまりそれは、私たちが受けねばならない神の刑罰の身代わりだったのであり、わたしたちの罪をすべて、主なる神は彼に負わせられたのです。しかし、なぜ、神が自ら造った人を救うために自分の息子を犠牲にしなければならなかったのか。私たちの理解を超えています。とはいえ、聖書の神を否定したところで、天災人災が無くなる訳ではない。紛争・戦争が無くなる訳ではない。私たちがこれとどう向き合うのか、一人ひとりが問われています。クリスマスの喜びと豊かな恵みを今年も大いに与えられました。私の罪を背負って死んでくださったキリストと、この贖罪の死がなかったら私は滅びていたのだという、自分の罪を懴悔し、キリストのゆえに「義とされる」(ローマ3:23-26)喜びを、年の瀬にあたり静かに瞑想したい。そして新しい一年の歩みが、神の愛と喜びと平安に満たされ、神の栄光を表す一年となるように祈りましょう。