【マタイによる福音書6章9節】
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』
今年度の教会の主題は「祈り」です。祈りはキリスト者に限らず、誰でも祈ります。私たち以上に熱心に真摯に祈られる方はいるでしょう。キリスト者の祈りとどう違うのかを学んで行きます。『十戒・主の祈り』(関田寛雄著)のまえがきにこう書かれています。マルチン・ルターは「教会史上の最大の殉教者は主の祈りである」という意味のことを言っています。我々はあまりにも親しいゆえに、時に一日数回も、こともなげにそれを唱えるたびに、主の祈りは「殉教」している、というのです。確かに私自身も、日曜学校時代から主の祈りに親しんできたし、恐らく死の床に就いたときも主の祈りだけは唱えられるという思いはあります。しかし、安易に主の祈りを多様しているという反省もあります。自分自身が祈りに精通していないので、会議の開会、閉会の祈りを誰かに指名しにくいという遠慮があります。フォーサイスが「最大の罪は祈りのないことである」と言っています。それゆえ、いわば祈りの源ともいうべき主の祈りが与えられていることは、まことにはかりがたいキリストの恵みというほかありません。それにつけても私たちは主の祈りを「殉教」させないように祈らなければなりません。