10/15「あなたの罪は赦される」

はじめに
今朝も聖書の御言葉から恵みを与えられたいと願っています。今朝の箇所のはじめに「中風の人をいやす」とあります。新共同訳聖書になってから、小見出しが付いたので便利になりました。前に使っていた口語訳聖書にも文語訳聖書にも小見出しは付いていません。聖書の原典にも、もちろん付いていないわけで、1987年に新共同訳聖書が出版された時には、それに対する批判も随分あったように思います。小見出しが適切でないとか。でも今では便利だと私は思っています。なにしろ探すのに分かり易いですから。いのちのことば社が発行している新改訳聖書には小見出しがついていません。ところで、最近出た聖書協会共同訳の聖書、最近といっても2018年発行ですから、もう5年も経っているので最近ではないかもしれませんが、今日の箇所の小見出しはどうなっているかと見たらこうなっていました。「体の麻痺した人を癒す」です。中風というのは、一般的には脳梗塞か脳出血かで手足が不自由になり、あるいは体も動かせない人ということでしょう。最近、私の親族にも脳梗塞になった人が多くて、比較的軽い場合であってもその後のリハビリは大変なようです。なかなか元通りには治らないようです。加藤常昭牧師の説教集に「中風の人」について、これは脳卒中とは限らない。元の言葉はとにかく「体が動かない人」ということだと言っていますから、その意味から言うと聖書協会共同訳の小見出し「体の麻痺した人を癒す」というのが適切ではないかと思います。
ところで、同じ頁の上の段に「重い皮膚病を患っている人をいやす」という小見出しが気になってしまいました。この「重い皮膚病を患っている人」という言葉ですが、以前の口語訳聖書では「らい病人」と訳していましたが、差別語であるということで新共同訳聖書ではこういう表現に改められました。ところが最近出た聖書協会共同訳の聖書では、ここは「規定の病を患っている人」と訳されました。日本聖書協会の説明によると、ここで言うところの「規定」とは、レビ記の規定のことだそうです。これはレビ記で規定されている病気だから「規定の病」としました、という説明です。今の新共同訳聖書の「重い皮膚病」という使用をやめたのは、ハンセン病の方にとってそういう表現は不快だから、だそうです。しかし、それは少し行き過ぎではないかとわたし自身は思います。「規定の病」って何?意味が伝わるだろうかと思います。不快になる言葉は出来るだけ避けた方がいいのですが、この辺は難しいところです。いずれにしても、聖書は比較しながら読むことは聖書の理解にとって有効です。本当はギリシャ語やヘブライ語、英語で読めれば最高なのですが、私も出来ません。そこで最近の解説書を読むという方法も良いと思います。
では早速今朝の新約聖書の御言葉、マルコによる福音書2章1節から12節の御言葉の恵みに与りたいと思います。

四人の男の信仰
まず前半の2章1節から5節を見ていきます。冒頭の2章1節2節によると、主は再びカファル
ナウムに戻ってこられたと記されています。恐らくシモン・ペトロとアンデレの家かと思いますが、
その家を拠点に伝道活動をしておられたようです。すると、主が来られたことを聞いて、大勢の人
が押し寄せてきました。戸口の辺りまでびっしりと身動きできないほど大勢の人たちが主の教えに
耳を傾けていました。そこへ4人の男が中風の人を寝床に寝かせたまま運んで来ました。中風と言
いますが、先ほど言ったように脳梗塞か脳出血だけではありませんが、体が麻痺し体も動かせず、
寝たきりのままの生活を送っていたのでしょう。ところで、当時は、病気は本人か両親が罪を犯し
たために罹ると見られていましたから、彼は身体が不自由になり、生活も苦しい上に、罪人とみな
され、辛く苦しい日々を過ごしていました。しかし、彼のことを心配し、心にかけ、身の周りの世
話をしてくれる仲間がいました。彼を運んで来たのは4人の仲間たちでした。ただ聖書には「4人
の男」とだけしか書かれていませんから、友人であるのか、親族であるのか、あるいは見知らぬ協
力者かもしれません。いずれにしても、この4人の男は主イエスのことを耳にして主イエスなら中
風の人の病も癒されると思い、中風の人を床に乗せたまま運んで来たのでしょう。ところが、大勢
の人に阻まれて主イエスに近づけません。それで、彼らは中風の人を屋根の上に上げ、屋根に穴を
あけてそこから病人をつり下ろしました。何と大胆の行為でしょうか。彼らはその時を逃すと病人
は助からないと思ったのでしょう。彼らは病人を助けようと必死で病人を主イエスの前に近づけよ
うとしたのです。その時、屋根の下にいた主イエスは驚かれたことでしょう。目の前に病人がつり
下ろされたのですから。
当時のパレスチナの家の屋根は平らで、しかも外側に階段があって、簡単に屋上に昇ることがで
きたのです。そして屋根も、木の枝と泥で作られていますから、穴を明けることは比較的簡単です。彼らは、イエスのおられるのはこの辺りだろうと見当をつけて、屋根に穴を明けたのです。このことを、家の中にいた者の立場に立って想像してみたいと思います。主イエスの話を聞いていると、突然天井からパラパラと泥が落ちてきて、そのうちそこにボコッと穴があき、空が見えるようになったのです。その穴が人の手でどんどん広げられていきました。天井の破片がバラバラと落ちてきたでしょう。そしてそのうち、病人を寝かせた床が、四隅を吊るされて降ろされてきたのです。
しかし、主イエスは、ことの次第が分かるとその人達の信仰を見て、中風の人に「子よ、あなた
の罪は赦される」と病人に対して罪の赦しを宣言されたのでした。主イエスは病人の仲間である4人の信仰に心動かされて病人の病を癒そうとされたのでした。しかし、4人の信仰とはどういう信仰なのでしょうか。この「信仰」には2つの要素があると言えます。一つは、中風の人に対する4人の憐れみの心、愛の心です。主イエスは、福音書の中で律法が定める最も大事なものとして「全身全霊で神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」、つまり、神への愛と隣人愛を教えました。それはルカによる福音書10章の「良きサマリア人のたとえ話」でも教えておられます。そのように隣人愛を教えられた主からすれば、中風の人への4人の愛は主の心を打つものであったのです。信仰のもう一つの要素は、主イエスは病人を必ず助けてくださるという深い信頼です。4人には主イエスは必ず助けて下さるという強い確信、絶対的な信頼がありました。そのまったき信頼が信仰なのです。主イエスは4人の信仰を見逃すことなく、その信仰に心を動かされ
たということを忘れてはならないのです。

救いの緊急性
これは当時の人々にとっても全く非常識な、まことに大胆な行動です。しかしこの四人の人はそういう常識に従わず、屋根を壊して病人を主イエスの前に吊り下げたのです。つまり、集会が終るのを待ってはいなかった、待っていられなかったのです。それは何故でしょうか。体が麻痺した大事な人の病気を早く癒してあげたいということもあったでしょうが、主イエスの教えの、「時は満ち、神の国は近づいた」というみ言葉によって示された緊急性ではないでしょうか。主イエスは1章14節にあるように「時は満ち、神の国は近づいた」とガリラヤで神の福音を宣べ伝えたのです。待ちに待った救いの時がいよいよ満ちた、と主イエスはお語りになったのです。それは同時に、その時を逃してはならない、満ちている時にしっかり対応して、チャンスをつかみ、神の国、神の恵みのご支配、つまり救いにあずからなければならない、ぐずぐずしていてはならない、迷っている暇はない、という勧めでもあります。「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの教えは、緊急事態の宣言でもあるのです。
それを聞いたならば、すぐに行動を起こす必要があるのです。「そのうちに」などとのんびり構えている場合ではないのです。この四人の人々の大胆な、非常識な、そしてせっかちな行動は、「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの緊急事態宣言への応答なのです。その人たちの信仰を見て、5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て」とあることも、それを裏付けています。主イエスは彼らの大胆な、非常識な、せっかちな行動に、彼らの信仰をご覧になったのです。

あなたの罪が赦される
次に後半の記事2章6節から12節を見ていきましょう。ここに登場するのは律法学者です。律法を深く学び、民衆に教えた人たちです。彼らは主イエスという人物の評判を聞き、主を探りにきたのでしょう。彼らは、この時、発せられた主の言葉「あなたの罪は赦される」を聞き、心の中で「この人はなぜ、こんなことを口にするのか。神を冒涜している。神お一人以外に一体、誰が罪をゆるすことができるだろうか」と反感を抱きます。聖書に基づいて考えるなら彼らの批判は正しい批判でした。なぜなら、私達人間の罪をお赦しになれる方は神以外にないからです。私達人間の犯す罪は最終的に神に対する罪であり、その罪を赦せるのは神以外にないのです。ですから、律法学者が主イエスを批判する言葉は間違っていません。ただ、彼らが見落としていたものがありました。それは主イエスという方が、地上で罪を赦すことのできる権威ある方であったということです。そのことを明らかにするために主イエスはこう言われます。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。『あなたの罪が赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」というと、中風の人は起き上がり、皆の見ている前を出て行ったと言います。主イエスは、「起きて、歩け」と命じて歩き出したことによってご自分が罪を赦す権威を持っていることを示されたのです。これは十字架の先駆けと言えます。主は罪を赦す神の子なのです。

主イエスの御業は驚きの連続
福音は私たち人間にとって驚きの連続です。主イエスの教え、御業はどれをとってみても驚きです。今日の箇所もそうです。12節に「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」とある。神の言葉や御業は、そのような反応を人々に起こすのだということです。神の言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのです。
今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることであります。主イエスが、中風の人の信仰を見られて、というのではないのです。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもないのです。中風の人が何かをしたとは全く語られていないのです。自分で主イエスに近づいたというのではない。本人は何もしていないけれども、救いはその人のところに来たのです。「その人たちの信仰」によってなのです。驚くべきことです。
「その人たちの信仰」とは中風の人を運んで来た四人の信仰です。中風の人の床を持ち上げ、重い床を担いできて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰のことです。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかっただろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となるのです。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。驚くべき希望の出来事です。

主が手をとって起こせば
これから歌う讃美歌446番は、「主が手をとって起こせば」という日本人の作詞した讃美歌です。3節までありますが読んで見ます。
1 主が手をとって起こせば、よろめく足さえ
おどりあゆむよろこび。これぞ神のみわざ。
2 主が手をのべてさわれば、とじた目はひらき
ひかりを見るうれしさ。これぞ神のみわざ。
3 ただ主を見つめあゆめば、波にもしずまず
おそれ知らぬ信仰は、これぞ神のみわざ。
この讃美歌は、『ともにうたおう』(1976年発行)の歌詞公募作品から選ばれたもので、今駒泰成(いまこま やすしげ)という方が作詞した讃美歌です。今駒泰成氏は、視覚障碍者の伝道に長く関わっています。その中で、「視覚障碍を負う人の生きる意味は『神のみわざがこの人に現れるため』である」と宣言したイエスの言葉(ヨハネ9章)が、どれほど多くの障碍を負う人たちに希望を与えているかを感じ、この作詞が着想されたと『讃美歌21略解』の解説に書かれていました。
1節に「主が手をとって起こせば」とあり、2節に「主が手をのべてさわれば」とありますが、確かに聖書に示される主イエスの言葉は、主イエスの手の働きを伴っています。それは神の力ある働きそのものを示すことでもあり、とりわけ病人の癒しを通して証しされています。作詞者、今駒泰成(いまこま やすしげ)氏は日本盲人キリスト教伝道協議会の仕事に従事する中で主イエスの言葉の重さを感じ、この歌詞を作ったと言われます。生き生きした信仰が歌われていると思います。ちなみに作曲は新垣壬敏(あらがき つぐとし)という沖縄出身のカトリック信徒の作曲者です。聖餐式の後で歌う81番「主の食卓を囲み」(マラナ・タ)という讃美歌は新垣氏の作曲です。

御言葉の中で、四人の友人たちは、自分のためではなく、病気で苦しんでいる一人の友のために行動しました。屋上に昇り、屋根を壊して彼を吊り下げるという非常識なことまでしました。主イエスは、的外れな所もある彼らの思いと行動を受け入れ、そこに彼らの信仰を見て下さったのです。神の救いのみ業が、私たちの周囲の人々を巻き込んでこのように前進して行くのです。祈ります。

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