12/14説教「神は我々と共におられる」<動画>

12/14説教「神は我々と共におられる」<待降節第3主日>
鈴木憲二牧師
旧約聖書:詩編23編1-6節
新約聖書:マタイによる福音書1章18-25節

讃美歌:280,210,361,459,28
交読詩編:137編1-9節
思い巡らしていたヨセフ
今日は待降節第3主日の礼拝です。今朝の新約聖書の箇所は、マタイによる福音書1章18節から25節の個所からアドベントのメッセージを聞きたいと思います。18節後半に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。使徒信条において私たちが毎週告白している「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」という、いわゆる聖霊による処女降誕の奇跡がここに語られているわけです。先週の礼拝では、ルカによる福音書から、このことを母マリアの視点から聞きました、そこではマリアに天使が現れていわゆる受胎告知をするわけですが、マタイ福音書は、マリアの夫ヨセフの視点で語られています。淡々と書かれていますが、ヨセフにとってこれはとても深刻な出来事でした。彼は、婚約者マリアが、自分によってではなく妊娠したことを知らされたのです。

正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ
まず18節と19節をご覧ください。
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19 夫のヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。
第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。
第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。
第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。
ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。
そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。
それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。
普通だったら怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできないでしょう。事実、旧約聖書の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず」とあります。

主の御言葉
20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。苦しんでいたヨセフのもとに、主の天使が夢に現れて語りかけたのです。天使は彼に、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言いました。そして、マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだと告げ、生まれてくる子をイエスと名付けなさいと命じたのです。つまり主なる神は、マリアはあなたを裏切ったのではなくて聖霊によって身ごもったのだ、だから安心して彼女を妻として迎え入れ、生まれてくる子どもにイエスと名づけなさい、とお命じになったのです。イエスという名前は「神は救い」という意味です。だから「この子は自分の民を罪から救うからである」と語られているのです。マリアが生む子は、神の民を救う救い主となる、救い主に相応しいイエスという名前をあなたがその子につけなさい、と主はヨセフに命じたのです。

ヨセフの信仰の決断
この主なる神の言葉を聞いたヨセフはどうしたでしょうか。彼は、私にはそんなことをする義務も責任もありません、と言って断ることもできました。マリアの妊娠は、彼の全くあずかり知らないところで起ったことです。彼がそのために苦労しなければならない謂れは全くないのです。自分によらずに妊娠したマリアとの婚約を解消したからといって後ろめたいことは何もありません。世間の人々に同情されることはあっても、批判されることはないのです。しかし24、25節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」。つまりヨセフは主なる神のみ言葉の通りにしたのです。マリアは聖霊によって身ごもった、それは常識的にはあり得ないことです。それを証明できる証拠など何もありません。しかし彼は主なる神のお言葉を信じて、マリアを信頼して、妻として迎え入れたのです。そして彼女が身ごもっている子を無事出産できるように心を配ったのです。「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」というのはそういうことを意味しています。そして生まれた子に、主のお言葉の通りにイエスと名づけたのです。このヨセフの、主のみ言葉を信じて、それに従う決断と行動のおかげで、主イエス・キリストは、無事にこの世に生まれてくることができたし、イエスという名をもって成長していくことができたのです。

神の驚くべき恵み
これは驚くべきことです。主イエス・キリストは、神の独り子であられ、まことの神であられます。父なる神は、ご自分の独り子を、弱く貧しい一人の赤ん坊としてこの世に遣わして下さることによって、私たち罪人の救いのみ業を実現して下さったのです。それが主イエスの誕生、クリスマスの出来事の意味であることを、私たちは聖書を通して教えられています。それだけでも十分に驚くべきことです。しかしマタイによる福音書が語っている主イエス・キリストの誕生の次第をよく読むならば、神がして下さったことがさらに大きな、驚くべきことだったことが分かるのです。父なる神はご自分の独り子を、聖霊によってマリアの胎内に宿らせました。そのことによって神は、その独り子の運命を、ヨセフという一人の男の信仰の決断にお委ねになったのです。つまりその子が無事に生まれ、生き延びることができるか否か、ダビデの子孫として生まれるメシア、救い主として、イエスという名をもって生きていくことができるか否か、その全ては、ヨセフが、神のみ言葉を信じてそれに従い、自分によらずに妊娠した婚約者を妻として迎え入れ、その子を自分の子として受け入れ、育てていくための苦労を背負う、というヨセフの信仰の決断にかかっている、主なる神はご自分の独り子をそういう状況に置かれたのです。そこには、主なる神のヨセフに対する、つまりは私たち人間に対する、信頼と期待が示されています。しかしそれは言ってみれば、大きなリスクを伴うことです。神は私たちを救って下さるために、大きなリスクを取って、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。ヨセフは、この神の信頼と期待に応えました。主なる神の言葉を信じて、他には何の証拠もなしにマリアを信じて受け入れ、マリアの生んだ子の父親になったのです。そのことに伴うあらゆる苦労を引き受けたのです。それは人間の思いでは馬鹿を見るようなこと、世間の人々からは、何というお人好しかとあざ笑われるようなことでした。ヨセフがそのように主のみ言葉を信じて従ったことによって、救い主イエス・キリストはこの世に誕生し、主イエスによる救いのみ業が実現していったのです。

インマヌエル
またこのヨセフの決断によって、旧約聖書に語られていた救いの預言が実現したのだとマタイは語っているのです。その預言とは23節の、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉です。インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味です。主なる神が共にいて下さる、そのことが、おとめマリアが主イエスを生むことによって、つまりヨセフの信仰の決断によって実現したのです。天使のお告げによってヨセフは、共におられる神の語りかけを聞いたのです。「私の独り子をあなたに委ねる、あなたがマリアを受け入れてくれなければ、聖霊によって宿ったこの子は生きていくことができないし、救い主としての業を行うことはできない、だからこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父になって欲しい。そのための苦しみを引き受けて欲しい」、そのように神が語りかけておられる御声を聞いたのです。神の独り子の運命を、この自分に委ねておられる、神がそのようにして自分と共におられることをヨセフは知ったのです。インマヌエルとはそういうことです。「神は我々と共におられる」ということを、「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けて下さる」とだけ思っているうちは、インマヌエルは分からないのだと思います。神は、御言葉を信じてそれに従って生きるという私たちの信仰の決断を求め、期待し、待っておられるのです。その期待に応えて御言葉を信じて生きていく時にこそ、神が共におられることが分かっていくのです。
神は時として、私たちに、自分を背負ってくれとおっしゃるのです。あなたが背負ってくれな
ければ、この先一歩も進むことができない、重いだろうけれども、つらいだろうけれども、私を背負って歩いて欲しい、とおっしゃるのです。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、それに応えて、幼子イエス・キリストとその母マリアを背負ったのです。そのことによってヨセフは、共にいて下さる神を知ることができたのです。インマヌエルの恵みを本当に味わうことができたのです。主イエス・キリストがこの世に一人の人間として生まれて下さったことによって、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みが実現しました。私たちがその恵みを本当に味わい知ることができるのは、それぞれが負っている様々な悩み苦しみの現実の中で、神のみ言葉を聞くことによってです。しかも神は私たちに、私の業の一端を担ってくれとおっしゃるのです。私のために重荷を負ってくれとおっしゃるのです。私たちの信仰の決断と行動に、ご自身を委ねて下さるのです。私たちは、ともすると直ぐに、私はダメな人間だから、能力が無いからとと言ってしまいます。直ぐに逃げてしまいます。しかしそうではありません。その御言葉に応えて、主を信じ主に従って歩み出していく時に、インマヌエル、神が共にいて下さるという恵みが本当に私たちの現実となっていくのです。

罪の歴史は変えられた
旧約聖書の時代から長く続く人間の罪の歴史、暗黒の歴史の中に、神は介入されました。イエス・キリストをこの世界に送るというやり方で介入されました。しかし、現代でも世界は人間の目には明るくは感じられません。ウクライナでもガザでも戦闘はまだ続いています。地震、水害、道路の陥没、今年は熊の災害、さまざまな災害が私たちを不安に落とし入れます。しかし、世界は明るく変えられたのです。確実に世界は変えられたのです。主イエスの民がすべて救われるその日まで世界は更に変えられていきます。なにより私たちが変えられていきます。神が私たちの生活に入って来られました。私たちは罪から救われました。罪から救われた私たちと共に神がいてくださいます。怖れるな、と、ヨセフに告げられたように、私たちも、もう恐れることはないのです。今朝の旧約聖書の御言葉は詩編23編1節から6節までを読みました。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
「私たちは羊のように無力で迷いやすく愚かな者だけれども、神はそんな私たちを見捨てず、いつも私たちと共にいて下さり、私たちの羊飼いとなって、綠の牧場、憩いのみぎわに伴ってくださる」とこの詩編の詩人は歌っているのです。
人間は、強がりを言っても、確かに羊のように弱く、たよりない存在なのかもしれません。多くの不安や恐れにおののかざるを得ないものです。殊に「死の陰の谷を歩む」時はそうでしょう。主イエス・キリストが私たちの牧者として、いつも私たちと共にいて導いて下さるのでなければ、私たちはとてもその苦しみに耐えることは出来ません。
神は、御子イエスを遣わされ、主イエスは私たちのもとに来られ、はっきりと宣言されたのです。「わたしはよい羊飼いである」と。そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われ、ほんとうに私たちの罪とがを負って、私たちのために死んで下さったのです。このイエス・キリストの死と復活によって、私たちは、天にある神の牧場・永遠のいこいのみぎわへと導かれるのです。この詩編の詩人が歌っているように、私たちはたとえ「死の陰の谷を行くとも、災いを恐れません。あなたがわたしと共にいてくださる」からなのです。これがクリスマスの喜びなのです。神は私たちと共におられる。神の独り子が世に来られた。そのクリスマスを私たちは心から喜びましょう。 お祈りします。

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