12/21説教「天に栄光、地に平和あれ」<クリスマス礼拝> 子供メッセージ「救い主が生まれた」
鈴木憲二牧師
旧約聖書:ミカ書5章1-3節
新約聖書:マタイによる福音書2章1-12節
讃美歌:248(1-3)、32(1-2)、267(1-4)、256(1-6)、78(1-4),27
子供讃美歌:69
交読詩編:138編1-8節
この聖書の話の中で鮮やかに記されているのは、「拝む」という言葉です。しかし私たちの生活の中で、「拝む」という言い方はあまりしません。キリスト者は祈るとは言いますが、あまり拝むとは言いません。しかし、主日礼拝というのは拝むという字を使っています。礼拝と訳されているギリシャ語は「プロスクネオー」と言い、「前にひれ伏す」とか「前に礼をする」という意味です。ヨハネによる福音書4章には、私たちは「霊とまこと」をもって礼拝する必要があります(ヨハネ4:23-24)。とありますから、わたしたちの礼拝の原動力は聖霊ということになります。主日礼拝にキリスト者達が集まって礼拝する時にも、個人的な礼拝に重点をおく必要があります。教会の一員であってもそれぞれの信徒がそれぞれ神に正しい姿勢で向かっている必要があるのです。この「拝む」といことが、マタイによる福音書が伝えるクリスマスの重要な出来事には含まれているのです。11節にそれがまた出て来ます。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、」とあります。8節にもヘロデの言葉としてこの「拝む」が語られています。「わたしも行って拝もう」。主イエスの前にひれ伏し、この方を拝む。ここにクリスマス、クリストのマス、キリストのミサ、キリスト礼拝があるわけです。「キリスト礼拝」としてのクリスマスこそまことのクリスマスだからです。
ところで、東の方から来た占星術の学者たちは、幼子を探し当て、宝物を捧げ、拝んだというこの聖書個所の外にはどこにも語られている個所はありません。彼らは東の方からはるばるやって来て、母マリアと共にいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、宝の箱からその持ち物の最上の物を捧げ、そして帰っていかれました。それ以後、彼らは聖書のどこにも出てこないのです。この一つの事を成し遂げると、彼らはもうなすべき全てのことをなし終えた人として退場していくわけです。こういう人生がクリスマスにはふさわしいと、著者マタイは書いていると思うのです。本当のクリスマスはこういう生き方と共にあるのではないでしょうか。
私たちが生きるには確かにいろいろな事、いろいろな物が必要です。それは否定できないことです。仙人のようにカスミを食べて生きる事はできません。健康でありたいと切実に思います。また、もっと語学力があったらとも思います。経済的にもっと余裕があればいろいろなことが出来ると思います。大磯クリスマスキャロリングを3年以上もやっていますが、なかなか思うように声が出ないし覚えられません。欲を言えば切りがないと知りながら、いろいろなものが欲しい。またそれを求めます。それが私たちだと思います。
しかし、本当に必要なものは何でしょうか。主イエスがあのベタニアの村で、マルタとマリアの姉妹に迎えられて、接待を受けた物語の中に、まさにその人々にとって本当に必要なものは何かをお語りになったところがあります。「必要なことはただ一つだけ」(ルカ福音書10章42節)と主イエスは言われました。この「必要なただ一つのこと」は、主の足もとに座って御言葉に聞くことでした。このクリスマスの個所で言うならば、「ひれ伏して幼子を拝む」ことではないでしょうか。
「私たちの必要なことはただ一つだけ」主の御言葉を聞くこと。そして、山上の説教の中で主イエスが言われているように、「神の国と神の義を求める」その生き方を生涯続けることだ。それ以上に必要なことはないと思うわけです。
このクリスマスの話の個所では、占星術の学者たちは、東方で見た星が彼らを導き、ついに幼子のいる場所の上に止まった。そして「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されています。
そして、占星術の学者は実際には何人であったのかは書かれていません。彼らの持ってきた宝が、黄金、乳香、没薬の三種類なので通常、3人といわれるのです。占星術の学者と言うよりも「3人の博士」と言った方が分かり易いのでその言い方にさせてもらいますが、この3人の博士たちについては、まことに多くの伝説が生まれ、語り継がれてきています。3人の博士にはやがて名前が付きました。メルキオール、バルタザール、カスパールというのです。この最後のカスパールは、一番年が若くて、エチオピアの出身とされています。このようなヨーロッパの伝説では、この人々は博士、あるいは占星術の学者というよりも、むしろ王であったとされることも多いのです。全世界の権威の代表として、この3人の王が幼子イエスの前にひざをついたという話です。
ところで、こうした伝説はもちろん聖書には関係がありません。聖書が語っていることは、もっと単純なことでありました。ユダヤの人々が、神に関係がない、神に救われるはずはないのだと思っていた異邦人、しかも星占いなどに凝っていた人々が主イエスにお目にかかったと伝えているのです。。
クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生は神話や物語ではなくて、歴史的な出来事です。「東から来た」と言われる占星術の学者は、ユダヤ人ではなく異邦人であったことは確かです。救いには縁がないと考えられていた異邦人にクリスマスの出来事は臨んだのです。ヘロデは懸命になってメシア誕生の場所を探索させ、ミカ書5章1節に基づいてそれがベツレヘムであることをつきとめます。
今朝私たちに与えられた旧約聖書の御言葉であるミカ書5章1節の言葉を、マタイは引用しています。ここでマタイ福音書2章は、生まれたばかりの幼子、ベツレヘムで生まれた幼子はどのようなお方かということを伝えています。それを暗示的に聖書は伝えています。3人の学者が宝の箱を開けて、捧げた贈り物によって表現しているのです。なぜかと言いますと、学者たちは星の導きだけを頼りとしてベツレヘムにたどり着き、ひれ伏して幼子を拝んだ、とあります。捧げた宝物は「黄金」「乳香」「没薬」であった。「黄金」は王に捧げられるもの、「乳香」は神に捧げられるもの、「没薬」は死にゆくものに捧げられるものだと古代の教父たちは教えています。なぜ誕生祝いに「没薬」なのか不思議です。しかし、没薬は主イエスの御生涯の始めと終わりとに用いられています。ローマの兵卒は十字架上のイエスに「没薬をまぜたぶどう酒」を飲ませようとし、ニコデモは主イエスの埋葬にあたって没薬をたずさえてきました。そして、神の独り子誕生において、聖霊に導かれてきた学者たちは、「没薬」を捧げて、幼子の中にその受難と死と王的な復活を示されたのです。全ての人の救いを示されたのです。そして学者たちは喜びであふれたのです。
マタイによる福音書を書いたマタイは、かつてローマのために税金を集める人で、みんなから嫌われていました。そして主イエスに招かれて、人生をやり直す決心をした人です。そんなマタイが記した物語には、理屈では説明のできない「信仰の導き」が流れています。博士たちが星を見て動き出せた背景には、過去に国を失い散らされたユダヤ人たちが、それでも救い主を待ち望み、周囲にも希望を語り続けた信仰がありました。
異邦人の占星術師のあの星が輝いたように、わたしたちにも、今日この不思議な星は輝いています。
この星は、見えない運命の力で動いているのではありません。この星は、主イエスのおられる馬小屋の上に普通ではありえない動きで移動しました。流れ星でもないのに、移動し、消えることなく動き、馬小屋の上で止まったのです。天文学を知らなくても、このような動きを星がすることは自然法則上ありえないことですから、彼らもわかったでしょう。そのことにより、彼らの星に関して知っていた常識は破られました。それは彼らの信じていた見えない運命の力をも破られたということです。この不思議な星は神によって動かされていたのです。神は星の動きさえも支配し、この星を用い、彼らを真の王である主イエスに導かれたのです。
わたしたちもこのような、神の導きを受けます。わたしたちは、神の導きを受けた時に、それは星という形ではないかもしれませんが、自分の常識が破られる。そして自分が頼りにしていた知識や技術が役に立たなくなるほどに破られることもあります。わたしたちは、通常そのようなことがあったときは、驚きも在るでしょうが、足元が揺れ動かされ不安になるのが普通だと思います。自分の信じていた常識、知識が覆されたら不安になると思います。「覆されそう」になったら、ヘロデやユダヤの人々のように、力で保守したくなるかもしれません。しかし、この占星術師の異邦人たちは、完全に覆されたいま、どうだったでしょうか、星が常識的な動きをしていないとき、止まった時彼らは「その星を見て喜んだ」のです。それが10節にかかれています。わたしたちは、自分を捨てることに、地位を捨てることに、恐れを覚えるものです。しかし、神の導きはそれを凌駕されます。その導きの先に、主イエスがおられるのです。真の王なるかたです。その方は、力や恐れによって人を支配するローマのような存在ではありません。その王は力なき、幼子です。その幼子はしかし、異邦人たちを支配します。それは愛によってです。彼らは主イエスに会った時に、突然にひれ伏しました。しかし、恐れでひれ伏しているのではないでしょう。拝まなくては仕方ないほどの喜びにあふれていたのでしょう。自分は見えない力を信じて縛られていた、自分だけを信じていた。そのようなことから、解放して下さった方が目の前におられたのです。ですから彼らはひれ伏しました。そして「黄金、乳香、没薬」をささげたと聖書には書かれています。これらは、魔術のために使われていた道具であるという解釈もあります。そのようだとしたら、ここで彼らは占星術や魔術のためのものをここで放棄したということでしょう。彼らは頼ってきたものを放棄する、それは黄金のように高価なのもでもあります。彼らは、それらを主イエスの前で手放しささげたのです。これらの献げ物の魔術の道具は、主イエスの前では、魔術のために用いられるのではなくで、主イエスのためのものになるのです。幼子が怪我した時に没薬、薬がひつようなのです。この匂いのきつい馬小屋では乳香がその匂いを和らげてくれます。若い夫婦には、経済的には貧しいものでしたが、そこに高価な黄金を与えられ、食べ物を買うことができようになるのです。神は、わたしたちがこれまで頼ってきた愚かなものでさえも、ささげられたときそれを大事に必要なものとしてうけとってくださるのです。
最後に異邦人たちは、星にしたがうのではなく、夢の中の神の声にしたがうものとなり、「ヘロデの元には帰りませんでした」そして、同じ道をも歩みませんでした。自分にたよるという道にも返ることなく彼らは喜びの中を歩むのです。わたしたちも、今神に導かれてこの礼拝堂に集っています。神の光に導かれ、この礼拝堂に来た私たちは、ここで主イエスと出会い、一旦自分の頼ってきた力、能力、知識、すべてを手放し、恐れからから開放され、神に自分を献げ、神の言葉を聞きます。自分のために、自分を信じて歩く道に私たちは、戻りません。それはヘロデの元に戻るということです。わたしたちは別の道、神の言葉に従って、神と共に歩む喜びの道を歩むのです。お祈りします。