12/7説教「神に出来ないことはない」

わたしは主のはしため
今日は待降節第2主日になります。ルカによる福音書1章26節から38節までが今朝、私たちに与えられている御言葉ですが、特に37節,38節を中心に御言葉の恵みを与えられたいと思います。
二千年前、クリスマスの出来事、つまり神の御子の誕生を前もって知っていた人間は、ひとりもいませんでした。これは、神がご計画されたことだからです。ナザレの町に、平凡な田舎の娘が、ひそかに心を痛めていました。マリアはヨセフのいいなづけとして定められていましたが、まだ一緒に暮らしていないのです。身ごもったとすれば、ただ事ではありません。その悩みはどんなに深刻であったことでしょう。天使ガブリエルの語る言葉に、マリアが答えた言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。はしためというのは、女の召使のことです。あるいは女奴隷という意味です。この時のマリアは、私たちが聖母マリアに抱くイメージよりはもっと幼かったのです。しかし、マリアは、そのとき、自分を、全く神のみ手にまかせきっていたのです。私たちは、罪の奴隷になっていたのに、キリストの救いによって贖われたのです。贖うとは、買い取るということです。キリストに買い取られたのであれば、私たちもまたキリストの奴隷なのです。
天使ガブリエルは、マリアのところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28)と。ナザレという田舎町の普通の女性の一人にすぎないマリアには、何が自分の身に起きようとしているのか理解できませんでした。
救い主イエスの受胎という待降節の出来事は、神の御業であり、神が人間を信頼した行為です。人間には何も神の前に信頼に足る資格は無いにもかかわらず神が人間を信じてくださった行為と言うことが出来るのです。神の御業にとっては、マリアが自分に自信がないとか、ナザレという町がどんな町であるかなどは問題ではないのです。大切なのは、神が事を行われる、そのことにほかなりません。
天使ガブリエルはマリアに「恵まれた方。主があなたと共におられる」と伝えたことは、わたしたちにも実現しています。わたしたちが信仰生活をおくっているのも、神の恵みであり奇跡といってもよいのです。わたしたちが洗礼に導かれ、神に礼拝を献げ、あるいは伝道することは神の一方的な恵みの賜物です。「主が共にいてくださる」、つまりインマヌエルという言葉。このことが一番の神の恵みなのです。イエス・キリストがこの世に来られたのは、神が私たちと一緒にいてくださる、という事実を確信させるためでありました。キリスト者にとって、どんな時にも慰められる言葉はインマヌエル、つまり神はわれらと共にいますという言葉ではないでしょうか。神が一緒にいてくださることを、心の底から信じることができたら、何も恐れることは無いのです。クリスマスは、誰もがこの言葉と事実を、心から聞く用意をしなければなりません。人間は最後には一人になります。いくら温かい家族があっても、また交友関係が広く親密でも、最後は生まれた時と同じように一人です。しかし、どのような時にも主イエスだけは、私と共にいてくださる。このインマヌエルの約束は私たちに限りない慰めと希望を与えてくれるのです。たとえ、すべての者が敵になろうとも、主イエスだけは私と共にいてくださる。何と大きな慰めでしょうか。恵みでしょうか。しかし、そうは言っても、実は私たちはクリスマスに慣れきっているのではないでしょうか。当たり前のように思っていることはないでしょうか。「主があなたと共におられる」。この力ある慰めの言葉をアドベントの今あらためて思い返したいと思うのです。
神に出来ないことは何一つない
「神にできないことは何一つない。」という37節の言葉は、普通、神の全能、つまり神は何でもできる、というふうに私たちは考えます。しかし、原文を直訳すると、「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ」となるのです。そこには「言葉」という鍵となるフレーズがあるのです。神の言葉は全て実現する、実現できない言葉は何一つない、ということを言っているのです。それゆえにマリアは、この天使の言葉を受けて38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったのです。神が語られた言葉は必ず実現すると告げられたことを受けて、その神の言葉がこの身に実現しますように」と言ったのです。つまりマリアがここで信じて受け入れたのは、神は何でも出来るという一般的な真理ではなくて、神は語られた御言葉を必ず実現することがお出来になる。それゆえ私に対して語られた御言葉も必ずその通りに実現してくださる、ということだったのです。神が語って下さった恵みの言葉を実現して下さることを知ってこそ、私たちは全能なる神を信じることができるのです。ですから、「神にできないことは何一つない」という言葉をマリアは信じ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とお答えしたのです。だから、私たちにも「キリスト教など信じない」と言っていた人が教会に来るようになる、逆転が起こるのです。聖霊が私たちに臨むなら、神の側には何一つ不可能ということはないのです。
恵みの御言葉は十字架において実現した
神の恵みの御言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と復活において実現しました。神の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、また父なる神が死の力を打ち破って主イエスを復活させ、私たちに罪の赦しと永遠の命の希望を与えて下さったこと、そこにおいてこそ私たちは、神の全能の力を見ます。「神にできないことは何一つない」。そのことは、主イエスの十字架の死と復活においてこそ分かるのです。そしてこの「できないことはない」という神の恵みの言葉が、今ここにいる私たち一人一人にも語られているのです。年若いマリアが「お言葉通り、この身になりますように」とお答えしたように、私たちも、どんなことにも感謝する生きた信仰を持って、主の恵みに生きたいと思うのです。
神は決して黙さない
今朝はイザヤ書62章1~5節までをお読みました。その御言葉から恵みを与えられたいと思います。当時イスラエルの民は戦争に負け、遠い場所に強制移住をさせられていました。バビロン捕囚です。シオンとはエルサレムのことです。この62章は、ユダの民が強制移住が終わりようやく故郷に戻ることができた時代の言葉です。強制移住を終え、ペルシャ王から自分たちの故郷に帰還する許可がでました。人々は希望をもってイスラエルに戻ります。しかし町は戦争で荒
廃し、ボロボロになっていました。戦争に振り回された後の、新しい生活への期待と不安の中に届けられた、預言者イザヤを通しての神の言葉です。ある解説書からの受け売りになりますが、
ある立場の人たちは、この個所は神が現在のイスラエル国を支持していると解釈します。神はイスラエルのために黙っていないという言葉、1節の「エルサレムのために、わたしは決して黙さない。」という言葉ですが、パレスチナとイスラエル国の戦争において、イスラエル側が正しいという根拠にしていると言っています。また2節の「諸国の民はあなたの正しさを見」という言葉、諸国の民はあなたの正しさ知るようになるとは、中東や世界の各国がイスラエル国の方が正しいと認めるようになると解釈をしています。聖書を文字通り解釈することで、神はイスラエルの側に立つと考え、パレスチナへの軍事的支援が正しいことと解釈されています。
しかし聖書を現代のイスラエル国に結び付けて読むことは正しくないでしょう。つまり、この言葉を、イスラエル国にではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止めるべきなのです。私たちはこの個所を、人間全体への語り掛けと理解したいと思います。それでは私たちはこの個所をどう理解したら良いでしょうか。私たちは、神の平和に照らして理解したいと思います。このイザヤの預言の言葉を戦争に傷ついた人々への励ましの言葉、希望の言葉として受け取りたいと思うのです。
1節にある「わたし」とは神の事です。神は決して口を閉ざさない、決して黙さないお方です。「彼女」とはイスラエル国家だけを指すのではなく、私たち人間全体のことです。神は一部の人間だけが輝き、他の大勢の人間が暗く沈んで生きる世界を望んではいません。神はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられるとイザヤは語ります。それが叶うまで、黙っていない方なのです。神は暗さの中にいる人々のために御言葉を注いでくださるお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間から光、希望、夢、命を奪ってきたのが戦争です。しかし神の言葉が戦争に光を照らします。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神の言葉です。神の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神の言葉は、止まることのない平和の言葉です。神は平和に向けて沈黙しないお方です。神はどちらの
側にもつかず、すべての人の平和に向けて黙っていないお方です。神は私たちに平和を語り続けているお方です。2節には「諸国の民はあなたの正しさを見る」とあります。語られているのは私たちが正義で、向こうが悪だということではありません。語られているのは、神の正しさを全員が見るようになるということです。人間の決める正しさ、人間の決める平和はいつも不完全です。人間は自分たちの力で正しさと平和を実現することができないのです。今は不条理で、不合理で、不平等な戦争があります。戦争はいつもそうです。しかし完全である神の正しさと、神の平和の実現は必ず全員に来ます。誰一人漏れることなく来るのです。人間にはどうしても実現できない平和な世界が来るのです。神が全員に正しさと平和を起こしくださる時を「終末」と呼びます。終末とは世界が破滅する時や悪人に裁きが下る時ではなく、神の正しさと平和が全地を覆う時です。その時、世界は新しい名前で呼ばれるような、新しい世界が始まります。神の希望が、光が、平和が全地にあまねく満ち溢れる時です。この個所はその終末、完全な平和が、私たちには必ず来る、全員がそれを見る日が必ず来ると言っているのです。これは平和の約束です。あなたたちには必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持って生きることが出来る恵みが与えられているのです。3節はつぎのような言葉です。
3あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
あなたの神の御手の中で王冠となる。
これは、傷ついた人々が回復される約束です。「あなた」とは、戦争に傷ついた人々のことです。あなたのような傷ついた人がやがて冠、王冠となるとあります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。つまりこれは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。戦争の勝利が王冠になるのではありません。王を建てるのは戦争で傷ついた庶民だということです。神は戦争に傷ついた人たちが平和を求めて新しい王を建てることを望んでいるのです。私た
ちも文字通り受け取るのではなく、傷ついた人々から戦争と、平和と、新しい王を見つめてゆくことが大事なのです。 明日は12月8日、戦前は大東亜戦争と言い、戦後は太平洋戦争と言われる戦争が始まった日です。日本は追い詰められてかもしれませんが、華々しい真珠湾攻撃で戦争を始め、そして4年にも及ぶ戦争で多くのものが破壊され、多くの人が亡くなり、ウクライナ、ガザの戦争をはるかに上回る悲惨な戦争で敗戦を迎えました。大磯にも戦争遺産が多く残されていることを知りました。戦争末期、米軍の本土上陸を阻止するために多くの兵隊と学生の奉仕作業で地下の要塞を作っていたようです。平和を維持するために語り継がれなければならないのでしょう。4節に次のようにあります。
4あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神の前において、人は見捨てられることがありません。神は私たちと一緒にいてくださいます。神が結婚したパートナーのように私たちと共にいてくださるのです。人の結婚にはうまくいかないこともあります。不完全なもので、平和とはいかないものです。しかし神は違います。神は私たちとず
っと共にいて下さるお方です。神が共にいてくださいます。インマヌエルの神が私たちと共にいてくださるのです。
恵みの御言葉の実現
神の御言葉は恵みの御言葉です。そしてそれは神の全能の力によって必ず実現します。そのことを私たちは、毎週の主の日の礼拝において、聖書を通して示され、教えられています。神の恵みの御言葉、約束は、主イエス・キリストの十字架の死と復活において実現しました。神の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、また父なる神が死の力を打ち破って主イエスを復活させ、私たちに罪の赦しと永遠の命の希望を与えて下さったこと、そこにおいてこそ私たちは、神の全能の力を見ます。「神にできないことはない」。そのことは、主イエスの十字架の死と復活においてこそ分かるのです。そしてこの「できないことはない」神の恵みの御言葉が、今この私にも与えられているのです。マリアが聞いて信じたのと同じ御言葉を神は今、私たち一人一人にも語りかけて下さり、私たちの体と心、人生を用いて、その恵みの御言葉を実現させて下さるのです。 お祈りします。

TOP