8/28 説教「ハルマゲドンと呼ばれるところ」

始めに

 今朝は8月の最後の礼拝です。新約聖書の有名な聖句や主だった聖書箇所を説教で取り上げ、マタイによる福音書から始めて、2年以上過ぎて、とうとう新約聖書の最後のヨハネの黙示録まで来ています。コロナ禍や今のウクライナへのロシアの侵攻という世界情勢を踏まえ、少々長めにヨハネの黙示録から、終末の裁きを思い起こす箇所から学んで来ましたが、今日を含めて後3回だけ、9月の第2聖日までヨハネの黙示録の御言から学びます。その後は、11月まで、今年度の教会目標である「祈り」をテーマに、祈りの聖書箇所から御言葉を聞いて行きたいと思います。そういうわけで、今朝は、ヨハネの黙示録16章10節から21節の箇所から御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

怒りを盛った七つの鉢

 ヨハネの黙示録16章は、鉢を持った7人の天使が「七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぐ」場面です。9節までの箇所では、第一の天使が鉢の中身を地上に注ぐと、「獣の刻印を押されている人間たち」に「悪性のはれ物ができた」という。第二の天使が鉢の中身を海に注ぐと、「海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった」という。第三の天使が鉢の中身を川と水源に注いだ。すると「水は血になった」という。第四の天使がその鉢の中身を太陽に注いだ。すると、「人間は、激しい熱で焼かれた」という。これは終末の時に行われる「神の裁き」を意味していますが、この裁きは、私たちの復讐願望を裏返しにしたのではありません。人間の思い、つまり迫害された信徒の思いを超えて、神ご自身の意志に従って「真実で正しい」(7節)裁きをしてくださるということであります。そして、それは多くの場合、人間が行った悪がそのまま報いとなって人間に降りかかるという形で起こるのです。今朝は第五の天使が行ったことから最後の第七の天使の行った出来事までを学びます。

 ところで、ここで記されている災いは、出エジプト記の出来事を思い起こさせます。悪性の腫れ物ができたことも、水が血に変わってしまったことも、闇が支配したことも、蛙が地を満たしたことも、すべて出エジプト記の出来事を思い起こさせます。エジプトの王もまた、少なくともイスラエルの民の扱いにおいては獣の心に生きた。相手を、共に生きる相手である人間を人間として扱わなくなった者の心は獣になっているのです。日本の出入国管理センターで起きたフィリピン人女性に対する扱いは悲しみを深くします。出エジプトの出来事では、非人間的な力の束縛から、神の民、ご自分がお選びになった民を神は解き放そうとなさって、あらゆる手だてを尽くされた。それがエジプトの権力者に対する災いとなって現れたのです。ここでも忘れてならないことは、この出エジプトの民をお導きになった神は、ただイスラエルの民の復讐心にお応えになったわけではないのです。だからその後荒れ野の40年の旅において、絶えずイスラエルの民が問われ続けてきたことは、神の民そのものが神を神として敬い、畏れ続けているかということであり、まさにこの解放の出来事の中で十戒が与えられたのです。

第五の天使

 さて第五の天使が鉢の中にある神の怒りを獣の王座に注ぎました。「獣」とは、自らを神として、教会を迫害するローマ皇帝のことをヨハネは言っているのです。自己を絶対化し悪を及ぼす支配者としてローマ皇帝を見ています。これによって、ローマ皇帝が支配する国は闇に覆われたのです。「人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ」という衝撃的な言葉が語られています。舌をかみ切って死のうとするほどの苦しみもだえということです。それゆえ彼らは苦痛と腫れ物のゆえに天の神を冒瀆するのです。しかし彼らは自分の信仰態度、生活態度を悔い改めることをしなかったとヨハネは言います。このことは世界の現実にそのまま当てはまるのです。ナチス支配下のヨーロッパも、また日本の軍国主義の支配もそうでしたが、今もウクライナを突然侵略するプーチン・ロシアもそうではないでしょうか。かつてのソ連の栄光を思い、思想を絶対化して力にまかせて侵略するのですから。また原発をも脅迫に使っています。悪に支配された国は闇に覆われ、絶望的な苦しみがそこを支配するのです。独裁者が支配する社会は、時代を問わず、それは世界の現実なのです。しかし、ここで注意しなければならないことは、ヨハネの見た幻は現実の歴史の中では、この通りには展開していません。ローマの権力はヨハネが幻で見たような仕方で壊滅することはなかったのです。言い換えれば、ここで殉教者の血をむさぼり尽くすことはなかったのです。キリスト者の血のすべてを流すことはなかったのです。やがて教会が勝ったのです。ローマ帝国は、後のニケア会議でキリストの福音を受け入れたのです。

第六の天使

第六の天使が鉢の中身をユーフラテス川に注ぐと、「川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた」(12節)という。この当時ローマ帝国を脅かせた最強のパルティア人という騎馬民族が、国境の東側に居て、しばしばローマを攻撃しました。ただ幸いにしてユーフラテス川という大きな川があるおかげで攻めるに攻めにくかったといいます。ユーフラテス川は、ローマ帝国にとって、東の国境であり、自然の防壁のようなものでした。しかし、ユーフラテス川の水が乾くことによって、東から来るパルティア人やその他の王たちの道が出来たのです。このことはローマ帝国にとって脅威となることです。しかし、このことに、悪霊どもは、神に逆らう全世界の王たちを集めて、神に戦いを挑むチャンスとするのです。竜の口、獣の口、偽預言者の口からそれぞれ出て来た汚れた三つの霊は、全世界の王たちのもとへ行き、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるのです。汚れた三つの霊が仕掛けて戦争の脅威が現実のものとなったのです。

ここで唐突に15節に、主イエスの次の言葉が記されています。

15――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――

これはどういう意味でしょう。これはおそらく、主イエスが再臨することによって、全能者である神の大いなる日の戦いが起こることを教えているのです。悪霊どもが全世界の王を集めて準備が出来たことによって「全能者である神の大いなる日の戦い」が始まるのではありません。そうではなくて、主導権は、盗人のように来られる栄光の主イエスが握っておられるのです。15節の主イエスの御言葉は、当時の人々が裸で眠っていたことを前提としています。ですから眠っていたら、裸で主イエスをお迎えすることになっています。そのように恥をかくことがないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いだ、と主イエスは言われるのです。

話しは卑近な例になりますが、皆さんはどのような服装で寝ているのでしょうか。二千年前に長老ヨハネのいた小アジア地方(現在のトルコ)では裸で寝ていたと言いますが、日本ではそういう人は少ないでしょう。私はパジャマや寝間着などに着替えずに寝ているので、ある意味、主イエスの言いつけを守っているのかもしれません。これは冗談ですが。

 もちろん、これはヨハネの幻の中の譬えですから、「目を覚まして」いるということは「祈っている」ということで、「衣を身に着ける」とは「信仰を保持している」ことを現わしているのです。主イエスは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、私たちにも準備するようにと警告しておられるのです。そして、その戦いが、信仰の戦い、霊的な戦いであることを私たちに教えているのです。

ヨハネ黙示録の時代のように、激しい迫害のただ中で求められているのは、その迫害や苦難の厳しさに目を向けることではなく、まず、主の来られるその来臨に目を向け、いつでも用意し目覚めていることです。豊かさに慣れ、信仰の自由、政教分離を当然のことと考えられる国にいる幸せに慣れていると、キリストの来臨など頭の中のこととして、現実生活に忙しく振り回される生活からは直接的には縁のない事と考えがちです。その意味では、厳しいキリスト教迫害の中にいる人のほうが、豊かな信仰的恵みを与えられていると言えるかもしれません。そして、自分の身に「キリストを着る」(ガラテヤ3:27)ことが求められています。自分の身にキリストを着ることです。そうでないと、自ら「富んでいる、何の不自由もない」と言いながら「目の見えない者、裸の者」であることに気づかないラオディキアの教会(3:14以下)のようになってしまうのです。

ハルマゲドン

 16節の「ハルマゲドン」という言葉に注目します。「ハルマゲドン」とは、ヘブライ語で「メギドの山」という意味です。メギドとはパレスチナ中部の地名です。『聖書』の巻末に「聖書地図」が付いていると思いますが、その中に「3.カナンへの定住」という地図を見ると、「イサカル」と書いてある左下に「メギド」という地名があります。旧約聖書によると、この「メギド」の周辺で、少なくとも3回の決定的な戦闘が行われました。まず、士師記4章には、女預言者デボラがメギドでカナンの将軍シセラを破ったと記されています。次に、ユダの王アハズヤが将軍イエフと戦ってメギドで死にました(列王記下9・27)。また、ユダ王国で宗教改革を実行したヨシヤ王は、このメギドでエジプトのファラオ・ネコを迎え撃とうとして戦死しました。(列王記下23・29)こうした民族の記憶を呼び起こしながら、ヨハネは終末の時に起こる決定的な戦いを暗示したのです。ヨハネが意味した「ハルマゲドンの戦い」は終末的出来事の最後から2つめの描写の一つであり、終末的災いのクライマックスなのです。『ヨハネの黙示録を読もう』(村上伸著)の中で記されていますが、「ハルマゲドン」という言葉が私たちの印象に残ったのは、オウム真理教の教祖麻原彰晃によってだと言っています。彼はかねてから、「現在の邪悪な社会は徹底的に破壊して、新しい理想社会を作らねばならない」と唱えていたが、やがて「自分たちの正義の集団が毒ガスで攻撃される」という被害妄想を抱くようになる。そして、信者たちに「この攻撃に対抗する手段を持たねばならない」と信じ込ませたという。彼が言う「ハルマゲドン」とは、自分たちが受ける邪悪な攻撃に対して教団の総力を挙げて最終的な反撃を加えるという意味であった。そして「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」を起こして、多くの人を無差別に殺害し、負傷させた。今も苦しむ多くの方がおられるのです。麻原彰晃は、黙示録の「ハルマゲドン」を勝手に曲解して「知恵ある魂の指導の下に必要のない魂を抹殺すること」と解釈していた。一体、「必要のない魂」など、この世にあるだろうか。そして、「必要のない魂」と「必要な魂」とを選別する権限が人間にあるのだろうか。と村上氏は書いておられる。それは、その後、障害者施設を襲った「相模原事件」においても問われていることです。

 歴史上において、支配者が絶対的な権力を握った所ではどこでも、こういうことが繰り返されています。ローマ皇帝を神として礼拝することを強要し、服従しないキリスト教徒を迫害したローマ帝国も同じであったのです。

第七の天使、そして新しい天、新しい地へ

 第七の天使が、鉢の中にある神の怒りを空中に注ぐと、神殿の玉座から「事は成就した」という神の大きな声がありました。19節の「大きな都」とは大バビロンであるローマのことです。ローマが3つに引き裂かれることにより、その支配下にあった諸国の町も倒されることになります。神は大バビロンであるローマに、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられるのです。この様子が、まだ続く17章から19章に渡って詳しく記されています。

 私たちは、黙示録の中で最後の災いの光景を嫌と言うほど読みました。またヨハネの見た幻とはいえ、あまりにおどろおどろしい世界なので、正直疲れて来ました。しかし、黙示録がこれによって終わっていないということを忘れてはなりません。やがて第20章、21章と読み進めると、「新しい天、新しい地」が天から降ってきます。花嫁のように装ったエルサレムの都が見えてきます。「わたしは盗人のように来る」。いつ来られるか分からない主イエスを、私たちはびくびくして待つのではありません。花嫁がいつ現れてくださるかと待ち受ける花嫁のこころに似て、主イエスを待ち受けるのです。だから私たちは獣のこころと戦えるのです。自分の舌をかみ自分のいのちを断ってしまうこころに勝つことができるのです。神をほめたたえることを拒否するこころに勝つことができるのです。主の来臨を迎えるために装う衣は、神の霊が装ってくださるよりほかないのです。

 先週の金曜日、前任牧師の鳥羽和雄牧師と鳥羽徳子牧師から転居通知のハガキを受取ました。こう書かれています。「・・この度、予定しておりましたホームから空室を報じられ、急遽転居をすることにしました。7月20日を目処に99パーセントの処分をすすめられ、諸手続きの完了したのが25日でした。完了の日に、和雄と徳子が共にCOVC(コロナ)に感染し、ご挨拶が遅れましたことをお詫びします。」という内容です。家財道具の99パーセントの処分を迫られたことに衝撃を受けました。ご夫妻は、今も月に一週づつ無牧の教会のために説教奉仕を続けられていますが、これからも、入居のホームから説教の奉仕をされるだろうと思います。和雄牧師は92~3歳だと思いますが先輩の福音伝道者の姿に敬服します。私も疲れたなどと言ってはおられません。神に敵対する戦いがハルマゲドンの戦いです。この戦いにおいて最後に勝利するのは神の愛と真実であり、キリストです。この真理に目を覚ましていましょう。祈ります。

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