9/4 説教「最後の裁き」

はじめに

 ヨハネの黙示録も終わりに近づいて来ました。次週の説教で読む21章は、新しい天と新しい地、また新しいエルサレムが天から下ってくるのを見る幻、その幻のまことに豊かな光景を示され、このヨハネの黙示録のシリーズを終わることになります。それに先立つ今朝の20章は千年王国説についての話と終末を前にしての恐ろしい滅びの幻が書かれているのですが、しかし、それはやがて来る終末の完成の前兆として理解することができ、私たちに対する希望の話でもあるのです。では早速、ヨハネの黙示録20章から御言葉の恵みを受けましょう。

千年王国説

 20章は全体が関連しているので、一体として読むべきですが、7節以降の後半を中心に学びます。ただ「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され」(7節)とあるように、ここにある「千年」とは何かを始めに解説いたします。
「千年王国説」あるいは「至福千年説」とも言いますが、その考えは、このヨハネの黙示録20章から来ているのです。天使が天から降って来て、本当の終末に先立つ千年間、悪魔の活動を抑え込むというのです。サタンは、もうこれ以上人々を惑わすことができないように縛られて、千年の間、底なしの淵に閉じ込められる。そして、信仰の純潔を守って殉教の死を遂げた義しい人たちは生き返ってキリストと共に千年の間統治する、というのである。この考え方は、迫害下にあった初代のキリスト教会の一部に、熱狂的に受け入れられ、中世以降になってからも、ペストなどの疫病の流行や大飢饉、また農民一揆、革命といった社会的な危機が起こった時に、また時代の変動期には、繰り返し息を吹き返したのです。このように「千年王国説」は、社会的不安の中で、現状の根本的な変革と社会全体の救済を望む一種の理想(ユートピア)待望ではないかと思われるのですが、しかし、ヨハネがここで幻を見たと言っていることには大きな意味があるのであって、彼は、迫害の下で苦しみ、かつ動揺している信徒たちを慰め、励ますためにこれらの幻を語ったのです。
ところで、ヨハネが幻として語った「千年王国説」のルーツは、実は後期ユダヤ教の時代にはすでにあったのです。祖国を失い、エルサレム神殿も失って離散したユダヤ人は、安息日に会堂に集まって律法を学ぶという形で信仰を守り続けたのですが、その中でも「この苦しみはやがて必ず終わる」と信じていたのです。ヨハネの黙示録はこの信仰を受け継いでいるのです。
今、私たちも思うのです。私たちの先行きは、一体どうなるのか。我々の世界はどこへ行くのか。宇宙ステーションを建設し、月や火星に人類の新しい生存の可能性を求めて、アメリカも中国も競っている中で、地球上では再び戦争の脅威が起こっています。世界が冷戦の終わりを歓喜したのに、再び冷戦が始まっています。平和を誓った国が再び他国を先制攻撃する道に踏み出そうとしています。またコロナ・パンデミックに伴う社会の大きな変化の中で、国家財政が莫大な借金を抱える中で軍事関連費用が増大化していくのです。その中で地球環境は悪化するばかり、難民と貧困者が増加し差別と憎しみのスパイラルが始まるのです。一体私たちはどこへ行こうとしているのでしょうか。ヨハネの黙示録はその問いに答えるのです。悪しき支配は必ず終わる。神は、正しく生きようと真剣に祈り努力している者たちを決して見捨てられないと、伝えているのです。

ゴグとサタンの敗北

 7節から9節を読みます。

この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

 千年の至福の時が終わると、サタンはその牢から解放され、「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようと」(8節)するのです。ここに出てくる「ゴグとマゴグ」とは何でしょうか。ヨハネは明らかにエゼキエル書38章を念頭に置いています。今朝の旧約聖書の御言葉、エゼキエル書38章1節から3節をお読みします。

主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。」

 「マゴグ」とは、地名らしいのですが、今、ウクライナで戦闘が毎日行われていますが、ウクライナの港町、オデーサや、マリウポリなどが面している黒海という海の対岸にあったと見られています。あるいは小アジアのカッパドキア辺りではないかとも言われます。つまりイスラエルから見ると北に当たる場所です。「ゴグ」とは、恐らくは騎馬大軍団の襲来を象徴的に示す名であると言われます。千年王国の後でも、サタンはゴグを惑わして戦争を起こさせると、ヨハネ黙示録は語っています。「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。」と記されています。歴史上様々な戦争が起きています。戦争の脅威はなかなかなくならない現実があります。しかし、その後で、終末の救いが必ず来る。世界は決して滅びに定められているのではないと、ヨハネは言っているのです。9節後半から10節に次のようにあります。

・・すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。10そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。
天からの火が、サタンにそそのかされたゴグや騎馬大軍団を焼き尽くした。悪魔も火と硫黄の池に投げ込まれたという。

エゼキエルの預言

 ヨハネはエゼキエルの預言が頭にありました。そして幻を見たのです。少し長いですが、エゼキエル書38章18節から23節までをお読みしまします。

18ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたし の憤りは激しく燃え上がる。19わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。20海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這うすべてのもの、および地上のすべての人間は、わたしの前に震える。山々は裂け、崖は崩れ、すべての城壁は地に倒れる。21わたしはすべての山の上で、ゴグに向かって剣を呼び寄せる、と主なる神は言われる。人はおのおの、剣をその兄弟に向ける。22わたしは疫病と流血によって彼を裁く。わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹(ひょう)と火と硫黄を注ぐ。23わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。

 ここには、神の超自然的な介入によって、ゴグを滅ぼされることが預言されています。22節の中程に、「わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹(ひょう)と火と硫黄を注ぐ」とあります。この預言の実現として、神は、ゴグとマゴグの上に、天からの火を注いで、彼らを焼き尽くされるのです。
千年王国の後、サタンが牢から解放されたことは、サタンが願ったことでありますが、それを許されたのは神です。神は、サタンによって惑わされる諸国民、ゴグとマゴグを通して、御自分が聖なることを示されるのです。

最後の裁き

 そして、最後の裁きが来るのです。死者たちは皆、神の御座の前に出て、その行いに応じて裁かれなければならない、とヨハネは言っています。その際、「幾つかの書物が開かれた」(12節)とあります。神の御手のなかにある個別のデータが入っている台帳のようなものかもしれません。そこには、我々人間が生きている間、何をしたか、どういう生き方をしたか、すべてのデータが細大漏らさずインプットされていると言うのです。それを神は瞬時に引き出して裁く。今でいえばインターネットで検索すると、いろいろな事を瞬時に出て来て説明してくれるというイメージでしょうか。そして、もう一つの書物がある。「それは命の書」(12節)と言われる。「命の書」には、救われるべき人々のデータがすべて保存されている。ここに名を記されていない者たちは、「火の池に投げ込まれた」(15節)とヨハネは言っているのです。
キリストは千年王国の統治にあたってすべての権威を討ち滅ぼされました。千年王国の最後には悪魔も滅ぼされました。そして、最後の審判で、最後の敵である死さえも滅ぼし、あらゆる敵をご自身の足もとに置かれました。つまり、この時点でキリストの統治は完了し、その御国は父なる神にお渡しになるのです。最終的には万物も、そして御子イエスご自身も父なる神に従われます。これが、あるべき本来の姿であり秩序だからです。こうして地上におけるキリストの支配が終わるので、現在の天と地は不要になり、新しい天と新しい地が登場することになるわけです。それについては次週の説教になります。

神の選び

 私たちが死んだ後、第一の復活にあずかり、第二の死である火の池を免れることができるのは、決して私たちの行いによるのではありません。神が、私たちを天地創造の前からイエス・キリストにあって選び、その命の書に名を書き記してくださった恵みによるのです。それゆえ、私たちは、最後の審判においてこそ、父なる神とイエス・キリストの御名を心からほめたたえることができるのです。
今日、この後歌う讃美歌449番「千歳の岩よ」は、オーガスタ・モンテギュ・トップレディ(1740-78)というイギリス人の作詞者ですが、彼は当初、ウェスレー派の信徒説教者の影響を受け、英国国教会の聖職者になりましたが、後に、彼は、神の一方的選びの恩寵によってのみ救われるというカルヴァンの教えに感銘し、ロンドンのフランス人カルヴァン派の教会で牧会しました。この「千歳の岩よ」という讃美歌は、『福音雑誌』というカルヴァン派の機関誌に掲載されました。「国家負債との関連における霊的改良のための驚くべき計算」という不思議な題の論文の最後に結論として「千歳の岩よ」という讃美歌詩が置かれているのです。論文の内容は、国家負債が返済不可能であることを論じた後に、同じように人間の罪も神に対して返済不可能であることを論じています。仮に1秒に1回罪を犯すとしたら、10歳の子どもは3億1500万回以上の罪を犯すことになり、20歳では6億3000万回になる。この負債はどんなにしても返済できない。ただキリストだけが律法の呪いから私たちを贖いだし、その血によってすべての汚れをきよめてくださる。私たちは救いに選んでくださる父なる神と、罪を引き受けてくださる子なる神と、キリストへの信仰を与えてくださる聖霊なる神を賛美しなければならない、として、最後に「千歳の岩よ」が置かれています。人間のどんな努力も律法を守ることはできない、ただ永遠の岩なるキリストの血によってのみ救われると歌います。

1 千歳の岩よ、 わが身を囲め、   
裂かれし脇の 血しおと水に      
罪もけがれも 洗いきよめよ。

2 かよわき我は 律法にたえず、   
もゆる心も たぎつ涙も、       
罪をあがなう 力はあらず。

3 十字架の外に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ、
み救いなくば 生くる術なし。

4 世にある中も 世を去る時も、
知らぬ陰府にも 審きの日にも、  
千歳の岩よ、 わが身を囲め。

 私たちが洗礼を受けたことは神の恵みです。ヨハネの見た幻で言えば、命の書に名前を記されている者です。神が私たちを創造の前からイエス・キリストにあって選び、その命の書に名を書き記して下さったのです。すべての人はキリストの十字架によって贖われたのです。その信仰に生きることができるように聖霊の導きを願います。 祈ります。

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