9/11 説教「新しい天と新しい地」

はじめに

 ヨハネの黙示録から御言葉のメッセージを聞くのは、今日で最後になります。マタイによる福音書からヨハネの黙示録まで、新約聖書27巻を、有名な聖句、主だった箇所から説教するということを行ってきましたが、今日で終わることになります。この約3年の期間はコロナ禍の中でありました。会堂での礼拝が出来ず、家庭礼拝という形でメッセージを送り続けたこともあります。その間にはいろいろの変化があり、インターネット環境のある方には、メールで説教メッセージを送信し、それ以外の方には郵送で送りました。また櫻井兄が出来る時にはYouTubeで礼拝映像も送信しています。そして近々、大磯教会ホームページで毎週の説教メッセージを見られるようになります。コロナ禍も結果的には悪いことばかりではなく、便利さも与えてくれたことになります。そして次週からは今年度の大磯教会の主題である「祈りは神との対話である」というテーマで、御言葉の恵みに預かりたいと思います。
それでは、早速、ヨハネの黙示録21章1節から8節の御言葉から、その恵みに預かりたいと思います。

聖書全体が告げる喜びの言葉

 ハンス・リルエというドイツ人が『聖書の最後の書物』という題でヨハネの黙示録の解説書を出しました。彼はヒトラーの政権下でキリスト者を指導して、苦しい戦いを経験した神学者ですが、この書物の中でこう言っています。「聖書全体が語っている福音とは何か、を言い表している言葉は何かと問われれば、それはこの黙示録である」と言ったといいます。特に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節)この御言葉以下の言葉にこそ、聖書全体が告げる喜びの知らせが凝縮していると言いました(加藤常昭著『ヨハネの黙示録』から)。そして、8節までのところに聖書全巻が凝縮している言葉が次々と出てくるのです。それらの言葉はヨハネの黙示録の他の箇所ですでに述べられていたりするのですが、きら星のような言葉です。

新しい天と新しい地

 まず「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節後半)という言葉に注目します。「最初の天と最初の地」とは、古い世界、つまり、私たちの現実世界のことであります。私たちの世界のことであります。憎しみと報復の絶望的な悪環境をどうしても断ち切ることができない私たちの無力な、哀れな世界のことであります。今もウクライナの戦争だけでなく、国内では、政治家の裏の世界、選挙に勝つためには正義もない姿や、晴れやかなオリンピックの裏で利権が動いている姿など。だが、神が創られた世界は、いつまでもこの堕落した状態でいるわけではないという。古い世界は「去っていく。そして、そこには「もはや海もなくなる」と言うのです。「海」とは、黙示録13章では、悪によってこの世界を支配する「獣」(悪しき支配者)が出てくる場所であります。13章1節にこうあります。「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た」と。海に対するイメージが私たちと随分違います。それは不安定な世界というものの象徴として考えられていたようです。その海がなくなる。そして今までとは全く違う新しい天と、新しい地がやってくると言っているのです。ですから、ここで新しい天と、新しい地というのは、今まである新天新地が改良されていくということではなく、新しいものに替えられていくということです。

カイノスとネオス

 ヨハネは「新しい天と新しい地を見た。」と言っていますが、この「新しい」という言葉の意味について『黙示録の世界』(佐竹 明著)で佐竹氏は、次のように解説しておられます。
この「新しい」という言葉は、ここで使われておりますのはカイノスという言葉であります。日本語の新しいという言葉に相当するものは、ギリシャ語では二通りあり、カイノスともう一つはネオスという言葉です。カイノスとネオスは日本語ではいずれも「新しい」と訳されますが、意味は多少違っています。たとえば新しい年という言い方をする場合、これはネオスという言葉を使います。ネオスの新しさは、新しいけれどやがて古くなってしまう、という意味を含めたものです。つまり新しい年を迎えても、新しい年は年の終わりまで新しさを保っていくのではなく、それはやがて古くなってしまう。今は新しいけれどやがて古くなる、それがネオスであります。英語のニューはネオスから派生しています。人間の場合もネオスという言葉を使うことができます。つまり、人間についてのネオスは青年なのです。青年は新しさを持っている、若々しさを持っているけれども、それはやがて古くなってしまう、やがて年をとってしまうという、一種の達観のようなものがこめられています。それに対して、カイノスは絶対的な新しさを意味していると言ってさしつかえないのです。ネオスの相対的な新しさに対して、カイノスは絶対的な新しさ、決して古びることのない新しさを示しています。これが、「新しい天と新しい地」という場合の「新しい」という言葉の内容である、言っています。

 1節後半に「最初の天と最初の地は去って行き」と記されているように、古い世界は消え去り全く新しいものがそこに出てくる。つまり、新しい世界は、古い世界と共存することができない全く異質な世界なのです。

イザヤの預言

 今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉はイザヤ書65章17節から20節までです。17節にこういう言葉があります。

17見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
始めからのことを思い起こす者はない。
それはだれの心にも上ることはない。

 ここで「わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言っていますが、この「わたし」とは神です。神によって新しい天と新しい地が創造されるのです。それによって、始めからのことを思い起こす者はなく、だれの心にも上ることはない、と言っています。つまり、新しい天地の創造は、始めからのこと、すなわち古いものが無くなることと対をなして語られているのです。
預言者イザヤは、万物が更新される日をどんなにか待ち望んだことでしょう。しかしイザヤは、現実の世界を直視して、人間もこの世界も修復は不可能だという絶望的な思いを持ったと思います。修復が不可能ならば、どうしたら良いのでしょう。現状に希望が持てなければ、新たに建設するほかありません。
話は少し飛躍しますが、今、日本は首都を東京以外に移転するのも良いのかもしれません。東京に一極集中する必要がなくなっているし、経済、産業の停滞も、都心の混雑も解消されるでしょう。
この世界に希望が持てなければ、新たに建設するしかありません。ここから、たくましい世界再創造の期待が預言者イザヤに生まれたと考えられます。人間の外科手術は最後の手段ですが、内科の治療では回復不可能と判断されるときに、覚悟の上で決断します。イザヤは、忍耐の限りを尽くして希望を掲げてきましたが、その預言も彼の生涯も終わりに近づいたとき、神を仰いで「新しい天と新しい地」の創造へと希望を繋ぐことができたのでしょう。
ヨハネは、歴史の最後に現在の世界が完全になくなり、そこに新しい天と新しい地が出現することを期待しており、またそれへの信頼において生きていたということができると思います。つまり、歴史が終末において二分されるのであり、そして新しい天と新しい地が出現するということは、今の世と新しい世との秩序が逆転するということを意味します。今の世において苦しい生活を強いられている信徒たちには明るい未来が開ける。それに対して、現在神に敵対して栄えている人たちには滅亡が訪れる。そのような新天新地の出現をヨハネは期待していたのです。

新しいイスラエル

 天と地の一切が新しくされたとき、ヨハネはまた次の幻を見たのです。

更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

エルサレムはもともと、神が人との間に結んだ契約を体現する美しい都でありました。その美しい都が、歴史の経過の中で、しばしば争いの場所、流血の町となりました。だがそういうこともなくなるというのである。人種や宗教の違いによって生み出される争いは過去のものとなり、すべての人が、神の民となる。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや早すぎる非業の死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(3,4節)。
このような新しい天と地が来る。その時が必ず来る。その希望を私たちは持つことができるのです。

目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる神

 ニュースを見たくないような悲惨な事件が毎日起こります。平和を願う人々の祈りや、人々の懸命な努力を踏みにじるようにして、憎しみと暴力の悪循環が際限なく繰り返されています。この悪循環を止めることができない。何故なのか。私たちは深い所で絶望しているからだろうか。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、絶望的な状況の中でもなお希望を持つことについて語った。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8章24-25節)。「目に見えないものを望む」とは、人間の可能性を超えた神の可能性、十字架上で死んだ主イエスを甦らせた神の大能への信仰から来る希望のことです。
希望を棄てた人は、より良き将来を期待することも、他者に善意を持ち続けることも、忍耐することもできなくなります。短絡的になり、自暴自棄になり、直ぐに暴力に訴えようとするのです。それはいつまで続くのか。ヨハネの黙示録は21章以下でこの重苦しい問いに答えている。
神が創られた世界は、いつまでもこの堕落した状態でいるわけではない。古い世界は去って行く。
3節、4節を読みます。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 神と共に住み、神の民となる人の中に、「神に従わない人々」もまた神のものとなると考えたい。人間は変わり得るのです。裁きの対象である人々も神の者となると信じたい。人種や宗教の違いによって生み出される争いは過去のものとなる。すべての人が、神の民となる。神は自ら人々と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや早すぎる非業の死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。このような新しい天と地が来る。その時が必ず来る。それが私たちの信仰なのです。 祈ります。

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