9/18「祈るときには」

はじめに

これから、しばらくの間、祈りについて聖書から主のメッセージを聞いて行きたいと思います。具体的にはアドベントの前の礼拝までということになります。11月の第1主日は就眠者記念礼拝なので別の聖書箇所を考えています。そういうわけで、今日から9回の礼拝説教は祈りがテーマです。大磯教会の今年のテーマであります。
『祈りの精神』(フォーサイス著)という祈りについて有名な本の冒頭で、英国の神学者フォーサイスは「最悪の罪は祈らないことである。クリスチャンの中に誰の目にも明らかな罪、犯罪、言動の不一致を見ることは実に意外なことであるが、これは祈らない結果であって、祈らないための罰である。神を真剣に求めない者は神から取り残される」と言っています。いくつもある罪の一つというのではないのです。むしろ、あらゆる罪の基に、祈らないという事実があるという意味で、最も大きい罪であると、フォーサイスは言うのです。祈ることは誰でも祈るのです。クリスチャンの特権でもありません。熱心さ、と言う点では私たちより熱心に祈る生活をされている方もいるでしょう。これから教会の祈りはどういうものかを学んで行きたいと思います。
それでは、早速、今朝の新約聖書の御言葉、マタイによる福音書6章5節から10節の御言葉から、その恵みに預かりたいと思います。

祈りの生活

もう20年位前になりますが、エジプトに旅行で行った時に、あの国はイスラム教徒が多いわけですが、一日に何度も祈りの時間があって、モスクからも声が聞こえてきます。人々は小さい絨毯を持っていてそこにひざまずいて聖地メッカの方に向かって祈るのです。日本にいるイスラム教徒もそうだと思います。聖書に出てくる生活と似ています。そしてユダヤ教徒も1日3回決まった時間に祈ることが義務づけられています。午前9時、正午、午後3時です。1日のうちに決まった時間に祈りを捧げることは決して悪いことではありません。祈りの時が来れば、人目もはばからずに祈る。まことに熱心なことであります。5節で、主イエスは、祈るとき偽善者のように目立つように祈るな、と言っていますが、現代の私たちは、そのように、偽善者の罪を糾弾する程に祈っているだろうか。これは私自身への問いであります。祈りが大切であることは分かっていても、これほどに祈りに打ち込む生活をしているだろうか。という問いです。まだ信仰を持っていない人と家族であれ、友人であれ、食事をする時に祈らない。またレストランでは人目を気にして祈らない。主イエスが「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」という御言葉は、私たちにとって縁の遠いものなのであろうか。フォーサイスは『祈りの精神』の中で、祈れないのは、祈ろうとしないからだと、はっきり言っています。私たち自身が祈りの中に踏み込んでいく時に、初めて祈りの道が開かれてくるということでしょう。祈りの基本は一人で祈ることですが、私たちは祈りをどこで学ぶのでしょうか。私自身のことを考えてみると、牧師でありながら私は祈りが苦手です。祈りが生活の中に豊かに入っていないということの現れかもしれません。だから祈りの言葉がスムーズに出て来ない。祈りを準備しなければ祈りの言葉が出て来ない。これは訓練すれば出来るようになると思います。祈りの実際例を書いた本もあるし、祈祷書もあります。何よりも祈る習慣をつくることです。長老に選ばれて最初の試練は礼拝司式者の祈りです。祈りのサンプルを差し上げると、皆さん、自分の言葉として上手に祈るようになります。私の父親のことを例にするのは申し訳ないのですが、当時、教会では献金当番の祈りが年に2回ぐらい回ってきました。父は献金当番に当たっている礼拝前の土曜日は落ち着きません。紙に祈りを書いて修正して書き上げます。しかし、礼拝当日、献金の祈りは頭が真っ白になって、全く違うことを祈ってしまったといって、落ち込んでいました。今は、息子の私が、礼拝後に妻から説教の問題点を指摘されて落ち込むのと同じです。

祈ることを自慢しない

さて、今朝の御言葉で主イエスが偽善者の祈りを語っているのは、まったく違う状況です。ここで、主イエスは偽善者が、人に見てもらい、聞いてもらうために、会堂や大通りの角にたって祈りたがることを問題視しているのです。主イエスはこの熱心なユダヤ教徒の祈りの姿勢について指摘されました。その問題性をここで偽善者という言葉で指摘しています。人が沢山集まる所で、人に見られながら祈ろうとする、それが偽善者の祈りです。祈りに慣れて度胸がついてくると、祈りが得意になるのです。熱心さをアッピールする場になるということでしょう。当時の社会において、祈ることは立派な行い、義なる行為、信心深さの現れとして尊敬されていました。主イエスはそのように祈る人々を偽善者と指摘したのです。確かに聖書や信仰についてどんなに知識があっても、祈りがなければ信仰生活とは言えません。しかし、神ではなく人の評価を気にするのであれば、それは祈りの姿勢とは言えないのです。心を神に向けているふりをして、実は人の評価を気にしているのであれば、それは偽善者にほかならないのです。人からの評判、賞賛を得ていれば、既に報いを得ているので、神からの報いはいらないだろうと主イエスは言っているのです。

くどくどと祈るな

7節、8節に次のように記されています。

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

「異邦人」とは、ここではキリスト教の信仰を持たない人を意味しています。信仰を持たない人が祈るというとちょっと変に思うかもしれませんが、キリスト教の信仰を持たない人でも、自分たちの神に神頼みします。あらゆる所に神がいます。そうした祈りのことを念頭において主イエスは、弟子たちに語っているのです。無宗教と言う人でも、事故や不幸な事が続くと神社にお参りに行ってお祓いをしてもらったりします。ユダヤでは7節にあるように、当時の、異邦人の祈りの特徴は、「くどくど述べて、口数が多ければ、祈りが聞き遂げられる」と思っていたようです。言い換えれば、異邦人にとって、祈りとは自分たちの願いをかなえてもらう一種のまじないのようであり、したがって、祈りを自分の目的のために神を利用する手段になっているということだと思います。それではキリスト者の祈りとは何なのか。キリスト者の祈りは、異邦人の祈りと正反対です。神の御前に全てを委ね、自分が持っていた主権を神に明け渡し、御心に従順に従うための祈りであるということです。神の御前に無から始めようとする貧しい心から、主の祈りが告白されるのです。そして、今朝の御言葉で重要な言葉が「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)という言葉です。私たちに必要なことを父なる神はすべてご存じであるというのです。だからくどくどと祈る必要はないというわけです。主イエスは、彼ら、つまり異邦人のまねをしてはならない。と言われました。異邦人は同じ言葉を繰り返し、多くの神々の名前を羅列して祈っておりました。色々な神々の名を呼ぶことによって、その神の力を自分の願いの実現のために利用しようとしていました。祈りを聞き入れてもらうために、くどくどと述べるのです。そのような祈りは自分の願いをかなえてもらうための祈りです。そこでの祈りは、神を自分のために動かす手段なのです。そのような祈りをまねしてはならないと、主イエスは言われます。そして主イエスは、こう祈りなさいと、主の祈りを教えてくださったのです。

御名が崇められますように

だから、こう祈りなさい
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』

最初の一句は「天におられるわたしたちの父よ」と神への呼びかけから始まります。神を父と呼ぶことのできる深い信頼関係によって祈りを始めます。この信頼関係がなければ、祈ることが出来ません。そして「御名が崇められますように」と続きます。御名とは名前です。主なる神のことです。「崇める」という言葉には「聖くする、聖なるものとする」という意味があります。「聖なる」とは、神のものとして区別されたということです。御名を聖とされたのは神ご自身であり、神が聖なるものとされたから、御名は聖なるものであります。だから人はそれを崇めるのです。
主イエスがこの世に来られたのは、十字架の苦しみと死とを引き受け、それによって私たちの罪を赦してくださるためです。御名の栄光は、主イエスが十字架の死への道を歩み通されることによって現わされたのです。神は、独り子イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死ぬことを通して、御名の栄光を現わし、御名を聖なるものとしてくださったのです。そこにこそ、私たちの救い、罪の赦しがあるのです。それゆえに「御名を聖なるものとしてください」という祈りは「神のための祈り」ではないのです。むしろ私たち自身のための、私たちの救い、罪の赦しを願い求める私たちの祈りなのです。神の御名が聖なるものとされることが、私たちの救いなのです。

御国が来ますように

主の祈りの第2の祈りは「御国が来ますように」です。御国というのは神の国ですが、それはある空間領域を言うのではなく「神の支配」ということです。神の支配の到来について祈るように求められているのです。マタイによる福音書4章17節に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と主イエスは語っています。そして12章28節では「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とも語っています。神の支配は私たちの所に来ていると。しかし、私たちの世界の現実は、争いが絶えず、コロナ禍で苦しめられ、政治的な問題や経済的な問題に溢れています。個人の抱える悲しみや苦しみも取り去られません。現実の世界は、とても神の支配する国とは思えないのです。ある人は言います。「御国が来ますように」と願うことは、今はまだ神の国は来ていない、神の支配は来ていないのではないかと。けれども主イエスは言われました。「天の国は近づいた」「神の国は私たちのところに来ている」と言われました。そのことを踏まえて「御国が来ますように」と祈ることを教えられたのです。この現実とのギャップをどう考えたら良いのでしょう。それは私たちが「神の国」「神の支配」をどのようにイメージしているかということです。悲しみも、悩みも、苦しみもない世界が「神の支配」でしょうか。それは私たちがつくり出した「御国」「神の支配」のイメージなのです。そのように考える根底には、神は人間を幸福にし、平安を与えるはずだという思いがあるのです。私たちの思いを神に押しつけることは出来ません。大切なことは神ご自身がどのように私たちを支配なさるのか、ということです。それは神の独り子イエス・キリストが来られたことによって、神が私たちに対するご支配を確立しようとしておられるということです。つまり、神は、その独り子イエス・キリストの十字架における苦しみと死の出来事と復活によってご支配をなさるのです。私たちの現実は、厳しさ、悩み、苦しみ、悲しみがあります。その中で私たちを脅かし、恐れを与える究極的なものは死の支配です。その死を打ち破ってくださった主のご支配を信じ私たちは祈るのです。「御国が来ますように。」そして「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。

御心が行われますように

神の御計画はあまりに素晴らしいので、私たちには理解できないのです。ですから、時に、私たちに理解できないことが起こります。「神様何で!」と聞きたくなるようなことが起こります。その不条理に思えるようなことを最も辛い形で経験されたお方はイエス・キリストです。十字架につけられる前に、こう言われました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)。罪のない神の御子が、十字架につけられるほどむごいことはありませんでしたが、神の御計画は、主イエスによってすべての人に救いを提供し、主イエスご自身がすべてのものの上に引き上げられることでした。したがって、「御心が行われますように」という祈りは、私たちのできる最善の祈りなのです。「一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったとき、完全に清くされたのです。祈りの真理は、自我との苦闘ののちに、最後に、御心のみになることにあるのではないでしょうか。
祈ります。

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