9/25 説教「赦しを求める祈り」

はじめに

秋が、台風と共にやって来た気がしますが、今朝も礼拝に招かれ、神を賛美し御言葉から主のメッセージを聴くことができることを感謝いたします。今朝は、先週に引き続いて主イエスが教えて下さった主の祈りの後半、私たち人間に焦点を合わせた3つの祈りから共に聴きたいと思います。それでは、早速、今朝の新約聖書の御言葉、マタイによる福音書6章11節から15節の御言葉から、その恵みに預かりたいと思います。

必要な糧

後半の最初の祈りは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11節)です。「糧」というのは文字通りにはパンですが、私たちが生きていくのに必要な主食を今日与えてください、と祈るように教えられています。ウクライナでの戦争で、穀倉地帯であるウクライナ、そしてロシアからの小麦が輸入できず、世界は困っています。小麦だけでなく、家畜の餌にもなるトウモロコシも、またオホーツク海の漁場で漁をすることが制限されてもいます。あらゆる物の供給体制が危うい状況です。飽食の時代と言われ、贅沢に慣れ、廃棄食料が毎日相当な量である中で、物価は高騰し、毎日の糧を得ることは容易ではなくなってきています。いつの時代でも糧を与えてください、という祈りは重要ですが、今もまたそうです。

しかし、また、何故、主イエスは、罪の赦しの祈りや誘惑に遭わせないようにという祈りに先立って、なぜ肉体的な食べ物をめぐる祈りを教えたのでしょうか。食べ物のことなど、卑しいことのように思われがちな祈りを、なぜここに置かれているのでしょうか。確かにパンやお米、肉、牛乳もなければ、飢えてしまって死んでしまうから、人間のための祈りのトップにこの祈りを置いたのでしょう。

けれども、実際には、私たちは別に神にお願いしなくても、食べる物にそれほど困っていないと思うかもしれません。年金生活の中で大きな支出を出来るだけ抑えても、つましくすれば食べることは何とかなると思っているかもしれません。たまにはレストランにも行ける。回転寿司ぐらいなら楽しめる。孫が来たときぐらいご馳走できる。真っ先に祈り求めることではないと思うかもしれません。しかし、主イエスの時代はそうではありませんでした。まさに、その日の食べ物のために必死で働かなければならない人が沢山いたのです。今日の糧を祈り求め、ようやく食事が出来、神の恵みに感謝するというのが実情だったのです。この祈りは、そのような状況の中で教えられたのです。

神の言葉という糧

食欲があることは幸いなことですが、病気で入院して普通に食べることが出来なくなることもあります。健康が衰えてゆけば、次第に食事も取れなくなってきます。その時に、私たちを本当に生かしているもの、養っている糧が食料だけでないことがはっきりしてきます。食物という糧によってしか養われていない人は、それが取れなくなる時に全てを失うのです。しかし、魂を養う糧を得ている人は、なおそこで、豊かに養われ、力づけられるのです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、そのような魂の糧、私たちを本当に生かす糧を求める祈りでもあると言うことです。主イエスはその糧を、天の父なる神に祈り求めるようにと教えて下さったのです。この祈りが、私たちの、自分のための祈りの冒頭に置かれる必要があるのです。

マタイによる福音書4章に主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面が記されています。

主イエスは荒れ野で誘惑に遭われました。四十日間、昼も夜も断食した後のことです。主は空腹を覚えられました。そこで主イエスはまず、パンの誘惑に遭われました。誘惑する者が来て、主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言いました。パンのことが第一に出てきました。主イエスのお答えはこうです。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応答しました。主イエスは旧約聖書、申命記8章2~3節の言葉を引用して答えられました。神が荒れ野でイスラエルにマナをお与えになったことがここにつながっています。主なる神はイスラエルを飢えから救おうとされたのですが、本当の目的は、人はパンだけで生きるものではなく、主なる神の口から出るすべての言葉によって生きることを教えることにありました。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、パンを求める願いだけでなく、神の言葉をも求める祈りでもあるのです。聖日ごとに礼拝を献げ御言葉の糧を頂いて、私たちは生きることが出来るのです。

負い目と罪

 私たち人間に関する祈りの2番目は次のようなものです。

12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

先ほど祈った「主の祈り」の言葉で言うと、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りになります。今日の聖書の言葉と違うところは、いつも祈っている「主の祈り」が「罪」と言っているところが「負い目」となっていることです。負い目は罪と言っても良いのですが、なぜここで負い目と言っているのでしょうか。それは、自分に負い目がある人を、私たちが具体的に赦す必要があるからです。必要なパンを求める祈りの後に続いて祈るように教えられているのはそのためです。必要な食料を毎日確保するために祈るように、具体的に罪の赦し、負い目から赦していただく祈りが必要なのです。自分に負い目のある人を赦すことが大切なのです。

負い目というのは「借金」ということです。口語訳聖書では「負債」となっていました。皆さんは借金を負っていますでしょうか。家を建てたりマンションを買ったりする時、多くの人は住宅ローンを組みます。これも借金ですね。しかし、人生にはいろいろな事が起きます。借金を払えなくなる事態も起きるのです。

人生いろいろ

昨日の読売新聞朝刊に「子育てノート」という記事に、ベストセラー「ホームレス中学生」の著者で、お笑いコンビ「麒麟」の田村裕(ひろし)氏の事が載っていました。子どもの頃、何不自由ない暮らしであったそうですが、小学5年で母親が病死、それ以降、父親のリストラなど不運が重なり、中学2年の夏に自宅が差し押さえられたそうです。父親が蒸発する前に子どもたちに言った一言が奮っています。「厳しいとは思いますが、おのおの頑張って生きてください。解散!」父親はそう告げて、蒸発。中学生の裕少年は、一人きりで約1ヶ月間、公園で生活したそうです。・・。人生は何が起きるかわからない。順風満帆に歩んでいてもふとしたことで踏み外す可能性があるし、逆にどんな状況からでもはい上がるチャンスはある。「子どもを信じて、『自分の人生、自分でつかみ取りや』くらいの気持ちで子育てをしてると、すごく楽しいし楽です、はい」とポジティブに文章を締めていたので、元気をもらった気がしました。

借金を免除する

ところで、主イエスは何故、罪を「負い目」という言葉で言っているのでしょうか。負い目、つまり借金は返さなければならないものだからです。返すまでは、負い目、借金が残るのです。罪を犯すことにおいてもそれと同じです。罪に対してはその償いが求められるのです。それは隣人との交わりにおいても同じです。相手に対して負い目を負ったり、相手が自分に対して負い目を負うこともあります。それによって人間関係が破れてしまうことがあります。それを修復するためには、やはり犯したことの償いが必要になります。心から反省して詫びること。そして相手に与えた損害や傷をできるだけ癒やすための努力をすることが必要です。それが問題解決の道です。ところが私たちはなかなかそれが出来ません。自分が人に対して罪を犯した、という状況においても、なかなか心から詫びることも、償いをすることもできないのが私たちの姿です。反対に私たちが、人が自分に罪を犯したという状況の中では、相手を絶対に赦せないと思ってしまうのです。相手がちゃんと非を認めて、心からあやまり、償いをしない限り、赦すことは出来ないのです。いや、どれだけ謝っても赦さないかもしれません。私たちはお互いにそのような思いを抱きながら生きているのではないでしょうか。罪の負債を数え合いながら、そして相手の罪には腹を立てるようにして生きているのです。

人を赦すことの難しさの例として、私自身の体験をお話します。私は市役所を40歳直前で辞め、名古屋近辺の都市へ引越しました。ある会社に勤めましたが、たまたま、友人が東京で事業を立ち上げ、営業の範囲を広げるために名古屋に営業所を作ることになり、私も参加することにしました。名古屋駅に近いビルの一室を借りて営業所を立ち上げ所長として活動を開始しました。その会社も3~4年で40人位の従業員を抱え発展し、顧客サービス関連の出版社として成長しましたが、バブル崩壊と共に仕事が減り資金繰りが苦しくなりました。私は生活資金のために確保していたお金を友人の事業に融資しましたが、結局、会社は倒産してしまいました。債権者が押し寄せる中、無理して半分は回収出来たのですが、全額は回収できません。友人関係にひび割れが入りました。しかし、それでも、その後も友人である倒産した社長から毎月、分割で返済をしてもらったので、数年後、残りの借金は帳消しにしました。その時、借金回収のつらさを味わった思いです。その後、さまざまな人生遍歴の後、今は牧師として用いられていることが不思議であり、神のなされることに驚きます。

一万タラントン赦されて

マタイによる福音書18章21節以下の譬えは心に響きます。ある王様に、一万タラントンの借金をしていた家来が、その借金を赦してもらい、帳消しにしてもらいました。ところがその人が、自分に百デナリオンの借金をしている人を赦さなかった。それを聞いた王は怒って、彼に対する借金の帳消しを取り消しにした、という話です。ここでは借金とその帳消しが罪とその赦しを表わすたとえとして用いられています。一万タラントンというのは、一生かかっても絶対に返すことはできない莫大な金額です。それに対して百デナリオンというのは、百日分の賃金ですから年収の三分の一ぐらいの金額です。それは相当な額であると言えるでしょうが、一万タラントンに比べれば、僅かな金額でしかないのです。王様は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言ったのです。神に自分の罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すこととの関係がここに示されています。「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りに「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉を付け加えて祈るように教えてくださった、主イエスの人間への深い愛を感じるのです。

私の罪は常に神の前に置かれている

今朝の旧約聖書の御言葉は、詩編51篇1節から6節を読みました。これは悔い改めの詩編と呼ばれるものの代表的なものであります。5節、6節に次のような表現があります。

あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。

この詩編は、王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バテシバを奪った罪を預言者ナタンに責めら れ、悔い改めた時のものとされています。しかし、ここで注目したいのは、もし自分の犯した罪を悔い、謝罪するとすれば、何よりもウリヤに対して「すまなかった」と言うべきです。また、信頼を裏切った国民に対して謝罪すべきでしょう。しかし、ここでは「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し・・・」と述べています。ただ神に対して罪を犯した、と言うのです。当然、不法を犯してしまった相手に対する罪を悔いる思いがなければなりませんが、私たちの罪が、根本のところで、神との交わりをそこなったことにあると捉えているかどうかが問われるのです。私たちは神の愛の真実と深さを示される時に、初めて罪の大きさに気がつくことができるのです。それは、主イエス・キリストの十字架の死においてです。キリストの十字架こそ、神が私たちと関係を持ち、関わってくださった場です。そこにおいて神はその独り子の命を、私たちの罪の赦しのために犠牲にしてくださいました。私たちの罪の大きさはその主イエスの十字架においてこそ現れています。私たちは、贖いの神の愛を知ったとき、神に祈ることによって真に自由な人生を送ることが出来るのです。 祈ります

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