10/2 説教「ゲツセマネで祈る」

はじめに

今日は10月の第一聖日です。早いものでクリスマスまであと3ヶ月もない時期になりました。コロナ禍もまだ終息しませんが、社会活動は活発になって来ています。今日の10月の役員会でクリスマス委員会についても話し合いますが、穏やかな中でクリスマスを祝えることを願っています。さて、今日も聖書の祈りの御言葉から主のメッセージを聴きたいと思います。
それでは、早速、今朝の新約聖書の御言葉、マタイによる福音書26章36節から46節の御言葉から、その恵みに預かりたいと思います。

苦しみと霊的戦いの中で祈られた

主イエスは、最後の晩餐の後、弟子たちと一緒に、祈るためにゲツセマネという園に行かれました。ゲツセマネというのは「オリーブ油搾り場」という意味です。オリーブ山とも言われます。そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけを連れてさらに奥に進まれます。さらにご自分だけ少し離れた所に行かれ、うつ伏せになって祈り始められました。主イエスはそこで「悲しみもだえ始められた」(37節)とあります。そして弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずに、わたしと共に目を覚ましていなさい」(38節)と言われました。主イエスは、かつて、ペトロとヤコブの兄弟だけを連れて高い山に登られました。そこで、光輝くお姿に変貌され、モーセとエリヤが主イエスに仕えるという光景を見せられ、ご自分が「神の子」であることを示されました。この山上の変貌の記事は主イエスが復活される前で一番主イエスが「神の子」であることを強烈に示された記事であると言えます。しかし、今朝の箇所が示す所には、その神々しいお姿と全く正反対の弱々しい主イエスのお姿が記されています。このことは、主イエスが、「神の子」であると同時に「人の子」であることを示しています。主イエスは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39節)と祈られました。「この杯」とは、これから起ころうとしている受難、十字架の死のことであります。できることでしたら十字架につけられなくてよいように、他に道があるのでしたら死ななくてもよいようにして下さい、と切に祈られました。なぜそのように祈られたのでしょうか。世の中には、立派に死んでいった人々がいます。真理のために毒の杯を弟子たちの前で飲んだソクラテスがいます。千の利休のように秀吉の命令に、自分のプライドを持って死を選んだ人もいます。主イエスの弟子をはじめ数え切れないほどたくさんの弟子たちが堂々と殉教していったのです。その本家本元の主イエスが一体死を前にして、何を恐れられたのでしょうか。主イエスはこの期に及んで、十字架の死を恐れたわけではないのです。勇気の欠乏によるのではなく、その肉体の苦痛を恐れたわけでもないのです。それは、十字架の苦痛の特別な意味をよく知っておられたからです。全人類の罪を一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架に架けられるのです。その結果、今まで父なる神との交わりの断絶を経験されたことのないお方が、神の怒りを受け、捨てられ、断たれるのです。それは誰も味わったことのない苦しみです。主イエスは肉体の苦痛を恐れたのでも、死ぬことを恐れたのでもなく、死ぬことを悲しまれたのです。恐れたのではなく悲しまれたのです。主イエスは「悲しみもだえ始められた」(37節)と記されているように、悲しまれたのです。このことに思いをいたすことが大事だと思うのです。

悲しみはそれぞれに悲しい

私たちの悲しみにはいろいろな悲しみがあると思います。何か大きな失敗をしてしまったとか、人から陰口を叩かれたり、面と向かって悪口を言われ傷付くことも悲しいことです。病気が人に理解されない苦しさと悲しみもあるかもしれません。しかし、何と言っても、一番深い悲しみは、人と別れるという悲しみ、愛する者を失う、死なれてしまう、という悲しみではないかと思います。それは、確かに経験した人にしか分からない悲しみでしょう。私が経験したことですが、牧師になる遙か以前、30年位前ですが、ある県で工場や倉庫の建物管理の仕事をしている時でしたが、鉄工場として建物を借りて、仕事をしていた人がいました。私は、仕事の一環として家賃管理もしていましたが、その鉄工場は賃料を滞ることが多くて毎月のようにその社長の自宅に家賃の督促と集金に行っていました。社長の奥さんがいつも対応していました。ところがある時、ニュースで、その鉄工場の鉄の鴨居に中学生が首を吊って亡くなったということを知りました。中学生は、いつも集金に行っていた社長の息子でした。その息子が学校でいじめにあっていて父親の工場で亡くなったのです。いじめのことが大きく社会問題になりました。そのことがあって、暫く後に、そのお宅に集金にも伺いましたが、泣きはらした奥さんの顔が変わって見えるほど痩せて衰弱されていました。1年経っても回復することはありませんでした。悲しみのどん底にあったのです。
もう一つの例ですが、これはある説教者が語っていたことです。その説教者である牧師と親しい牧師さんのご家族の悲劇なのですが、その牧師夫妻には三歳か四歳になるお子さんがいて、ある時、隣の家の池にはまって亡くなってしまったそうです。説教者である牧師は、親しい友人であったので、一年くらい経ってそのお子さんを亡くされた牧師の家に一晩泊めてもらったそうです。友人の牧師はさすがに牧師ですから、落ち着いていたそうですが、奥さんの方はいまだにその悲しみから立ち直れなくて、彼が行っても顔を出さなかったそうです。一年経っても、外に買い物にも行かなかったそうです。その時、子供を亡くした牧師がこんな話をしたそうです。子供が亡くなったときに、近くの教会の牧師がおくやみにきて、自分も同じように子供を失っているから、あなたの気持ちがよくわかると言ったそうです。そして一緒に讃美歌を歌いましょう、お祈りをしましょうといって、慰めようとしたというのです。それは彼にはとてもわずらわしく、不快であったと言うのです。
その時、彼は思ったというのです。こういう深い悲しみを経験してみて、悲しみというのは、みなそれぞれに悲しいのであって、同じ悲しい経験をしたからといって、他人の悲しみがよくわかるなんてことは到底言えない、そのことがよく分かったというのです。愛する者を失うというのは、それほどに深いのです。

主イエスは悲しみもだえられた

主イエスにとってゲツセマネの園での「わたしは死ぬほどに悲しい」と言われた悲しみは、どういう悲しみだったのでしょうか。今日の聖書箇所の次からは、十二弟子の一人であるユダに手引きされて祭司長たちや群衆が主イエスを捕えにくる場面が記されています。主イエスは、いわば敵の手に引き渡されようとしているのです。サタンの手によって殺されようとしているのです。それは神から引き離されるかもしれないのです。主イエスはこう祈っています。「自分はどうしても今サタンの手に陥って死にたくはない。わたしを十字架で死なせないでください。」と。そしてその後、こう祈ります。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と。わたしは父なる神に従います。なぜなら、これがあなたの御心ならば、これがあなたのご意志であるならば、それはあなたがわたしを見捨てていないということだからです。だから安心して死んでいけます。これはあなたの御心なのですか、あなたが望んでおられるのですか。と祈りの中で父なる神に問うているのです。しかし、この時、父なる神は主イエスに何一つ答えようとしないのです。父なる神は全く沈黙しているのです。
繰り返して言いますが、主イエスはただ死ぬことを恐れたのではないのです。悲しまれたのです。この死が神に見捨てられることになるのではないかと思い、悲しまれたのです。それは主イエスにとって本当に悲しいことだったのです。
それに対して私たちはどうでしょうか。私たちは神から見捨てられることを怖いと思うかもしれません。しかし悲しいと思うだろうか。神に見捨てられることを怖いと思うのは、見捨てられて地獄に突き落とされるのではないかと恐れるからではないか。それは怖い目にあいたくないというだけの話しです。私たちは本当に神から捨てられることを悲しいと思っているのだろうか。人から捨てられること、人から裏切られることは悲しいと思うかもしれないし、口惜しいと思います。そのために、人から捨てられないために、また社会から捨てられないために、私たちは最後のところでは、教会も神も捨てることすらあるのではないかと思うのです。私たちは時として教会の中でも、人間関係につまずいて、それがいやになって教会から離れ、信仰を捨ててしまうこともあるのです。都合のいい口実で信仰から離れることだってあります。神に祈ることはどうでもいいのであって、やはり人間関係が大切だと、本心思っているのではないか。結局は自分だけがかわいいのではないか。まさに私たちの罪はそこにあるのです。自分さえ良ければいいという、ひそかな自己中心性、それが私たちの罪ということです。聖書で言っている罪は、何か悪いことをしたとか、不真面目な生活をしたとかいうことではありません。罪は神との交わりの破壊です。関係性の破壊です。私たち人間は、そのことがどんなに悲惨で、悲しいことかに気がつかないのです。神はそのことを私たちに分からせるために、神は御子イエスを十字架で死なせたのです。神に見捨てられることがどんなに悲しいことであるか、そして、それはどんなに悲惨なことであるかを分からせようとして、主イエスを十字架において見捨てられたのです。その主イエスの悲しみを知ることによって、私たちは自分の罪を知るのです。それ以外に私たちは自分の罪を知ることが出来ないのです。

主の復活こそ神は見捨てない証し

しかし、父なる神は主イエスを見捨てたままにはしませんでした。神は三日後によみがえらせたからです。主イエスの復活は、神は主イエスを最後には見捨てなかったということです。そして、それはつまり、私たち人間、私たち罪人である人間を神は見捨てなかったということの証しです。そして、大事なことは、神はそのことを主イエスの十字架という悲しみを味あわせることによって、そのことを私たちに示してくださったのです。それは十字架なき復活ではなく、十字架を通しての復活です。一度徹底的に神に捨てられる悲しみを味あわせて、その上でその悲しみを慰めてくださった、それが主イエスの復活です。主イエスは山上の垂訓の中で「悲しんでいる人は幸いだ、彼らは慰められるだろう」と言われました。悲しみを癒やすのは、関係を修復する愛しかないのです。その一番深い愛をもっておられる神によって、私たちの悲しみは慰められるのです。

傷ついた葦を折ることなく

今朝私たちに与えられている旧約聖書の御言葉はイザヤ書42章です。これは、イザヤの時代から100年以上後、バビロン捕囚に苦しむユダヤの民に対するメシアによる赦しと解放についての預言を語っています。第2イザヤと言われている箇所ですが、主イエスが伝道のご生涯の中で何度も引用されている箇所です。42章3節だけもう一度お読みします。

傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。

葦という植物は、エジプトやイスラエルの低湿地に生える植物ですが、日本でも夏の日よけの原料に茎が使われます。「傷ついた葦を折ることなく」というのは、折れやすい葦を折れないようにやさしく扱うという意味です。また、灯心とは、当時、灯火(ともしび)の油の芯に使われる亜麻という植物の繊維で、不純物が多い灯火はすぐ捨てられてしまいがちでありましたが、不純物を取り除いて長く持たせるという意味が込められています。神に反抗し、裁きとして、50年を超えるバビロン捕囚で傷みつけられたユダヤの民に対して、メシアは、やさしく労り、新しい命を与えてくださるという希望のメッセージを詩人は歌っています。脆く、精神的にも肉体的にも生きにくい人たちに対して、主イエスは、憐れみをもって接しられました。私たちも皆、弱く、ちょっとしたことで折れやすく、傷つきやすい人間です。
主イエスはゲツセマネの園で、父なる神に祈り抜かれ格闘されました。そして父なる神の決定を受け入れられました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がおこなわれますように」と。それは罪人である人間のためです。弟子たちは、すぐ近くで眠りこけています。なんという皮肉な光景でしょうか。しかし、神は、私たちが何も知らないで眠りこけている時にも、父なる神は、イエス・キリストを通して救いの御業を始めておられるのです。主イエスは、三度も同じ言葉で祈られた(44節)と記されています。「あなたの御心がおこなわれますように」というのは、「主の祈り」の言葉です。また、弟子たちに「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」(41節)と言われた言葉も「誘惑に合わせず悪いものから救ってください」と言う「主の祈りの言葉」を思い起こします。主イエスは、弟子たちにそのように言いながらご自分に言い聞かせておられたのかもしれません。主イエスも誘惑と闘われていたのです。
主イエスは、いつも一人で祈る時をもっておられました。ゲツセマネの祈りもこうした日々の土台の上になされた祈りです。私たちも主イエスが示されたように日々の生活の中で、父なる神と交わる祈りの時を多く持ちたいと思います。 祈ります。

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