10/9 説教「気を落とさずに祈る」

はじめに

日本の気候は春夏秋冬という季節がはっきりしていて変化に富んでいます。毎年思うのですが、夏から秋になるときに急激に寒くなります。私も慌てて布団を一枚増やし、ストーブも出しました。そして、もうじきにクリスマスが来ます。今年のアドベントの開始は11月27日の日曜日からです。それまでの間、今日もですが、聖書が語っている祈りの御言葉から主のメッセージを聴きます。それでは、早速、今朝の御言葉、ルカによる福音書18章1~8節から、その恵みに預かりたいと思います。                               

やもめと裁判官

「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と記されています。裁判官は法に違反し、犯罪を犯した者を裁くという、大変な権力を持っています。この裁判官は、人を人とも思わず、神を神とも思わなかったとあります。6節では「不正な裁判官」と言われています。傲慢になっていたのでしょうか。そこへ、一人のやもめが、この裁判官のところへ来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言ったというのです。しかも、何度も何度も来たというのです。やもめというのは、当時のユダヤの社会では、社会的な地位が低く、あるいは無力な存在でした。このたとえの中のやもめは、何か深刻な問題を抱えていたのでしょう。誰かとのトラブルがあり、大きな不利益を被っていたのでしょうか。もしかすると、夫が残してくれた家が、借金の担保になっていて、家が取られそうだったのかもしれません。卑劣な要求をされていたのかもしれません。命の危険があったのかもしれません。その理由は分かりませんが、やもめは足しげく、ひっきりなしに、この裁判官のところにやってきて、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と頼んだと言うのです。現在とは制度が違いますから、神殿で行う調停制度のようなものであったかもしれません。この裁判官は、自他共に認める悪い裁判官ですが、最初は取り合おうとしなかったのですが、このやもめが、あまりにもしつこく、足しげくやってくるので、うるさくて仕方がないのです。激しいのです。やもめは必死でした。そこで裁判をしてあげることにしたというのです。そこで、主イエスは言いました。神を畏れず、人を人とも思わないこの裁判官でも、熱心な願いには負けるものだ。まして、神は、選ばれた民であるあなたがたのために、正しい裁きを行わずに、放って置くはずはないではないか。と言われたというのです。つまり6節以下の主イエスの解説によれば、この裁判官は神に譬えられているのです。しつこい位に神に祈り求めるならば、神は答えてくださると言っているのです。

しかし、聖書に語られるこの裁判官は神を畏れていない。神を神とも思わないから、人を人とも思わないのです。しかし、裁判官に限らず、すべての裁きは神を畏れることから始まるのです。最後には神との関わりがどうかが問われるのです。真実に神を畏れて、その御心にかなう判定をするかどうかが問われてくるのです。この譬えの物語に、主イエスは神の姿を重ねておられます。そこで何と言われたか。「まして神は」と言われました。7節です。

7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

著者ルカは、これは失望しないで常に祈るべきことを主が教えられた譬えだと思い、主の譬えを書き記したに違いありません。

気を落とさずに絶えず

 主イエスはこのようなたとえ話を何のためにお語りになったのでしょうか。1節の最初に語られているように、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるためでした。主イエスはこのやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ておられるのです。ここでは「気を落とさずに」という言葉が大切です。私たちは、祈るとき、気を落としてしまうことがあります。それは、祈っても自分を取り巻く目に見える現実がいっこうに変わらないという経験の中で起こることです。私たちを取り巻くこの世の現実は厳しいものであり、祈ってもその現実がどうなるものでもない、と思ってしまうのです。目に見える現実の重さ、その圧倒的な存在感に、神に祈り求める心が押しつぶされてしまいそうになるのです。私たちが置かれているそのような状況を主イエスは、神を畏れず人を人とも思わない裁判官の下にいるやもめの姿によって描いているのです。しかし、彼女の正当な訴えはことごとく無視され、取り合ってもらえないのです。それはまさに気落ちさせられずにはおれないような現実です。もう訴えても無駄だ、どうせ相手にしてもらえない、とあきらめてしまっても不思議ではない事態です。私たちは皆、それぞれ事柄は違っていても、まさにそういう現実の中を生きているのではないでしょうか。しかし、このやもめは、そのような現実の中で、気を落とさずに絶えず求め続けたのです。

今朝の説教題は「気を落とさずに祈る」とつけましたが、これは新共同訳の言葉です、新しい聖書協会共同訳では「絶えず祈るべきであり、落胆してはならない」となっています。そして口語訳聖書では「失望せずに常に祈る」と訳されています。どの表現も、意味としては同じでしょう。加藤常昭説教集『ルカによる福音書3』に、「失望せずに」ということの説明がありますので紹介します。

この1節の「失望せずに」という言葉は、原文を読むと、「疲れないで」という意味でもあります。「飽きてしまわないで」、「倦み疲れないで」ということです。私どももまたすぐに祈りに飽きる。祈りにくたびれてしまう。実際には5分間といえどもひたすら祈りをすることは難しい。集中が切れる。せいぜい2,3分の祈りに終わる。5分間、祈りの姿勢をとることはやさしくても、心がひたすら神に向かっていることが難しいのです。まして10分、15分と祈るということは難しい。その間、ひとりごとはいくらでも言い続けることはできるかもしれないけれども、真実な祈りの言葉としてそれを語り続けることはほとんど不可能に近いかもしれません。それを毎日続けようとすると疲れてくる。・・・飽きてくる。そうした倦み疲れる経験を重ねる教会の人々のために、この主イエスの言葉を記録したルカは、しかし、この主イエスの譬えの中でやもめが決して模範的な人間として描かれているのではないことに、やはり心惹かれていたのではないでしょうか。

時間をかけて祈れ

今、私たちは、聖書の御言葉の中から毎回、祈りの箇所を挙げて説教の説き証しをする試みを行っていますが、その最初の説教、9月18日の説教でマタイによる福音書6章5節以下の箇所を取り上げました。そこで7節の「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている」という言葉を学びました。そして、

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)。私たちに必要なことを父なる神はすべてご存じである。だからくどくどと祈る必要はないと学びました。

しかし、今朝は、「気を落とさずに絶えず祈る」ことの大切さを学んでいます。祈りは様々な面があり、人生のすべてが祈りと結びついています。その時々のバリエーションもあります。くどくどと祈ることではなく、時間をかけて祈ることもまた必要なのです。

佐藤雅文著の『祈祷の生涯』という1971年7月発行の50年近く前の本ですが、そこに「時間をかけて祈れ」という項目に、私たちがなかなか出来ない祈りの大切なことが書かれているので、ご紹介します。「祈禱」という難しい漢字を使っていますが、「祈り」と替えて読みます。

時間は祈りの有効率に関係が深い。もし祈りが不得手であるとか、未熟であっても、時間をかけて全力をあげて祈る祈りには、その結果が現れるのは当然である。多くの人は、祈りにおいて、あまりにも時間的に淡泊である。効力の少ない祈りの原因の多くはそこに潜んでいる。祈りは多くの場合時間で決するともいわれている。祈りにおいては神をうるさがらせた量が常に有効な量となるのである(ルカ18:1~8)。これは時間の量で叶えられる問題であり、度数の総計的時間で決する問題である。多くの聖徒らが多くの時間を祈りに用いた事実を知るべきであろう。これには上手も下手もない。だれにも常に可能な問題である。・・・主が弟子たちを選ばれた時の祈りには、終夜の時間を要されたのです。長い時間を祈りに要するのを、祈りの未熟とみてはならない。多くの時間を真剣に祈りに費やしても効果が少ないということは考えられないのである。

神と交わるのが祈り

私たちは自分の信仰は駄目な信仰だと言ってしまいます。神がまだ分からない。聖書がよく分かっていない。信仰の知識がまだまだ不十分だと、言ってしまいがちです。しかし、知識がいくら増えても信仰にはなりません。知識だけが増えるだけです。神を信じることは、本当に、神は私のために生きておられるということを実感することです。この生きている神と交わるのが、祈りです。神が生きているのが分かるのは、神ご自身が教えてくださるのです。聖霊なる神が導いてくださるのです。私たちが修練すれば獲得できるというものではありません。しかし、私たちは絶えず、神に祈らなければなりません。そして、祈りを難しく考える必要はありません。具体的には、主イエスを通して祈るなど若干の決まり事はありますが、私たちが信仰を求めることがすでに祈りなのです。神の名を呼ぶだけでも祈りなのです。

ところで、神は、私たちの祈りを聞き届けてくださいますが、すぐに答えられるとは限りません。時に時間がかかることがあります。私たちは、願いごとをすぐに実現して欲しいと願うのですが、聞きとげられる時がまだ来ていないのかもしれません。神は最高のタイミングをご存知なのです。

神は人々を御心に留められる

今朝の旧約聖書の御言葉は、長い箇所を読みました。モーセのエジプトからの逃亡の箇所です。イスラエルの歴史の中で出エジプトの出来事はその原点のように大きな事ですが、モーセはその中心人物です。モーセはレビ人の両親から生まれましたが、エジプト寄留のヘブライ人の男の子は殺される危機にありました。母親はエジプト人に殺されるのを待つよりも、後事を神に委ねて、子をナイル川に流します。赤子を入れた籠はエジプト王の娘が水浴びをしていた場所に流れ着きます。王女はその男の子に、「水の中から引き上げた」という意味のマーシャという名前、ヘブライ語でモーシェと言う名前をつけました。モーセはエジプト王の宮廷で育ち、成人し、その後、同胞のヘブライ人に心を動かされます。モーセは同胞のヘブライ人を救うつもりでエジプト人を殺してしまいました。そして死体を砂に埋めるのです。しかし、そのことを翌日、同胞のヘブライ人らに指摘され、モーセはファラオの手を逃れてシナイ半島のミディアンの地にたどり着いたのです。そこで先ほど読んだ聖書の通り展開します。世の中は人間の正義の理論では動いていきません。しかし、たえずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返しで動いて行くのです。23から25節に次のように記されています。

23それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。24神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。25神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。

その時に、モーセが救済者としてエジプトに派遣されます。そこでようやく、神の業が見えるものとなっていきます。信仰の愚かな行為の繰り返しで動いて行くのです。

最後に

不正な裁判官を正義の裁判官に変えることは出来ません。それは人間の仕事ではありません。しかし、驚いたことに、この権力の利己主義を通しても、神の正義が実現して行くのです。権力は正義の理論では動きません。しかし、たえずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し、ただそれのみによって、動かされるのです。世の中、悪い裁判官のような権力者が世界を動かしているように見えます。しかし、そうではありません。人間の悪、権力の不正、私たちの弱さ、動揺、信仰、不信仰、あらゆるものを、貫いて、ただ一つの神の御旨のみが勝利するのです。信仰者の正義感でも、悪い権力の意志でもなく、そういったものが支配しているように見える時でさえも、実際にはただ神の御旨だけが勝利しているのです。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21)のです。

私たちが祈るときに経験するのは、気を落とし、失望することです。祈っても身が入らなくなることもあるかもしれません。そこで、主イエスがこのたとえを話されたのです。失望しないで熱心に、しつこいぐらいに祈りなさいということです。成功は成功するまで続けることだといいますが、まさに、そこまで祈り続けなさいということでしょう。私たちはそこまで真剣に祈っているかと思うのです。今朝の箇所の最後の言葉は「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」という主イエスの気になる言葉です。これは、疑い深い目で私たちの信仰を問うておられるのではないのです。むしろ、これは主イエスの信仰への招きの言葉です。あなたがたの中にも、わたしは信仰を見出すことが出来ると言ってくださるのです。わたしを忍耐強く待ったらよい。あなたの中にもわたしは信仰を見出すことができる。その信仰を見出すために、わたしはすぐに来る。そう言われているのです。祈ります。

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