10/16 説教「徴税人の祈り」

はじめに

大磯教会のホームページがあることは、皆さんご存じだと思いますが、ここで新しい形にリニューアルされ、今日から、この礼拝と同時にホームページ上で説教メッセージを読むことができるようになりました。礼拝に出席出来ないとき、10時15分から自宅のパソコンや外出先のスマホからでも礼拝の説教が文字を通して読むことが出来るようになったことは恵みです。礼拝の映像が送れる時には、今まで通りメールアドレスが分かっている方には送信させていただきます。 幸か不幸か、コロナ禍によって日本もデジタル化が進み、健康保険証も2024年には無くなり、マイナンバーカードに統一されるそうです。また通信網の拡大は、生活の便利さと共に電磁波による健康被害など予想しなかった弊害も拡大されるという事でもあり、難しい対応が必要な時代になりました。

ところで、祈りについての聖書箇所から、御言葉の説き明かしを行っていますが、今朝は、先週の「やもめと裁判官」のたとえの箇所に引き続いた箇所です。先週の箇所では、私たちは、必死に裁判官に相手を裁いてもらうために食らいついたやもめのように、気を落とさずに絶えず祈らなければならないというメッセージを聴きました。今朝は、その後に続く祈りのたとえ話しです。ファリサイ派の人と徴税人の祈りの話しです。それでは、早速、今朝の御言葉、ルカによる福音書18章9~14節から、その恵みに預かりたいと思います。

 

ファリサイ派の人の祈り

エルサレム神殿を舞台に二人の人物が登場します。ファリサイ派の人と徴税人です。人々は神殿の前庭に集まって祈りました。主イエスの時代、人々は一日に7回祈る機会があり、なかでも午後、最初の祈りの時が一番大事にされたようです。ファリサイ派の人は心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と祈り、後半では、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、特別な生き方をしていることをあげて祈っています。9節に「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。ここに「うぬぼれる」という言葉が出てきますが、それは、自分を信頼するということで、悪いことではないように思えるのですが、その思いが強すぎてファリサイ派の人のように他人を見下すようになることが問題なのです。自分は正しいと考え、自分を信頼するということですから、現代に生きる私たちにも、多かれ少なかれ当てはまるのではないでしょうか。

ファリサイ派とは、どういう人たちだったでしょうか。サドカイ派の人たちは、神殿に仕える祭司という立場であって、いわば体制派です。それに対して、ファリサイ派の人たちは、神に対する自分たちの責任は、まず律法を守ることによって生活を聖別しなければならないと考えたのです。ファリサイ派は、サドカイ派と違って、信徒として生きたのであり、商人や職人や農民としての職業人でもあったのです。その中でも特に律法を詳しく学んだ者が律法学者であり。ラビと呼ばれ尊敬されていました。サドカイ派が特権階級として神殿に仕えた祭司であったのに対して、ファリサイ派は、信徒として民衆のために律法を遵守することを指導したのです。彼らは「地の民」と呼ばれる律法を知らない、そのため律法を守らない民衆とは交際しないことを誓約することが、ファリサイ派としての掟であったと言われます。そして、彼らは反ローマ的愛国者でもありました。だからローマのための税金徴収の仕事で儲けている徴税人はファリサイ派の最も嫌う者たちであったのです。私たちはファリサイ派の人々を偏狭な狂信的な人たちと見てしまい、自分たちとは全く違う人たちと思いがちです。しかし、私たちも、礼拝を遵守しよう。正しい生活をしよう。聖書をよく読もう。常に祈ろう。献金は責任をもってささげよう。奉仕活動に励もう。地域の人々に仕えよう。これはどれも大切なことですが、しかし、このように、あまりにも理想を追い求め、身を制することに心を用いる先に、いわばキリスト者の理想像を描く姿は、ファリサイ派に似てはいないでしょうか。

 

徴税人は嫌われていた

一方、徴税人の方は、離れたところに立ち、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(13節)と祈っています。当時は、手をあげ、目をあげて祈るのが普通であったのです。しかし、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。そして、主イエスは、神に義と認められるのは徴税人の方だと結論付けています。

さて、主イエスにその祈りを正しいと認められた徴税人とはどういう人たちでしょうか。徴税人というのは文字通り人々から税金を取る仕事です。今、日本では税金を徴収するのは国税局、つまり各地にある税務署の仕事ですが、地方税は県や市町村です。国も地方も税目が違いますが同じような仕事をしています。私事になりますが、私が市役所に務めていた当時、一番長く居た部署は税務部で、収納課という税金の徴収をする部署にも5年間在籍し、税金の徴収、督促、強制執行も行いました。就職して最初の部署でしたから大変で困難な仕事はしませんでしたが、一度だけ、上司と一緒に差し押えの現場に立ち会い、家財道具に付箋のような者を貼った覚えがあります。その後、市役所を辞めてから、民間の不動産管理の仕事で家賃の督促業務をした時の方が、遙かに厳しい仕事でした。私がまだ若く未熟なため、大切な顧客である工場の主人と、滞納家賃の督促で取っ組み合いになり殴られたことなど、今思っても恥ずかしい人生の汚点の数々です。しかし、そのような体験から聖書の徴税人ザーカイの話しや徴税人について、ある種の親しさを感じています。しかし、当時のイスラエルの徴税人は、現代とは事情は大部異なっています。イスラエルの徴税人は、神に背く罪人の代表であるように思われていました。何故かというと、この人たちは、イスラエルを支配していたローマ帝国のための税金を集めていたからです。イスラエルの人々から通行税という税金を集めて、イスラエルの国に収めるのではなくて、当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に税金を収めていたからです。つまり徴税人というのは、神の民であるイスラエル人からお金を奪って、支配者であるローマ帝国に届けるという仕事なのです。集められたお金は、イスラエルの人々を支配するために使われるわけです。しかも、徴税人は、決められた金額だけをローマ帝国に収めれば、残ったお金は自分のものにしていいことになっていました。ですから徴税人は、必要以上に多くの税金を人々から取って自分のふところにため込むわけです。そのため徴税人は皆お金持ちだったと言われています。人々からしぼり取ったお金で、豊かな生活をしていたので、徴税人は皆に嫌われていたのです。そして実際、この人たちは、イスラエルの中では、罪人の代表だと見られていました。主イエスは常にファリサイ派と対立していたので、私たちはファリサイ派、イコール悪というイメージがありますが、当時の人たちはファリサイ派の人たちは教えを守る熱心な人たちで、一方、徴税人はあくどい罪人の代表だと考えていたのです。

 

徴税人の祈り

徴税人の祈りは一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(13節)でした。しかも彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。「遠くに立って」というのは、神殿の境内のユダヤ人男性が入ることができる庭の中でも、聖所から遠くの隅の方で、ということです。彼は、自分が神にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈ったのです。この「憐れんでください」も口語訳聖書では「おゆるしください」となっていました。この徴税人が祈り願ったのは、確かに、漠然とした「憐れみ」ではなくて、神が自分の罪を赦してくださることです。彼の罪によって壊れ、失われている神との関係がもう一度回復されることを願って彼は祈ったのです。

 

自分を高くする者、低くする者

主イエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われました。「義とされる」というのは、「正しい者と見なされる」ということです。つまり徴税人の祈りは聞き届けられたのです。一言で言えば彼は救われたのです。それに対してファリサイ派の人は神によって義と見なされなかったのです。それは何故なのでしょうか。続いて語られている「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉がその理由を示しているように思われます。ファリサイ派の人は自分を高く評価しました。自分は神にしっかり仕えている正しい者だと評価したのです。それに対して徴税人は自分を低く評価しました。だとするとここに語られているのは、自分を低く評価し、神の赦しを求める方がいい、神はそういう謙遜な者をこそ高くしてくださるのだということになります。そうなると、神によって高くしてもらうためには自分をできるだけ低く評価した方がよい、というノウハウを教えていることになります。果たして主イエスはそれを教えるためにこのたとえを話されたのでしょうか。そうではありません。

彼ら二人の言葉にもう一度目を向けたいと思います。ファリサイ派の人は神に感謝していますが、彼が見つめているのは「他の人たち」の姿です。彼の感謝は、他の人々と自分とを見比べることによる感謝です。そして彼が見つめているもう一つのもの、それは自分自身です。どのように神に仕え、祈りをし、献金をしているか、それを彼は見つめています。そのように彼の祈りは、他人と自分自身にばかり向けられていて、神の方に向けられていないのです。それに対して徴税人の祈りは、神にのみ向けられています。彼の目には、周囲の人間は全く入っておらず、ただひたすら神のみを見つめ、罪の赦しを願い求めて祈っているのです。神は徴税人の祈りに応えてくださり、義として下さったのです。神が徴税人の祈りに応えてくださったのは、自分を低くし謙遜な祈りをしたからではありません。本当に神に向かって祈ったことに神が応えて下さったのです。ファリサイ派の人は、そもそも神に祈っていないのです。他人と自分を見比べ、自分の正しさ立派さを語るひとり言を語っていたに過ぎないのです。そこには神との交わりである祈りがありません。つまりこの二人の違いは、神の前に立って祈っているか、それとも他の人と自分を見比べてばかりで、神の前に立っていないか、と言う違いです。そしてこの二人の人物を、私たちは共にそれぞれの心に持っているのです。

 

打ち砕かれ悔いる心

今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、詩編51篇です。本詩は、罪に対する洞察の深さにおいて、また罪からの解放を願う切実さにおいて、ひときわ際立っています。ダビデの詩と言われますが、3節4節をもう一度お読みします。

3神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。

深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。

4わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。

詩人は、「慈愛」と「憐れみ」に訴えるのは、罪のゆるしは神の憐れみと恵み、慈愛と真実に基づくのだ、という深い理解を詩人が持っているからです。もう1箇所お読みします。19節です。

19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。

 ここで、「砕けた」とは堅いという言葉の反対語です。わたしたちが悔い改めない状態は、堅い頑固な心です。それに対して、この詩は徹底的に砕かれたたましいの告白です。悔い改めとは、懺悔だけではありません。造り変えられなければなりません。改める力は神から来るのです。人間を造り変えてくれる力はひたすら神の慈しみですから、慈しみ、憐れみへの讃美を詩人は歌っているのです。

この詩人の告白は、取り返しのつかない大罪を犯してしまった後悔というのでもありません。そうではなく、己の存在そのものが罪に染まり切っているという、自己の深い罪認識に発しているのです。本詩が徹底した罪の告白であるゆえんです。

 

最後に

 私たちは神の前に堂々と立つことのできない者です。この徴税人の祈りを本当に祈られた方は、実は主イエス・キリストただお一人ではないか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上の祈りがそれです。神によって義とされたイエス・キリストの御業によって、わたしたちは、律法による義ではなく信仰による義を与えられているのです。実は、このたとえを語られた罪の無いお方こそが、このたとえの主人公であり、全ての人に罪のゆるしを与えてくださるお方なのです。祈ります。

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