11/6説教「主と共に眠る」

はじめに

 大磯教会が所属する日本基督教団の教会の暦によると、毎年、11月第一聖日は「聖徒の日」とされています。そこで各教会はこの日、就眠者記念礼拝、あるいは召天者記念礼拝、又は永眠者記念礼拝など名前は違いますが、逝去者を記念し、今は神の国にいる逝去者と共に礼拝を捧げる日としています。そして礼拝の後に就眠者名簿を読み上げ、就眠者に対する思いを新たに致します。

昨年の就眠者記念礼拝からの一年間に一人の名前が追加されています。T・M兄です。T・M兄は昨年9月16日に病床洗礼を受けられ、教会員となり今年、3月12日に天に召されました。半年あまりの信仰生活でしたが、兄弟の人生と同じように主が与えてくださった信仰のドラマがありました。私は今日の就眠者記念礼拝の聖書箇所は先月中旬に決定したわけですが、先週、説教の準備をするまで、あることに気がつきませんでした。今朝の聖書箇所の直ぐ後の5章16節から19節の言葉は、T・M兄に洗礼の記念として教会から贈呈した聖書に書いた聖句です。そして、今年の3月17日の葬儀でも読んだ聖句です。

  16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなこと

にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、

神があなたがたに望んでおられることです。

この聖書の言葉が好きな方は多いと思います。でもそれを実行できるかというと、こんなに難しく、厳しい教えは他に無いかもしれません。しかし、神が私たちに望んでおられることなのです。「いつも喜んでいなさい」というのは、神がそうお望みだからということです。ほかに理由はありません。どんな状況になったとしても、私はあなたに永遠の喜びを与える、という神の約束の言葉でもあるのです。あらためて皆さんとその思いを共有したいと思います。

そして、名簿には載りませんが昨年の4月に天に召されたS・T姉の夫であり3人のお子様の父であるK・T兄が先月6日に逝去されたことも覚えたいと思います。K・T兄は教会員とは信じるところは違いますけれども、妻であるS・T姉の教会生活を良く理解され私たちとも親しくされた兄弟でありました。S・T姉の大磯教会での葬儀でも悲しみの中でもお元気そうでありましたが、ご逝去のことを知りました。ご遺族に主の慰めがありますようにお祈り申し上げます。では早速、今朝私たちに与えられた御言葉、テサロニケの信徒への手紙(Ⅰ)5章1節から11節の箇所からその恵みに預かりたいと思います。

 

就眠者という意味

「永眠」という言葉を辞書で調べると永遠に眠りに就くこと。死ぬこと。死去とあります。「死去」では事務的で冷たい言い方になるので「永眠」と言うとか、仏教では「他界」と言うとか、キリスト教の正教会では逝去のことを永眠と言い、プロテスタントでは「召天」、カトリックでは「帰天」、聖公会では「逝去」と言うとかいろいろ解釈はあるようです。大磯教会では逝去者のことを「就眠者」と言っています。その根拠は何処にあるのだろうかと思っていましたが、それは、パウロが書いたこのテサロニケの信徒への手紙(Ⅰ)4章14節、15節にあります。そこに「眠りについた人たち」とあるのがそれです。

眠りに就いた者も、生きている者もキリストが再び来られる日に復活すると言われていますから、決して永遠に眠り続ける永眠者ではありません。私に洗礼を授けた牧師はよく、「キリスト者はいつまでも眠ってなんかいない」と言っていたことを思い出します。今日の礼拝で、共に神の国で礼拝をささげているであろう信仰の先達は、肉においては眠り、霊においては今なお共に礼拝をささげながら、主の再び来られる復活の日を待ち望んでいると思うのです。主イエスが再び来られるとき、この眠りに就いていた者は、肉の体も伴って生きる者とされ、復活の命に与ると、キリスト者は信じているのです。そのことをパウロは10節にある次の言葉で言い表しています。

10主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

「眠りに就く」、つまり「就眠」という言葉は、単なる慰めではありません。キリストの復活の命に私たちも共に与る者とされるということです。それは、キリストが私たちのために死なれた、という言葉でも明らかなように、復活の希望なのです。人の死の先に示される、力強い希望なのです。

 

死を忘れるな

この1年の間に私よりも年下の親族、友人が突然の病気で亡くなった事があり少なからず衝撃を受けました。トータルでは死は高齢順にやって来ますが、個別的にはそうとは言えません。突然の病気、事故や災害で亡くなることもあります。死んだ後どうなるのか、それは誰にもわかりません。あたかも死後の世界に行ってきたかのように語ることは無責任になります。神を信じる者にもわかりません。ただ分かることは、主イエスが死んで復活されたこと、主イエスが今も生きておられることだけです。主イエスによって死が乗り越えられたゆえに、私たちは主イエスが復活されたように、キリスト者に復活の約束が与えられていることに希望を置きます。主イエスの復活を信じる時、キリスト者は今ここで永遠の命の中に入ります。永遠の命とは、死んで天国に行くことではなく、今、死から解放されることです。神を信じる者は、水で洗礼を受けます。主イエスと共に復活の命に生きるのです。だから私たちは死を恐れなくてもいいのです。死とは終わりではなく、新しい命の出発なのです。信仰を持たない人にとって、「死は受け入れるしかない」出来事です。多くの人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」と。(テサロニケの信徒一4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟姉妹もまた復活するとパウロは語ります。若者の死に急ぎが問題になっています。高齢者は老老介護で疲れて死を選ぶことが起こります。それに対して私たちは、現在を誠実に生きる生き方を求めなくてはなりません。歳を取ればこの世で残された日々を大切に生き、死ねば天に召され、キリストが再び来られる日に復活の希望に与るのです。死を忘れるな。そして死を恐れるな。聖書はそれを語っています。

 

互いの向上に心がける

使徒パウロは言います。生きて礼拝をささげる者たち、つまり私たちは身を慎んで、「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」と語っています。そして今朝の御言葉の中で、「身を慎んでいましょう」という言葉が繰り返し語られています。これこそ、実は私たち、生きて、肉の体をもって歩む者にしかできないことです。「向上する」というのは、私たちが今生きて、礼拝生活を続けながら与えられる、成長のことです。私たちの人生を導き、支えているのがどなたであるのかを知り希望を持つことができる。そのダイナミックな信仰の歩みは、まさにキリスト者の生きた生活にこそあります。私たちはもはや、盗人のように突然やってくる、いつ来るとも知れないキリストの再臨におびえる必要はありません。そしてこの信仰者の生活の中においてこそ、キリストの名のもとに葬られた就眠者と、共に歩んでいる、共に生きているということができるのです。

 

主を畏れれば命を得る

 今朝の旧約聖書の御言葉は箴言19章23節の1節だけです。

     23主を畏れれば命を得る。

満ち足りて眠りにつき

災難に襲われることはない。

今日の説教題は「主と共に眠る」としました。主イエスを信じて眠りに就いた人たちは、死と同時に、天にあって主の前にあって礼拝者となるのです。この箴言の言葉はどのような意味か。主を畏れ、正しく物事を見極め、正しく自分の役割や務めを果たす者は、その豊かさを生かすことができ、災いに遭うこともない。このように生き、眠りに就いた者と、このことを望み見て礼拝する私たち、この固い絆を確認して歩み出したいと思います。

主イエスを信じて眠りに就いた兄弟の、残された奥さんが、日曜日の朝、「さあパパ教会へ行きますよ。と声をかけて亡くなられたご主人と一緒に礼拝に出かけます。」という文章を読みました。まさにそういう思いだと思います。共に洗礼を受け、信仰に生きることの意味は大きいのです。信仰者の喜びは大きいのです。

今朝は天に召された先達の兄弟姉妹を偲びつつ、共に神の前に集う礼拝者として礼拝をささげる恵みに感謝を覚えます。主イエスを信じて眠りに就いた兄弟姉妹と一緒に、神への礼拝をささげるので就眠者記念礼拝です。就眠者は死してもなお、私たちと同じ礼拝者なのです。主に召された者を私たちのもとに取り戻すことはできないという点では、私たちに寂しさがあります。悲しさがあります。就眠者は、天上の礼拝に連なる者です。この礼拝と、私たちのささげる地上の礼拝が一つである。だからこそ、私たちは就眠者を記念しつつ、共に礼拝をささげるのです。

私たちは、いずれは礼拝にも出られなくなる時が来ます。主イエスのことをすっかり忘れてしまった時も、また自分のこともよく分からなくなる時があるかもしれません。しかし、その時でも、キリストは、私たちを永遠の記憶の中に覚えていて下さるのです。 祈ります。

                  

 

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