11/13説教「聖霊に助けられて祈る」

はじめに

 先週から再びコロナのオミクロン株がひたひたと忍び寄ってくる気配を感じます。第8波が再びやって来そうです。今回の波はインフルエンザと同時流行しそうで医療関係者も不安を隠せないようです。先週の金曜日に私は、埼玉県上尾市にある聖学院大学で開かれた「日韓神学シンポジウム2022」という会議に出席しました。コロナで3年振りの対面での開催で、お世話になった教授の講演があったので遠くでしたが行ってみました。親しい方とも会えて楽しい一日でした。途中、会議は一時休憩で、学生と一緒の礼拝があり、チャペルに200名位が集まった礼拝に出席しました。そこではコロナ禍なので讃美歌は奏楽だけで賛美し、主の祈りも司式者だけが祈り、感染対策が徹底していました。 そして、今、どこの教会も同じようですが礼拝も短縮で行い、教会内の活動も活発ではありません。大磯教会の祈祷会は今年の始めから再開していますが、あまり出席者はまだ多くありません。毎回、説教の概要を私が解説し、その後、説教のテーマを中心にして自由に懇談しています。

最近、出席された、ある方が、旧約聖書は、キリスト教としてどういう位置付けにあるのか?という質問がありました。ユダヤ教の人たちはなぜ、キリストを救い主として認めないのか、と言うのです。旧約のモーセ五書は元々ユダヤ教の経典であるし、旧約の神はイスラム教も共通でもあります。歴史的には旧約聖書の後に新約聖書の歴史が続きます。しかし、キリスト者は、旧約聖書をキリストの救いの光を通して読むものと教わっていますが、そのようにも読めない箇所も多いようにも思います。質問された方が、かつて、ある牧師は、ヨブ記にキリストの救いの基がある?と言って聖書箇所を示してくださいましたと言われましたが、確かにヨブは、理不尽な苦しみの果てに「仲保者」の存在まで辿りつきました。そしてキリストの預言はイザヤ書が一番はっきり示しています。その預言が成就したと私たちは信じています。旧約聖書はキリストを指し示しています。今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉、詩編65編もまた、詩人が罪の赦しという救いの恵みを感謝し、贖い主なる神を信じ告白しています。今朝はまず詩編65編1節から5節の御言葉からその恵みに与りたいと思います。

祈りを聞いて下さる神

詩編65編は、神を讃える民の詩として書かれています。2節から5節までで、シオン、つまりエルサレム神殿において「祈りを聞いてくださる神に呼びかけ、」「罪の数々」を「贖ってくださる」神に感謝するとともに、神殿に入ることが許された者の幸いと、神殿で与えられる恵みの豊かさを歌っています。冒頭の「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます」という句には、すべてを神に委ねて、神からの応答を静かに待つ姿勢が表明されています。

詩人は、「祈りを聞いてくださる神よ、すべて肉なるものはあなたのもとに来ます」(3節)と歌いますが、神殿に詣でるのは、願いがかなって献げ物をささげるためばかりではないと言うのです。われらの罪の数々を贖っていただくためなのだ、と歌っています。人間を悔い改めに導くのが神の恵みであるという新約聖書の真理は、旧約聖書にも大いにあてはまるのです。神の大きな慈しみに接して、自分の罪を恥じ、悔いる心が目覚め、罪と赦しによってだけ満たされる、そこには神との清い交わりが生じると詩人は歌っているのです。詩人は、自分の罪を告白して、心の底から神を信頼しないならば、必ずや罪の重荷に耐えかねてくずおれてしまう自分を知っているのです。

  罪の数々がわたしを圧倒します。

背いたわたしたちを、あなたは贖ってくださいます。(4節)

ここには、新約聖書の場合と同じように、真の神との関係が表わされています。自分と神との間に築かれた隔ての壁が崩れてこそ、神との生きた交わりの道が開かれるのです。詩人は、罪の赦しという救いの恵みを感謝し、「あなたの庭に宿る」こと、つまり恵み溢れるあなたの家(神殿)にあって信仰の仲間と一緒に過ごす満ち足りた時を心から感謝しているのです。聖なる方として畏れ、厳しすぎて近づけない神が、憐れな人間にも御座に近づく許可が与えられることに感謝と喜びを感じているのです。このことは私たちの教会で過ごすひととき、礼拝の時を想わせます。数千年の時を越えて礼拝の喜びは同じなのです。

 

主に依り頼み強くなりなさい

今朝の新約聖書の御言葉は、エフェソの信徒への手紙6章10節から20節です。このエフェソの信徒への手紙は、伝承では紀元62年頃、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアの海に近い中心都市、エフェソの教会に宛てて書いたものと言われています。その内容は、教会がキリストの教えに従って生きるための希望と励ましを書いています。特に、キリストの救いと教会の関係が語られています。5章から6章にかけては、具体的に夫と妻の関係や、子供と親の関係、そして当時の奴隷と主人の関係についてもパウロは教えています。そして、この手紙の最後に

10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

と語るのです。こう励ましたあと、パウロは悪魔の策略に対抗するために神のさまざまな霊的武具を身に着けること、またすべての聖なる者たちのために「絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」ことを命じます。信仰の勇者パウロの姿を彷彿とさせます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物とする」という、少し想像が難しい表現ですが、戦いの軍人をイメージしています。徹底的な神の民の装備ということです。

16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

パウロは、これほどの装備をして悪魔の策略に対抗して立ちなさいと言っています。悪魔という前時代的な表現でパウロは語っていますが、主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑に遭われ神の言葉で打ち勝たれたことを思い出します。悪魔とは、私たちを神から離すあらゆる誘惑、試練を指します。闇の力です。容易なことでは勝てない相手なのです。

今、私たちは、3年前から突然発生したコロナ禍によって恐怖と不安の中で様々な経験をしました。疫病と戦うことがどれだけ大変なことか。医療崩壊の危機を辛うじて過ごしてきました。あまり不安を感じることをいうべきでないかも知れませんが、コロナの第7波の時、ある大きな教会の牧師が語っていました。一月に7名の教会員が亡くなられたが、6名がコロナ発症であったと聞いて正直、その時恐怖を感じました。これは人ごとではないと。まだまだ油断はできないのです。出来る限りの対策をしなければならないでしょう。

また、今年の2月からのウクライナでの軍事侵攻が益々本格的な戦争になり、私たちも、悲惨な被害と避難者の悲しみを見ています。素人なのに最新の兵器のことや戦略についても皆詳しくなってしまいました。遠いヨーロッパの周辺部の戦闘状況の情報が毎日入って来て、今までテレビで出演することの無かった軍事専門家の解説を当たり前のように聞くようになっています。アメリカ制の対戦車ロケットやイラン製のドローン兵器などの情報が日常的になりました。

パウロが、エフェソ教会の信徒に悪魔の力に対抗して立つために神の武具で完全武装しなさいと命じているのは、悪の力はそれだけ強く、そしてまた我々の罪がいかに大きなものかを示しているのです。

 

聖霊に助けられ根気よく祈る

 パウロは最後に祈りについて語っています。

   18どのような時にも、〝霊〟に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

信仰の戦いを最後に導くのは祈りです。その祈りをパウロは自分の働きのために求めています。御言葉の宣教のゆえに獄中にあるパウロがその業を全うできるとすれば、それは教会の祈りを通してキリストに支えられることであります。信仰の勇者パウロは、自分の弱さもよく知る謙虚な信仰者でした。ですから、他の手紙でも祈りを頼んでいます。ローマの信徒へ書き送った手紙にも次のように記しています。

   兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、〝霊〟が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください(ローマ15章30節)

使徒パウロでさえ「わたしのためにも祈ってください。」と言ってその働きを全うしようとしているのであれば、はるかに小さな存在である御言葉に仕える者は、なお一層その働きが全うできるように信徒の祈りを必要とします。その祈りの中で、教会はふさわしい働き手を得ることになります。

誰かに祈られなくてもやっていける信仰者など一人もいません。祈りを互いに頼み合い、福音を大胆に伝えることができるために、祈り合いたいと思います。聖霊に助けられて、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けること。このパウロの示した祈りの教えは、世界情勢が混沌とし、コロナ禍で先行き不安な今こそ、その祈りの力を信じたいと思います。目先のことにだけとらわれる祈りではなく、聖霊によって成長させていただけるように祈りたいと願います。

祈ります。

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