12/4説教「旧約の預言」

はじめ

 アドベント第二主日に与えられた新約聖書の御言葉はルカによる福音書4章16節から21節ですが、そこで引用されている旧約聖書の御言葉はイザヤ書61章1節から4節の言葉です。そこには人々の解放された喜びが歌われています。良い知らせが貧しい人に伝えられ、打ち砕かれた心を包み、捕われた人には自由を、つながれている人には開放を告知するとイザヤは歌っています。正確には第三イザヤなる人物が記したものです。主イエスが宣教の最初に語られた説教は、人々に開放を告げるこの旧約聖書の言葉でした。私たちは、日頃、罪から贖われた者の感謝を語りますが、解放された者としての喜びを語ることは少ないように思います。教会はもっとキリストによって救われた者の喜びを語らなければなりません。今朝は旧約の預言者の言葉を通して、解放された者の喜びと恵みに与りたいと思います。

 

主イエスの里帰り

 師走になると商店街や町のあちこちでクリスマスのイルミネーションや飾りつけがなされ、クリスマスが終わると同時に正月の松飾りに変わるのが日本の風景です。キリスト者はどうかというと、日本の教会はアドベントからクリスマスの訪れを待ち望む厳粛な礼拝を守ります。一方、キリスト教が文化として定着している欧米諸国においては、アドベントからクリスマスそして新年の期間は特別な祝祭の雰囲気に包まれます。日本の正月と同じように、いわば里帰りの季節でもあります。戦争状態にあるときも、しばしばクリスマス休戦で戦闘を一時停止しクリスマスを祝う、また里帰りするということも行われます。ウクライナもロシアもキリスト教国ですが、クリスマス休戦がなされるのでしょうか。冬の寒さの中で、ウクライナの電気もガスも使えないようにインフラや市民の住まいをミサイル攻撃している状態ですから、その望みはないかもしれません。

今朝のルカによる福音書4章16節には、こう記されています。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

ここには、主イエスの故郷、ナザレでの伝道の出来事が記されています。ベツレヘムでお生まれになった主イエスは、エジプトに難を逃れ、その後、30歳でメシアとしての公生涯にお入りになるまで、ガリラヤのナザレでお過ごしになりました。ナザレは主イエスの故郷の町です。

 4章の始めに記されていますが、主イエスは、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた後、ガリラヤに帰られ、「諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(15節)とあり、その後、故郷に里帰りされ、安息日にナザレのいつもの会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになったというのです。この箇所では主イエスが、その時代では敬虔なユダヤ教徒であり、安息日(現在の土曜日)を尊んでいたと著者ルカは描いています。主イエスは、故郷ナザレにおいて、恐らく慣れ親しんでいた会堂(シナゴーグ)で、聖書を読まれ、その説き明かしをなされました。18節の言葉はそこで朗読された聖書の言葉です。主イエスはイザヤ書61章1節2節の言葉を読まれたのです。その当時の聖書はどのようなものだったのでしょうか。今の旧約聖書ですが製本されていません。羊皮紙かパピルスかわかりませんが、巻物になっていたのです。会堂を管理し、聖書も管理をし、説教者が求める聖書の巻物を渡したのは、会堂司と呼ばれる務めの人でありました。

 

日本では牧師が会堂司を兼ねている

話しが少し反れますが、今、役員会で大磯教会の牧師館をどうするかを検討し始めています。いずれ皆さんにアンケートをお願いしたり、幾つかの提案をする時があると思いますが、牧師館を会堂に接続して建てるか、離して一戸建てにするか、別の所にするか、あるいはマンションなどを賃貸、または購入するか、などいろいろ案はあると思います。しかし、いずれ牧師交代の時はあるのですから、牧師招聘する際に牧師の住居確保は必要だという判断なのです。ある人が日本の教会の特徴は牧師が教会に住んでいるということだと言いました。言わば会堂司を兼ねているというのです。アメリカではあり得ないそうです。これから教会としてじっくり考えてゆく課題です。

また現在の教会の原型はユダヤのシナゴーグと言われるこの会堂にあると言います。会堂では、聖書の朗読があり、聖書の説き明かしである説教が語られ、祈りがささげられました。

 

主がわたしを遣わされた

 主イエスの求めに応じて聖書が渡され読まれた箇所はこの言葉です。

   18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

「主の霊がわたしの上におられる」と第三イザヤは語っています。私たちに主の霊、つまり聖霊が与えられている意味は、福音が貧しい人びとに宣べ伝えられ、捕われている人や、目の見えない人や圧迫されている人を開放するためだと第三イザヤは語っています。「貧しい人」とは、ただ貧乏ということではありません。精神的にも物質的にも政治的にも貧しい状態の人々を開放するということです。

主イエスは、サマリアの女の心の傷を癒やされました。重い皮膚病を患っている病人を癒やされました。金持ちの徴税人ザーカイを金銭の奴隷から解放されました。エリコの町にいた盲人を見えるようにされました。主イエスは物質的貧しさ、肉体的弱さから解放しただけではありません。貧しさとはキリストなしの全ての状態を言うのです。主イエスを知ることによって、すべての迷いから解放されるのです。自分のこと、自分の範囲内のことしか関心を持たず、人の傷みに寄り添えず、他人の幸せをやっかみ、壁を作ってしまう自分の罪に気がつけない貧しさ、その貧しさからの解放を宣言されたのです。

 

ヨベルの年

ここには「主の恵みの年」という言葉があります。これはレビ記25章にある「ヨベルの年」のことです。ヨベルの年については、聖書の後ろの付録についている「用語解説」を見ていただくと説明があります。7年ごとに、土地を休ませる安息の年を設けることが定められていました。その安息の年を7回繰り返した翌年、つまり50年目が「ヨベルの年」です。その年には、過去49年の間に、借金のかたに取られて人手に渡っていた土地は元の所有者に返され、同じく借金によって身売りしていた奴隷は解放されるのです。そういう解放、自由が告げられる年が50年目のヨベルの年です。この喜ばしい年の始まりは「雄牛の角」つまりヨーベルを吹いて告知されたので、この名が付いたと言われます。要するにこれは恵みの大解放であったわけです。そういう時がやって来ると第三イザヤは預言したのです。それは何を意味していたのかというと、やがてこの世界に救い主が来られ、罪に囚われている私たちを解放してくださるということの預言だったわけです。罪によって苦しんできたこの人類がその罪から解放され、その罪を問わないという救いの時代がやってくるということのひな型だったのです。

ある説教で紹介されていましたが、その教会のクリスマス愛餐会で、受洗50年を迎えられた兄弟が、受洗から50年目をこのヨベルの年として受けとめておられることを語られたということです。皆さんも自分のヨベルの年はいつなのかを調べて見るといいかもしれません。ちなみに私も調べて見ました。洗礼を受けたのは19歳の夏でした。1966年(昭和41年)です。そこから50年後というと2016年(平成28年)ということになります。ちなみにその年のことを調べて見ました。この年は喜びの年でした。大磯教会の会堂が完成した年です。4月10日の日曜日には大磯迎賓館で教会員と共に建築感謝の食事会が催されました。国の有形登録文化財に指定され、大磯町景観建築物にも指定され、古いリードオルガンが修理され10月29日(土)には渡辺善忠(よしただ)先生と斎藤裕(ゆたか)先生によるオルガンコンサートが開催されました。受洗した時、19歳の大学受験浪人であった私には思いもよらないその後の人生が待っていました。50年目のこの年が、牧師になって最も喜びの多い年であったかもしれません。まさにヨベルの年でした。

今、サッカーのワールドカップの大会がカタールのドーハで開催されています。私などは野球世代ですからサッカーには普段それほど興味はないのですが、こういう大きな世界大会は日本国民としての愛国心が騒ぐというか、にわかサッカーファンになってしまいます。金曜日の早朝4時に始まった、日本がスペインを破った試合を見て、喜び、励まされました。耐えきることでチャンスは生まれる。思いの強さが勝利をもたらすと学びました。この喜びがヨベルの年ということではないか。

ヨベルの年、主イエスは、この恵みの年を告げ知らせるために来られました。それは霊的な問題であれ、精神的な問題であれ、肉体的な問題であれ、経済的な問題であれ、すべての問題における大解放です。ですから主イエスがおいでになられた時、その口から出る恵みの言葉に多くの人々が慰められたのです。

 

 

主イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られ、会堂にいるすべての人の目は主イエスに注がれた時、宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。

これを語られるお方が、それを実際に成就される主であり、そのお方が実現したと宣言しておられますので、私たちは単なる気休めの約束を聞いているのではなく、聞いている今、この瞬間に実現しているとの宣言を聞くことができるのです。主イエスの言葉は、時にわたしたちの胸に深く突き刺さります。しかしその言葉によって私たちは新しい目覚めを体験します。それは教会が私たちの故郷であると同時に、この場にいる私たちが生涯を全うした後でも、キリストを頭とした愛のわざを担い続ける交わりが続く、という事実に由来します。今、クリスマスを待ち望むアドベントを過ごしています。全ての人がクリスマスの喜びを迎えることが出来るように祈りたいと思います。祈ります。

 

 

 

 

 

 

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