1/8説教「わたしの心に適う者」

はじめに

 新年を迎え一週間が過ぎましたが、教会暦によれば1月6日は公現日です。公現日というのは、イエス・キリストが人々の前に「公に現れた」ことを記念する日です。この公現日の歴史は古く、もともとは「イエス・キリストが洗礼を受けた日」として祝われていたそうです。したがって、主イエスがバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた場面の聖書箇所をこの時期に読むことが多いのです。今朝の御言葉は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた箇所です。主イエスが洗礼を受けられた際、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた、と記されています。神によって主イエスが愛する子、すなわち神の子であることが公に現わされた場面として受けとめることが出来ます。

新しい年を迎えても、コロナ禍は4年目に入ります。今また感染は拡大しています。ウクライナでの戦争はまだまだ続くとの見方が強いようです。また大磯教会では、クリスマスから新年にかけて敬愛する教会員がお二人も天に召されました。悲しい現実です。その中で、イエス・キリストが公に現れ、神の子であることが宣言された意味を、私たちはどのように受けとめたらよいでしょうか。今朝も聖書から、その御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

 

洗礼を思いとどまらせようとするヨハネ

 13節に次のように記されています。

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

ガリラヤのナザレでお育ちになり、大人になられた主イエスは、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られました。ルカによる福音書によれば、主イエスはこの時およそ30歳でありました(ルカ3章23節)。「そのとき」とありますが、これは、洗礼者ヨハネが悔い改めるように告げ知らせ、そのしるしとして洗礼を授けていた、まさにその時、ということです。主イエスはバプテスマのヨハネのことを聞いて、いよいよ御自分の時が来たことを悟られたのだと思います。

14節に次のように記されています。

14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

なぜ、バプテスマのヨハネは、主イエスが洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたのでしょうか。それは、主イエスこそ、ヨハネの後から来られる、ヨハネよりも優れたお方であったからです。ヨハネは11節、12節で次のように言っておりました。

11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。

バプテスマのヨハネは、どのようにして知ったのかは書いてありませんが、主イエスこそ自分の後から来られる、優れたお方であることを知っていたのです。それゆえ、ヨハネは、主イエスの洗礼を思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言ったのです。私たちはともすると、主イエスは神の子であり何の罪もない方なのだから、悔い改めの洗礼など受ける必要はない、とヨハネは考えたに違いない、と思ってしまうかもしれません。しかし、そもそもヨハネは主イエスが洗礼を受ける必要があるとかないとか、そんなことを言える立場にないのです。前座が真打ちに対してすることではありません。ヨハネが語ったのは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」ということです。神の召しによって、救い主のために道を整える働きをしている彼も、救い主によって救っていただかなければならない者の一人なのです。ヨハネはそのことを意識していたので、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私から洗礼を受けるのでは、立場が反対です」と語ったのです。

しかし、主イエスはこうお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と。主イエスは、ヨハネの言葉をもっともな言葉として受け止めつつ、「今は、止めないでほしい」と言われるのです。ここで「正しいことをすべて行う」とありますが、このギリシャ語の言葉を直訳すると「すべての義を成就する」となるようです。「正しいこと」というのは「義」と訳されています。ちなみに、口語訳聖書は「すべての正しいことを成就する」と翻訳しています。主イエスがヨハネから洗礼を受けること、それは成就すべき「義」つまり神の前に正しいことなのだと言われているのです。主イエスは、人間がなすべき正しいことを全て行おうとしておられるのです。神の御前に罪を告白して、悔い改め、赦しを願うことのしるしとして洗礼を受けることは、人間がなすべき基本的なことです。主イエスは、そのことを、私たちの先頭に立ってして下さったのです。それゆえ、ヨハネは主イエスの言われるとおりにしたのです。

 

メシア(救い主)としての任職 

16節、17節に次のように記されています。

16イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

ここに記されていることは、神が主イエスに聖霊を注いで、主イエスをメシア、救い主として任職された情景です。昔、イスラエルにおいて、王に任職する人の頭に油を注ぐという儀式を行いました。油は、神の霊である聖霊を表わしており、それによって王となる人に聖霊が与えられたことを表わしたのです。この王に油を注ぐという儀式は預言者や祭司によって執行されましたが、ここでは、神が天を開いて、主イエスに神の霊を注がれるのです。主イエスは、自分に向かって天が開き、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になられたのです。このことは、主イエスが神によって聖霊を注がれ、救い主として任職されたことを私たちに教えているのです。

このことは、天からの声によって宣言されたことでもあります。「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」と記されていますが、この御言葉は、今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉、詩編第2編の言葉を背景として読む必要があります。

 

わたしの愛する子

詩編第2編は王の即位を歌っています。その7節に次のようにあります。

7主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。

「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」

「お前はわたしの子」とありますが、神によって王に任職された者は、神によって「わたしの子」と呼ばれるのです。サムエル記7章に記されているダビデとの契約の中で「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われていますが、イスラエルの王となることは、神の子となることでもあったのです。古代の中近東方面の王たちは多くの場合神の化身としての神の子でありました。エジプトの王も神の化身という考え方でありました。しかし、イスラエルの王は即位の日に契約的な意味で神の子となったのです。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ」というのは、王の任職、つまり即位式の日に神の養子と認められたことを表わしているのです。このユダヤ的考え方で、聖書は主イエスの洗礼を書いているのです。

神によって王に任職された者は、神によって「わたしの子」と呼ばれるのですが、主イエスは「わたしの愛する子」と呼ばれています。これは神と主イエスの特別な関係を表わしています。主イエスは、神にとってまさしく「愛する独り子」であるのです。主イエスは王として任職されたゆえに神の子とされただけではなく、その存在においても聖霊によっておとめマリアより生まれたゆえに、神の愛する独り子なのです。

ここで心に留めておきたいのは、「愛する子」という表現です。「神の子」であるだけでなく、「神の愛する子」と記されています。この場面においては、神の言葉は主イエスお一人に対して語られたものです。その場にいた大勢の人々に対しても語られたのではなく、あくまで主イエスお一人に対して宣言されたものです。その時、はたから見ると、大勢の中の一人の男性がバプテスマのヨハネから洗礼を受けただけの出来事にしか見えなかったかもしれません。

しかし、その後、主イエスが全身全霊でなさったことは、この神の声を、私たち一人一人に対して語りかけられている声とすることでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の声が、一人一人に語られているものとするべく、主イエスはその活動を始められてゆきます。主イエスが私たちの前に「公に現れて」下さったのは、私たちが神の愛を知るためだったのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネから洗礼を受けられてからその後の数年間の活動において、主イエスは、神の愛を伝えるべく、全精力を注がれました。神の国の福音を宣べ伝え、病の床にある人を自らお訪ねになり、社会から疎外され差別されている人に寄り添われました。そうしてご生涯の最後には、私たちへの愛ゆえに、自ら受難と十字架の道を歩まれました。聖書を通して、私たちは新しい年もその主イエスのお姿を仰ぎたいと思います。

 

主が定めてくださった洗礼

 バプテスマのヨハネから悔い改めの洗礼を受け、私たちの先頭に立って下さった主イエスは、私たちを十字架の救いにあずからせて下さるために、ご自身の洗礼を定めて下さったのです。そのことが、この福音書の最後の所、28章18節以下に語られています。復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、弟子たちを世界へと遣わすに際して言われたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。今や私たちには、復活した主イエス・キリストが定めて下さった、父と子と聖霊の名による洗礼が与えられています。これこそバプテスマのヨハネが、わたしの後から来る方が聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言っていた洗礼です。この主イエスの洗礼は、ヨハネが授けていた悔い改めのしるしとしての洗礼を受け継いでいますが、悔い改めのしるしであるだけでなく、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命、永遠の命にあずかることのしるしでもあります。それは、神によって命を与えられている全ての人間がなすべき正しいこと、ごく自然なことなのです。

 先週の水曜日1月4日午後7時35分、主イエスによって愛された姉妹、本田稲子姉妹が天に召されました。連絡を受けてご自宅に私は駆けつけましたが、安らかに眠っているようなお顔でした。12月17日に、私に来て欲しいと伝えられ、一緒にお祈りし、その時はご自身で好きな讃美歌をピアノで数曲弾かれ、493番「いつくしみ深い」や、494番「ガリラヤの風」など弾いてくれました。娘さんが録音していたので葬儀でのお別れの時に流せたらいいなと思っています。本田稲子姉は都留牧師から大磯教会で洗礼を受けて長い信仰生活の生涯を終わりました。その生涯を主イエスの忠実な僕として歩まれたことは、『大磯の地塩』の原稿を体調が優れなかったであろう中であれだけの文章を、真面目で几帳面な性格らしく立派な表まで付けて記録として残されたことにも窺われます。そして、12月25日のクリスマス礼拝は皆さんとの最後のお別れの気持ちであったのかもしれません。私は、主イエスによって救われ、忠実な僕として生涯を歩まれた洗礼受洗者の姿を見ました。

私たちも、自分が主イエスによって救っていただかなければならない罪人であることを認めて、悔い改めて洗礼を受けます。そして主イエスが十字架の死と復活によって罪人のために実現して下さった救いに与って、神の恵みによって生かされる新しい人生を歩んでいくのです。洗礼を受けた主イエスに、父なる神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言して下さいました。主イエスが定めて下さった洗礼を受けることによって、神は私たちにも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言してくださるのです。そのことを私たちは信じてよいのです。 祈ります。

 

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