1/29説教「土の器に納められた宝」

はじめに

今朝は、コリントの信徒への手紙二4章5節から10節の御言葉より、「土の器に収められた宝」ということについて御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

土の器の中にある宝

 「土の器」という言葉は、有名な言葉ですが、少し誤解されて使われることもあります。「私は土の器に過ぎませんから、そのような務めにはふさわしくありません」と、一種の謙遜を装うために使われることがあります。確かに「土の器」はもろいもので、見栄えのしないものですが、大事なことは、神が用いようとなさるなら、その器がどんな器であろうとも、必ず用いられるということです。そこには神への信頼があります。土の塵に過ぎないような自分が、神によって捕えられ、用いられて、神の憐れみを知れば知るほどに自分が砕かれ,削られ、磨かれていくのです。パウロが福音を述べ伝えるのはイエス・キリストであり、彼自身はキリストに仕える僕にすぎません。これをたとえると、土の器とその中に入れられている宝ということになると言っているのです。7節でパウロは次のように言っています。

7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて 偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

「このような宝」とは、文脈から言えば6節の「キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」を指しています。言い方を変えて言えば、主イエスがどんな人でも救ってくださるという福音の喜びのおとずれ、すなわち、キリストの救いの力が「宝」ということです。

ところで、「土の器」というのは、粘土で造られた粗末な素焼きの器を言い、たいへんもろいものです。昔、この地方では、よく土でできた壷に金や銀を入れてしまっておく風習があったといわれるのです。人間は、ちょうど土の器と同じであり、様々な弱さを抱えていて壊れやすいのです。しかし、それは体だけではなく、人間の存在そのものが、もろいものであることを意味しています。しかし、その人間が、キリストの栄光のために用いられるのです。パウロは自分自身が土の器であることを認識しています。彼は病身であり、見かけも貧弱であったといわれます。コリント教会の人々には、パウロという人物は栄光に輝いている人にはとても見られなかったのです。実際に会ってみると弱々しい人で、話しもつまらないと言われましたし、また、何らかの病気のとげが与えられていました。

それのみでなく、パウロは過去において神の教会を激しく迫害し、「多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです」(使徒言行録26・10)。しかし、そのパウロを用いて主なる神は驚くべき御業を進められるのです。彼は、謙虚に、自己のもろさと罪深さに思い至るとき、ただ神を讃えずにおられなかったのです。パウロは、驚くべき福音の宝が、こんな貧弱な、見かけの悪い器の中に盛られていたというたとえで、この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためであったと言っているのです。

私たちもまた、土の器に過ぎない者ですが、この土の器の中にある宝は、いろいろな場面で私たちに力を与えて生かしてくれるのです。パウロの生涯を見た時に、彼ほど多くの艱難や試練に出会った人はいないと思うほどです。ある時は石で撃ち殺されそうになり、またある時には、難破して遭難しそうになったこともあります。そんな中でパウロは四方から苦しめられても行き詰まらない(8節)、倒されても滅ぼされない(9節)、その力をその福音の中から経験してきました。しかもそれはパウロの過去における一度限りの経験ではなく、絶えざる経験なのです。彼は自分の無力さを絶えず経験していました。しかし神はその都度、彼のとまどいを感じている状況を変えてくださったのです。

私たち人間にとっては苦境に立ち、ジレンマに陥っているように見える時にも、神はそのジレンマを打ち砕き、解決してくださるお方です。パウロは次のように言います。

10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために

私たちが福音の力を自分のものにするには、イエス・キリストの十字架をいつも自分自身に負っていることだと、パウロは言います。 パウロは「イエスの死を体にまとっています」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっているとパウロは言うのです。コリントの人々は、パウロをある意味での失敗者として、廃棄される土の器のように見捨ててしまいました。しかし、キリストも十字架上で見捨てられています。主イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。これは驚くべき逆説です。絶望の果ての弱い姿と見えた十字架。しかし、その十字架の死から勝利し、主イエスをよみがえらせることによって、復活の力を神は現されたのです。イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死に、私の永遠の救いのためによみがえって下さったという事実が福音です。だから私たちがその力を経験しようとするならば、キリストの十字架と復活をこの身にピッタリと感じとらなくてはなりません。パウロは、復活の主によって命を与えられ、本来はもろい土の器でありながら、強く、たくましく、生きていくことができたのです。ともあれ、弱い自分が、このように支えられていること自体、主イエスが今もなお生きて支配しておられるなによりの証拠であると、パウロは考えたのです。

 

新しく生きる者に変えられる

 私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは語ります。パウロはローマの信徒への手紙6章4節で次のように語っています。

4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

洗礼は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けたことに始まっており、主イエスもこの洗礼を受けたのですが、主イエスのご復活後、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名による洗礼を授け」るようにと、お命じになりました。現在、洗礼式は3つの方式で行われています。「浸礼」(しんれい)といって、全身を水に浸す方式。「灌水礼」(かんすいれい)といって、頭に水を注ぐ方式。そして私たちの教会で行っている「滴礼」(てきれい)という、ぬれた手で頭を押さえて、水に沈めるような形で行う方式があります。いずれにしても、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死ぬことを意味します。キリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。私たちはこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられて行くのです。

 

宝は主イエスの命

しかしながら、私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。神の子とされているのに、何故次々に困難や苦難が与えられるのか、自分は呪われているのではないかとさえ思える時もあります。それは、これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、途方に暮れっぱなしではなかった。彼は失望から立ち上がる力が与えられました。「十字架で殺されたイエスの体を身にまとって」いたからです。復活の主イエスの命がパウロのうちに充満し、彼は立ち上がりました。

パウロは自分のことを、価値の無い、みすぼらしい、壊れやすい土の器であると言いましたが、しかし、その土の器は壊されてしまうことはない。むしろ、そのような苦難を通して、土の器の中にある宝が輝き出るのだと言うのです。この場合の「宝」とは、「福音」というよりも、「主イエスの命」です。土の器である私たちは、「主イエスの命」という宝をも納めているのです。パウロの苦しみは主イエスの死のさまを担う苦しみであり、その苦しみを通してこそ、主イエスの命が自分の体に現れることを知っていたから、パウロは行き詰まらずにいることができたのです。

 

困難・複雑さを楽しむこと

 先週の日曜日の午後3時半に、私は大井伝道所に伺いました。西湘南地区では、毎年、地区内の3つの伝道所と1つの教会の一箇所を問安するという慣例になっていて、先週は、同時にそこで地区委員会が開催されたので、委員の一人である私も出席したわけです。コロナ禍で何処の教会も大変ですが、大井伝道所もなかなか伝道が容易ではない地域なので、ご苦労はされているようでした。その際、親しくさせていただいている岡田牧師から、出席の委員に、といって、ある無料のフリーペーパーのコピーをいただきました。何処が発行しているのか分かりませんでしたが、その内容が素晴らしかったのでご紹介したいと思います。

「レター 未来の日本へ」という新連載の第一回で、「尾身茂」(おみ しげる)さんを取り上げていました。新型コロナウイルス感染症対策分科会 会長としてテレビで良く見かける尾身氏の写真が掲載されていたので興味を持って読みました。

尾身茂氏は、若き日、大学の法学部に入学したのですが、『わが歩みし精神医学の道』(内村祐之著)に感銘を受けて医師を志し、大学を中退。数学があまり得意でなかったが、猛勉強して自治医科大学に入学、医師としてのキャリアを重ねたようです。ところが「人生は自分が思うようにはならないと改めて知らされた」出来事があったのですが、そこから次のような言葉を語っています。「課題を解決しようとする際に、誰もが努力を惜しまないだろう。多角的に物事を見て、理性的に判断しようとするものです」。だが、尾身氏はそれだけでは十分ではないと気づいたという。「さまざまな局面を経験すると、人間というのはもっと自分の視野にない、まったく思いもよらなかった要素が重要だと気づきました」。この視野になかったものとの出会いを、尾身氏は「偶然」と呼んでいます。尾身氏はキリスト教徒ではありませんが、アメリカの神学者ニーバーが言った「静穏の祈り」(冷静の祈りとも言います。)を座右の銘の一つとしていると語っています。

「これは神様に3つの力を与えて下さいという祈りです。まず、今ある課題が自分で解決できるものなのか、そうではないのかを見分ける知恵。空を飛びたいと思ってもそれはすぐに解決できないでしょうが、自分の準備不足は変えられる。次に、その変えることのできるものは果敢に変える意志。そして最後の3つ目は、変えられないものを受け入れる力です」「例えば」と言って、尾身は10代の頃に友人から「尾身は座っている方が立派に見える」と言われた話しを語っています。「私は足が短くて曲がっています。しかし、これは悩んでも仕方がないことで、潔(いさぎよ)く受け入れるしかありません。運命や過去についても同じことです。変えられない過去について、自分を責めても仕方がない」と語っています。

もう一つ、尾身氏が心に置いている旧約聖書の一節があります。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まれるに時があり、死ぬるに時がある。植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり・・・

というコヘレトの言葉です。この言葉の良いところは、すべてのわざには時と方法があると言っているのに、それがいつかを教えてくれる人はいないということです。最後は自分で判断しなければならない。でも、人間がどれだけ頑張っても、自分が予想しないようなこと、つまり「偶然」が待ち受けているものです。そういう意味で複雑さがあると。

 

複雑さに耐えるとは、不安に耐えること

尾身氏は、複雑さに耐えるとは不安に耐えるということと同じ意味だと話します。確かに、不安だからこそ、白黒はっきりさせて単純化させたくなる。しかし、コロナ禍でも経験したように、世の中は複雑で、正解は必ずしも一つとは限らない。「だからこそリーダーは性急に答を出したら駄目なんです。多くの人の意見を聞いて、待つことが大事。そうすることで自分の視野になかったことが、偶然が、見えてくる時がある。そして、それでも間違う時があるかもしれない。だけど、不安であることはベースであり、当たり前のことなんです」と語っています。不安には原因がある。その原因を突き詰め、解決する方法を探っていく。そうするとふと解決方法が見つかる時がある。時間が解決することもある。そういう意味で〝神は時間〟なんです。神を信頼することは時間を信頼することでもあると語っています。「感染症が起きると社会が変わる、社会を変えると感染症が起きる、という歴史が繰り返されてきました。非常に複雑で多角的だからこそ、やりがいを感じています。困難はつらいことではなく、生きる意味、人生の喜びです。私は楽園には住みたいとは思いません」という言葉でその文章は終わっています。

 

私たち人間は、土の器に過ぎない者ですが、この土の器の中にある宝は、いろいろな場面で私たちに力を与えて生かしてくれるのです。偶然見つけた、フリーペーパーに書かれた尾身氏の言葉の中にも、パウロの生き方に共通するものがある。神に信頼しつつ不安と戦う者の力強さを感じました。土の器を用いてくださる主が生きておられる。だから自分を土の器だと自覚することは、ただの謙遜ではなく、主は生きておられる事実を喜び、証しし、主を誇ることなのです。この土の器をご自身のものとし、その尊い御手に取ってくださった、そのお方を忘れてはならないのです。祈ります。

TOP