はじめに
新年を迎えたと思ったらもう2月になりました。礼拝の後、定例の役員会があり、来年度に向けての方針やいろいろな課題について協議致します。そして、3月までの間に皆さんと一緒に懇談する機会を持ちたいと考えています。そして、今、コロナ禍のために対面で話し合う機会が少ないので、説教の中でも、情報をなるべく共有したいと思って、聖書の説き明かし以外のことも話したりしています。先週の火曜日、1月31日、オンラインで神奈川連合長老会の教師会があり、午前中は学習会があり、午後は、様々な報告事項、各教会、教団、教区を初めとする情報の共有の機会がありました。神奈川の13、4教会のグループの会でしたが、牧師がコロナにかかった方が、今までに5~6人いました。皆、比較的軽かったようですが、ある牧師は今年の新年初めにコロナにかかったようですが、後遺症がひどくてリモートの画面からも咳き込んで苦しそうだったので、まだまだコロナは油断はできないと思いました。しかし、礼拝については少しずつ元の形に戻って来ているようです。讃美歌を1節から、2節まで歌うことになったり、クリスマスイブ礼拝を対面で行うようになったとか報告がありました。ある教会は4月から新しく翻訳された聖書協会共同訳聖書を礼拝で使うようにするそうです。私たちも検討する必要があるかも知れません。コロナ禍でいろいろ変化がありましたが、マイナスの変化としては、どの教会も総じて現住陪餐会員が減っています。リモートの礼拝で今まで礼拝に出られなかった方々が、礼拝出来るようになったというプラスの面もありますが、教会員が戻ってこない、教会員の高齢化もあるわけですが深刻な問題です。ある教会では1年間に現住陪餐会員が50人近く減少しているのに驚いたと語っていました。いずれにしてもどこの教会も、礼拝を中心にして、試行錯誤しつつ福音宣教に努めております。大磯教会も、無理をせずにですが、正常な教会の営みがなされるようにと祈りたいと思います。さて、今朝も聖書の御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
ぶどう園の労働者のたとえ
今朝は、マタイによる福音書第20章1節から16節の御言葉から学びたいと思います。これは主イエスが語られた「天の国のたとえ」の話しです。聖書の小見出しに「ぶどう園の労働者のたとえ」とありますが、ここで語られている主イエスの譬えは一見、奇妙に思える雇い主の話です。このたとえの背後には、2千年前の当時のパレスティナの厳しい労働環境がありました。しかし、厳しい労働環境は、敗戦後の日本やドイツもそうであったであろうし、現在の日本でも非正規労働者やヤングケアラーや、外国人労働者の労働環境や医療・介護の現場など様々な厳しい労働環境があります。そして世界には景気の良い国もあるでしょうが、世界の労働環境も決して良好であるとは言えません。
ところで、ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。多くの労働者が、毎朝、その日の働き場所を求めて決められた場所に集まってきます。しかし、働き場所を見つけることはなかなか困難でした。こうした状況の中でたとえ話に出てくる家の主人は、自分から働き人を求めて広場を訪ねます。当時の労働者は朝の7時頃から夕方の6時頃まで働いていたようですから、途中、食事を摂っても10時間近く働いていたことになります。特にぶどうの収穫期であれば労働者は沢山必要だったでしょう。そのために、この主人は朝早く5時か6時には家を出て、日雇いの労働者が仕事を求めて集まっている広場に出かけたのです。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、2節にありますように、主人は「1日につき1デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。1日につき1デナリオンという賃金は当時の平均的な賃金でした。本人とその家族が、贅沢をしなければ、なんとか生活していけるだけの金額です。主人はそれだけの賃金の約束をして、口頭で労働の契約を結びました。広場でその日の仕事を求めていた人々は喜んでぶどう園に働きに行ったのです。
それでもぶどう園で働く人の数は足りません。それで、「9時頃行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。」とあります。更にこの主人は12時と午後3時頃、そして労働することが出来るわずか1時間ばかり前の5時頃にも、広場を訪ねました。ところがその時間になっても未だ働き場所を見つけることができないで、広場にたむろしている人々がいました。主人が彼らに尋ねると、彼らは、「誰も雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らにも「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったと記されています。彼らは、仕事が気に入らないから働かなかったのではありません。彼らも家族を養い、働き場所を求めているのですが、雇ってくれる人がいなかったのです。体力がなさそうに見えたのか、理由は分かりませんが、暗い思いをもって、1日中空しく「何もしないで」日を過ごすしかできなかったのです。このような人々にも、この主人は仕事を与え、彼らをぶどう園に送るのです。なぜ、この主人は敢えてそのようなことをしたのでしょうか。この譬えを最後まで読んで見ると、そこにはこの主人の憐れみの思いからの行動なのです。確かにここで話しが終わっていれば、情け深い主人の美しい話しで終わるのです。
最後の者から
そして、賃金の支払いが始まります。この主人は約束どおり一人一人にその日の賃金を払います。ところがこの主人は最後に来た者から始めて、最初に来た者へと賃金を支払いました。順序が逆ではないでしょうか。この事実が既に、この主人、それは神様のことですが、神様の考えておられることが人の常識とは全く違うということを暗示しています。更に人々がもっと驚いたことは、賃金の額です。支払われる賃金は、最初に来て10時間以上にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われたことです。これは不可解な不公平であり、不平等ではないでしょうか。最初から働いた人々は、自分は最後に来た人々の10倍も働いたのだから、もっと高い賃金をもらえると考えたでしょう。始めに雇われた人たちから支払えば問題にはならなかったのですが、主イエスの譬え話にはなりません。最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われた。これは確かに不可解な不公平と言わざるを得ません。この裏切られた期待感は不平、不満として爆発します。しかし、この主人は労働者の不平、不満に少しも動じません。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)と問い返しています。そもそも、この譬えは、自分たちは正しい生活をしているから救われて当然だと思うファリサイ派の人や律法学者に向けて主イエスが語っている譬えなのです。12時間働いた人とは彼らを指すのでしょう。1時間しか働かなかった人は徴税人や病人、娼婦たちを指すのでしょう。しかし、最近では、早く雇われた人々は若い時からのクリスチャン、遅く雇われた人々は人生の終りにクリスチャンになった人々、などとも解釈されたりしますし、あるいは、こういう解釈もあります。「早くからぶどう園で働いた人々はユダヤ人」、「後からぶどう園で働くようになった人々は日本人を含めた異邦人」であるとも言われます。そしていずれの解釈においても、ぶどう園の「主人は神」で、早く雇われた労働者たちは、自分の業績を誇り、神の寛大さに反抗する傲慢な者と理解されてきました。こうして、神は、神の前に何ら業績の無い人々へも業績主義ではなく、心優しく寛大に振舞う方だという、神の慈しみの教えとして理解されてきました。そしてまた、あらゆる人々の間に神の民の平等と連帯を呼びかける話しとして理解されてきました。
ねたみとは悪い目
この主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリオンを支払ったのでしょうか。それは1デナリオンがないと労働者とその家族は今日のパンが買えないからです。それは生きるための最低賃金なのです。5時から働いた人は怠けていたわけではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいたのです。父なる神は、この人の悲しさを知って、彼らにもその日のパンを買うだけの賃金をくださったのです。しかし、この主人の慈しみが人間をつまずかせます。文句を言う人々に主人は言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と言っています。ここで「ねたむ」という言葉が出て来ます。この言葉は原語では「悪い目」という意味です。「あなたの目は悪いのか」と主イエスは尋ねておられることになります。「悪い目」とは、自分の財産や権利を守るために、私たちが自分の周りに張りめぐらしてしまう視線のことです。最初の労働者はこの世的な公平を求め、1時間しか働かなかった労働者の賃金が10分の1デナリオンであれば満足したことでしょう。その結果、1時間労働者が今日生きるためのパンを買うことが出来なくても、それは彼らの関知するところではない。この悪い目、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目こそ、神が忌み嫌うものです。
現代社会には、2千年前とは違う様々なセーフティーネットがあるかも知れません。法律や政治の救済措置はあります。しかし雇用の不平等はあります。働かざる者食うべからずということわざもあり、この世の価値観は能力主義、業績主義であり、社会は労働能力の劣ったものを「役立たず」として捨てます。しかし、私たちがある人々を「役立たず」として捨てる時、実は私たち自身を捨てていることになります。なぜなら、私たちもいつかは、無能力者になるからです。病気になるかもしれない。私を含めて、もう多くの方は病気を持っています。失業して無収入になるかもしれません。私自身も、会社から解雇通知を受けたり、会社が倒産したり、自ら辞表を出した経験があります。その都度ハローワークで失業給付を受けたり、受けられなかったりしました。何度も経験していると慣れっこになりますが、無収入の不安は大きいのです。また歳を取れば身体的、精神的能力は衰えます。他人に起った不幸は自分にも起こり、能力主義の社会では何時、敗者になるか分かりません。勝ち組も遅かれ早かれ負け組になります。そこには平安が伴うが、それで良いのか、と神は言われているようです。
誇る者は主を誇れ
今朝の旧約聖書の御言葉はエレミヤ書9章22節、23節です。
22主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇る な。富ある者は、その富を誇るな。
23むしろ、誇る者は、このことを誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。
この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
預言者エレミヤが見た人間の悲惨な現実とは、神から切り離された自己の知恵、力、富を誇る自己偶像化の問題でありました。自己の知恵、力、富に信頼を置く生き方が、自己偶像化の道であり、神を自分の意のままに利用しようとする結果となって現れると、エレミヤは洞察しています。
神を恐れることがすべての知恵のはじめである、という知恵に関する命題は、詩編や箴言だけでなく預言者エレミヤにもあります。その生涯の起点を神に置き、そこから人生を方向づけ、神を中心として組み立てられる人だけが、神を知る真の賢さを持つことができるとエレミヤは言っているのです。慈しみ、正義、恵みを施すのは神です。「主を知る」者、即ち主を知って、主を恐れ、主を誇って生きる者は、常に主から賜る贈り物を受け取るのです。そして、栄光をただ神にのみ帰すことを願って生きるのです。今、自分たちを襲っている悲惨な現実は、御言葉に聞かないことにあるのは確かです。しかし、その御言葉を今どのように聞くか、それは、今の時代を生きる私たちの問題です。その意味で、この知恵の問題は、キリスト者の御言葉に聞く信仰のあり方として、今の時代を生きる私たちに大きな示唆を与えてくれるのです。
後にいる者が先になる
この譬え話は「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」(16節)という言葉で閉じられています。これは神の恵みを表わしています。その神の思いはキリストの十字架において示された私たちへの自由な憐れみなのです。私たちもしばしば、先を越された人に対して、自分の特権を無視されたように不平を言うことがないでしょうか。極端な合理主義、えこひいきにいらだつ思いも行きすぎると余裕の無い社会になります。いじめの温床にもなる気がします。
『主イエスの譬え話』(加藤常昭著)で、加藤常昭牧師は次のように書いています。
「・・・わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それともわたしの気前のよさをねたむのか」。これは厳しい審きの言葉でもありますが、また慰めに満ちた御言葉です。「気前のよい」主人の恵みに生かされるようにとの招きの言葉です。ここでの報いは10の働きをしたら10の報いがあり、5つの働きをしたら5つの報いがあるということではないようです。そのように働いた者の働きが呼び出したものではなくて、ぶどう園の主人が、ただ心から喜んでもらいたいから与えた賜物です。そのような主人の気前よさがここでの主題になっているのです。私たちは朝から働いた労働者なのか、あるいは最後の5時頃に雇われた労働者なのか、皆さんはどう思いますか。それによってこの譬えは違って聞こえてくるのです。慰めに満ちた言葉として聞こえてくるのです。確かにここでの主人公はぶどう園の主人です。気前の良さのおもむくまま愛を注いでくださる主人の話なのです。祈ります。