2/12説教「種を蒔く人」

はじめに

先週の月曜日、2月6日未明、トルコ南部、ガジアンテップ県でマグニチュード7.8の大地震が発生、死者が2万数千人に及んでいます。神戸淡路大震災と東日本大震災を上回る被害に愕然とします。コロナという歴史的なパンデミックとウクライナでのロシアの侵攻、そして大地震の発生という驚愕の事態が続きます。しかし、罪深い人間は、それでも直接の痛みとして自分に降りかからなければ、同じ痛みは分かりません。直面している自分の問題、物価高騰、日々の生活の心配、様々な病気の不安、死への恐れ、そして霊的な貧しさなど、多くの人々が様々な救いを求めています。そして、それは2千年前の主イエスが地上に来られた時も同じでした。今朝は、主イエスのもとに集まった多くの群衆に主イエスが語った「種を蒔く人のたとえ話」から御言葉の恵みを受けたいと思います。

この種を蒔く人のたとえ話は、マタイによる福音書、マルコによる福音書にもほとんど同じ内容で収められています。今朝はルカによる福音書8章4節以下の箇所を取り上げますが、これはローズンゲン2023年版で『日々の聖句』の2月12日に指定された聖句です。この『日々の聖句』は日本では「ベテスダ奉仕女母の家出版部」から発行されていますが、原著者名としてはへルンフート兄弟団となっています。従って今日は、世界中の多くのプロテスタント教会でこの「種を蒔く人」のたとえから説教がなされています。大部前になりますが、西湘南地区の牧師会で聞いた話しですが、7~8人の牧師がローズンゲンの『日々の聖句』の聖書箇所から説教していると言っていましたから、今朝は西湘南地区の多くの教会でも「種を蒔く人」のたとえから聖書の説き明かしがされていると思います。早速、ルカによる福音書8章4節から15節の御言葉から主イエスのメッセージを聞きましょう。

 

見ても見えず、聞いても理解できない

 主イエスは弟子たちに、10節でこう言われました。

10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」。

この主イエスのお言葉は、私たちの常識を覆すものです。つまり、たとえ話は普通、分かりにくい事柄を、身近な物事にたとえることによって分かり易くするものです。確かに、ここで語られているたとえも、当時の人々がごく身近に体験していた具体的なことです。蒔かれた種がどういう土地に落ちるかによって、芽を出して育ち、実を実らせるか、それとも育たずに枯れてしまうかが変わるというのは、誰もが知っていることです。そういう誰にも分かることを用いて真理を語る、悟らせる、そのためにたとえは語られると思うのです。ところが、主イエスの場合は群衆に理解させないために語る場合があるのです。それは何故なのかを聖書の御言葉から解き明かされるのです。

この時、主イエスの頭の中には預言者イザヤの言葉がありました。イザヤ書6章9節、10節に次のように記されています。

9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな

よく見よ、しかし悟るな、と

10この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。

目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく

悔い改めていやされることのないために」

言葉の表現は少し難しい言い方ですが、主イエスはイザヤ書のこの言葉を引用しつつ、たとえを用いて話す意図は、「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためだと言っておられるのです。このイザヤ書6章は、イザヤが神によって召されて預言者として遣わされる場面ですが、そこで主なる神が語っておられるのは、イザヤが神の言葉を語る預言者として遣わされても、そして神の御言葉を語っても、人々はそれを理解せず、悔い改めようとしない、という厳しい現実を語っているのです。御言葉が語られても理解されず、受け入れられない。つまり、主イエスのたとえも、それと同じように、語られても人々に理解されないと主イエスは言っておられるのです。それはどういうことでしょうか。ここでは、弟子たちと、主イエスのもとに集まってきた大勢の群衆とが対比されています。4節から8節に語られている「種まきのたとえ話」は、主イエスの弟子たちにも語られていますが、集まってきた大勢の群衆に、主イエスはお語りになっているのです。そして9節以下は、群衆が去った後、主イエスが弟子たちの問いに答えてお答えになった言葉です。

主イエスのたとえは弟子たちにも群衆にも語られています。しかし弟子たちはそれによって「神の国の秘密」を悟ることができるが、群衆はそれを悟ることができず、たとえの中に取り残され、「見ても見えず、聞いても理解できない」ままに終わるということなのです。たとえを聞いて神の国の秘密を悟ることができるか、それともそれを悟ることができず、たとえが指し示していることが分からないまま終わってしまうか、そこに、弟子たちと群衆との違いがあるのです。

そしてまさにこのことこそ、「種を蒔く人のたとえ」が語っていることでもあります。種を蒔く人が蒔いている種とは、11節で主イエスご自身が説明しているように、種は神の言葉です。神の御言葉という種が蒔かれる、しかしそれがどのような土地に落ちるかで、結果は変わってくるのです。芽も出さずに鳥に食べられたり、芽を出しても結局途中で枯れてしまって実を実らせない種もあれば、百倍の実を実らせる種もある、同じ御言葉を聞いても、それが理解され、よい実を結ぶ場合と、実を結ばないままで終わってしまう場合とがあるというのです。このたとえ話は、同じ種が蒔かれてもそういう違いが生じることを語っているのです。

 

種を蒔く人のたとえ

2年前に私は『聖書のたとえ話』という本を作りましたが、そこではマタイによる福音書13章1節から9節の「種まきのたとえ」の箇所を取り上げています。聖書研究祈祷会で語ったことを纏めているわけですが、今日の説教を準備するに当たって読んで見ましたが、メッセージとしてこのまま使えるな、と思いましたので、一部を引用いたします。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」とありますが、この種蒔きとは何を表すのでしょうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。神の国の喜ばしい訪れを言葉によって述べ伝えること、つまり、伝道のたとえということができます。種蒔きのたとえは人によって様々な受け止め方ができると思います。ある人は、自分の歩んできた道をふり返り、あまりにも多くの茨に心を奪われ、実りが少なかったことを思うかもしれません。ある人は、教会から離れていった友を思い、石地でない良い土地に種が落ちたならと思うかもしれません。私自身は道端に落ちたのに、鳥に食べられる前に、たまたま風に吹き飛ばされてよい地に巡り会い生き延びたケースかもしれないと思います。

私自身が牧師になるキッカケを考えた時に、まさに道端に落ちた種のようであったと、主によって救われた恵みを表現しましたが、たまたま西湘南地区の「地区報」を今日皆さんにお配りしましたが、その中で、昨年、西湘南地区に赴任されたお二人の教師の自己紹介文が掲載されています。それぞれに全く違う道を歩まれましたが、お二人とも還暦を過ぎての赴任です。私も大磯教会に招聘されたのも60歳ですから同じような立場です。お二人の教師は4つの場合のどの土地に蒔かれた種と思われているのか聞いてみたいとも思います。

ところで、当時のパレスチナの農業は、冬季の雨を利用して冬に成長する大麦、小麦やエンドウやビートが中心の農業です。そして、種蒔きは、日本のように畝を作って蒔くのではなく、ばら撒いた後で鋤き返すのです。収穫は穂先だけを刈り取るようです。「道端」に種が落ちるというのは、畑のあぜ道とは違います。畑の中に堅く踏み固められ自然に出来た道をいいます。茨の根は強く堅いのでタバコのパイプにもなる程だそうです。パレスチナの畑は石が多く畑を石垣で囲むこともあります。そして「良い土地」に落ちた種の収穫は、通常は種の10倍程度収穫できれば一応はいいらしいのですが、百倍というのは予想を越えた大豊作ということを言っているのです。主の恵みは人間の予想をはるかに越えるのです。これが、御言葉の種が実を結ぶ場合です。種がよい土地に落ちて百倍の実を結ぶということは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐」することだと言っています。御言葉をしっかり聞き、心で受けとめ、試練に負けることなく、人生の思い煩いや富や快楽に惑わされることなく、それを守り続けることによって、神の御言葉が百倍の実を結んでいくのです。

 

御言葉の種は豊かに実る

 『聖書のたとえ話』の中の「種まきのたとえ」にはこう書いています。

ある方が、若い頃、教会学校の教師として延べ数百人の子ども達と過ごしたけれども、数10年たった今、誰も教会に来ていないと言われました。しかし、今回、大磯教会会堂改修の知らせを出したら、何人かの方から献金が送られてきたので嬉しかったと語っていました。そして、御言葉の種が蒔かれていたと語っていました。その通りです。その方たちは必ず教会に戻ってきます。種は時期がくれば成長し、実を結びます。ただ、その時期は人により違います。天に召される直前に実を結ぶことでも結構ではありませんか。

教会の働きは、だれかれ構わず招き、御言葉を蒔き続けることと言うことができます。道端であろうと、石地であろうと、茨の中であろうと、相手を選ばず、せっせと蒔き続けることです。見込みが有るか無いかは関係なく、蒔かなければなりません。神の国にえこひいきはないのです。大磯教会もそのように百十数年、この地で御言葉が蒔き続けられたのだと私は思います。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。・・あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(コリントⅠ:3章6~9節)。種蒔きのたとえの示すことは、愚かで、うだつの上がらない私たちを用いて、神が密かに豊かに実を結ばせてくださっているということです。わたしたちは神の言葉を伝えることに心がけましょう。実を結ばせることは神に委ねましょう。教会は、ただひたすらに種を蒔く農夫のように、御言葉を蒔き続けましょう。

 

 聖書研究祈祷会で毎回語った例え話の原稿ですが、本にすると結構よい文章だなと自己満足しそうです。そこである女性の教会員が語っていた言葉が印象に残ったのです。かつては大磯教会も沢山の子供たちが子ども礼拝に出席して楽しくワイワイやっていたのです。その福音の宣教は無駄にはなりません。私も当時は日曜学校と言っていましたが、出身教会で日曜学校教師を19歳から何十年と奉仕をしました。愛知県の教会に移ってからも信徒として教会学校教師をしていました。確かに多くの子供たちは教会に残っていませんが、必ず御言葉の種は育っています。何時かは実ると思います。母教会でも教会学校から育った信徒が現在では長老として奉仕していますし、そのまた子どもも育っています。そして別の教会に移ったとしても、信仰は続きます。

御言葉である種が蒔かれ、それが実るとは、何を意味するのかはいろいろあると思いますが、牧師になることもその一つだと思います。戦後70数年の大磯教会からも何人かの牧師が生まれています。カルトからの救出に尽力されたK牧師も、東北教区の幾つかの教会で牧会されたY牧師も、T牧師も大磯教会出身です。今、京都方面で牧師をされているY牧師も大磯教会の礼拝に出席していたことがあると聞いたことがあります。戦前の時代にも更に多くの牧師が生まれているでしょう。教会から沢山の御言葉の種が蒔かれて、実っています。この事実をしっかりと私たちは自覚し信仰の継承と日本のキリスト教宣教に尽くしたいと願うのです。

 

種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる

 今朝の旧約聖書の御言葉は、詩編126編です。バビロンに半世紀にわたって長い間囚われていたイスラエルの民が、ペルシャ王クロスによって解放され、ある者は故国に帰還し、その後エルサレムの破壊された城壁は再び修築され、また小規模ながらその新しい神殿も再建されました。それを大いなる歓喜をもって歌ったのがこの詩編です。5節、6節を読みます。

5涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。

6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い

喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

ところが、父母の故郷に帰ってきた人々が、そこに見たのは、死んだ父母が言っていた豊かな「乳と蜜の流れる沃野」ではありませんでした。かつての畑は灌木がぼうぼうと生える荒れ地に変わり果てていました。草を抜き、木を切り、石を拾い、肥料を入れ、土を耕し、畑を作り直して、ようやく種まきとなるのです。荒れ果てて土壌の吹き飛んだ地では、種を蒔いてもそんなに簡単に収穫を得ることができるわけでもありません。けれども、荒れ果てた地を眺めて失望していては、一本の収穫も期待出来ません。涙を流しつつも種を蒔くならば、必ず喜び叫びながら刈り取る日がくるのです。種の袋をかかえて、泣きながらでも畑に出かける者は、やがて収穫の季節には喜び叫びながら帰ってくることになるとこの詩人は歌うのです。

今、世界も日本も苦しんでいます。大地震で亡くなった方々、その家族、被災者の悲しみは癒えることがありません。ウクライナもロシアも人々は戦いなどしたくないはずです。命と平安を与えてくださいと祈りましょう。そして、倦まずたゆまず、御言葉の種を蒔きましょう。種の袋を抱え泣きながら種を蒔く者は、良い地に蒔かれ、百倍の実を結ぶのです。祈ります。

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