2/19説教「必要を満たす主」

はじめに

三寒四温という言葉がありますが、冬に寒い日が3日ほど続くと、その後に4日ほど温暖な日が続き、また寒くなるというように7日周期で寒暖が繰り返される現象で、日本では春先にこの言葉が使われます。今が正にその時期です。一気には春に向かわないのです。そうやって体も次第に慣れて、冬から春へと移行するのでしょう。これも大自然の恵みの業かもしれません。ところで、今週の水曜日、22日は灰の水曜日といわれ、受難節(レント)の始まりです。4月8日(土)までの46日間、日曜日を別にすると40日間をキリストの苦しみに連なって、私たちに何ができるのかということを考える、いわば奉仕や宣教を考える時季になります。

さて、今日の説教題は「必要を満たす主」としました。4つの福音書が全部記している唯一の主イエスの奇跡、五つのパンと二匹の魚で、大人の男だけでも5千人もの人々の空腹を満たしたという奇跡の話です。大勢の人々の前で行われた大きな奇跡ですから、私たちはその奇跡にばかり気を取られるのですが、9章10節から17節をよく見ると、主イエスは、人々のいろいろな必要を見ておられ、その必要を一つ一つ満たそうとしておられたことが分かります。主イエスがなぜ、私たちの必要を満たしてくださるのか、それは、私たちを愛しておられるからであり、私たちを憐れんでおられるからです。今朝は、私たちの必要を満たしてくださる主イエスの優しさに目を留めたいと思います。

 

休息の必要

10節に次のようにあります。

10使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

9節の始めのところを見ると、主イエスは、十二弟子たちを訓練するために、彼らをガリラヤ地方の伝道のために送り出しました。働きを終えた十二人はイエスのところに戻って来て、自分たちが行った働きについてイエスに報告をしました。主イエスは、弟子たちがこの働きによってどれほど疲れているのかを知っておられました。それで、彼らを連れてベトサイダと言う町に行かれたのです。ベトサイダと言う町は、聖書の巻末についている聖書地図の「6.新約時代のパレスチナ」という地図をみると、ガリラヤ湖の上(北)にカファルナウムと向かい合っている小さな町です。そこに行けば大勢の群衆から離れることができ、弟子たちはゆっくり休んで食事や睡眠を取ることができるのです。マルコによる福音書6章31節を見ると、弟子たちは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」と記されています。主イエスは弟子たちに休息を与えるためにベトサイダに行かれたのです。主は私たちの弱さを知っておられます。それは人間となられた主イエスご自身が、多くの苦しみや肉体的な弱さを経験しておられたからでしょう。主は、私たちにも、訓練のために試練や苦しみをお与えになることがあります。しかし、同時に、主は私たちの弱さも良く知っておられるので、私たちに休息を与えてくださるお方です。

うつを乗り越える気楽な人生

 先週、二宮図書館から借りてきた『ぼくのうつ人生』という関西大学名誉教授。文学博士の谷沢永一(たにざわ・えいいち)という人の本を読みました。谷沢先生は10代の頃からうつ病になやまされてきたので、少しでも参考になればと書いたと言っていますが、誰でもなりうるので、参考になる良い本だと思います。牧師の仲間の若い人にもうつ病にかかった人が何人もいますが、皆、それぞれに牧師に復帰し活躍しています。うつは心の風邪のようなものと谷沢先生は言っていますが、神経をすり減らし、ストレスをため込み、知らず知らずのうちに体や精神に変調を来してくるので、苦しい病気です。咄嗟的に電車に飛び込んでしまったりするので、周囲の人間が温かく見守らなければならないと思いました。真面目な人ほどかかりやすいのです。現代社会は様々なストレスがあり、労働環境も厳しいものがあります。過度の緊張に絶えず晒され続けています。気がついた時には底なし沼にはまり込んでしまうことになります。人生は好きなことを見つけて、適度に休息を取ることが必要だと思います。高田純次という俳優なのかタレントと言うべきか、良く分かりませんが、テレビで、街角を散歩する番組がありますが、よくだじゃれが出て、口から出任せのようなことを言って、笑わせていますが、ああいう人の接し方がストレスを与えなくていいですね。また、タモリというタレントも自然体でいいですね。知識もあり努力もされていると思いますが、それを見せないところがいいです。いずれにしても人間は緊張ばかり強いられると様々な体や精神に変調を来してしまうのです。

今朝の聖書箇所に戻りますが、主イエスは弟子たちの疲れに対して休息を与えるためにベトサイダに退かれたというところに主イエスの優しさを思います。しかし、主イエスが弟子たちを「人里離れた所」に退かせたのは、彼らが静かな場所で神と向き合う時間を過ごすためだと思います。神の国を宣べ伝えるという大変ながらも素晴らしい務めを終え、興奮しながら戻ってきた彼らが、心と身体を静めるために「人里離れた所」で神に祈り、その祈りの中で自分自身の働きを振り返るように、主イエスは導かれたのです。ルカによる福音書は、主イエスご自身がその働きから離れて「人里離れた所」に退いて祈られたことを記しています。例えば、5章15節、16節にはこう記されています。

15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まってきた。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

主イエスはたびたびそのようにされました。同じように弟子たちにも働きから離れ、静かな所で神に祈ることを教えておられるのです。

 

神から与えられるリフレッシュ 

 世界的なコロナ禍も、日本でも5月からは季節性インフルエンザと同じような扱いになると言われ、当初の恐怖感は薄れてきましたが、長いコロナ禍も悪いことばかりではなく、ある意味、あくせくした生活から解放された期間でもありました。教会でも礼拝だけに集中できた良さもあります。改めて何が本当に大切なのかを意識することができました。一般的にもよくそういう話しを聞きます。あくせくするばかりが人生ではないのです。大切なことは何なのか、本当にやりたいことは何なのかを意識された期間でもありました。

それまでの私たちは、そして今、再び、忙しい毎日を送りはじめています。私たちはそれぞれに遣わされたところで、神によって導かれ、豊かな実りが与えられることを経験します。しかしそのような中で、いわゆる「成功体験」に夢中になり、いつのまにか自分の力で何かを成し遂げたかのように錯覚し、思い上がってしまうことがあるのです。自分の手柄のように思ってしまうのです。しかし一旦、自分の感情の高ぶりから距離を置いて、神に祈る中で、本当は自分の力ではなく、主イエスが与えて下さった力によって働きを担えたことが示されていきます。その働きに、神の導きと支えがあったことが示されるのです。そのような祈りの時が私たちには必要です。神に祈り、神と対話することによってこそ、日々の働きの中で興奮したり、あるいは落ち込んだりして、疲れとストレスを抱えている私たちに、本当のリフレッシュが与えられていくのです。週の半ばの水曜日に祈祷会が開かれています。仕事やさまざまな用事の制約で出たくても出られない現実がありますが、これも身心の休息と回復を得る、心のリラックスとして与えられています。新しいことは何もありません。説教で語られた御言葉をもう一度反すうする機会ではあります。キリスト者が心身の休息と回復を本当に得ることができるのは、神の下でだけなのです。

 

群衆を迎え入れる主イエス 

 さて、このとき実際には、十二人の弟子たちには、祈りと心のリフレッシュの時は持てなかったようです。群衆がベトサイダの「人里離れた所」に退いた主イエスと弟子たちの後を、陸づたいに追いかけて来たからです。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と語られています。御言葉と癒しを求めて主イエスのところに来る人たちを主イエスは拒むことなく迎え入れました。神の国について語り、治療の必要な人々を癒やされたのです。神の国とは、神のご支配を意味します。神の支配は、今日はお休みです、後でまた来て下さい、というようなことはありません。そのことを通して、主イエスは、十二人の弟子たちに、来る人たちを拒むことなく迎え入れることを教えられたのではないでしょうか。弟子たちは、後に教会の礎となった人たちです。そしてその姿は、使徒の働きを受け継いでいる私たちの教会にも示されています。教会は、救いを求めて主イエスに会いに来る方々を喜んで迎え入れるのです。

 

すべてのひとを養う

 そうこうしているうちに日が暮れはじめました。弟子たちは主イエスに言います。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。弟子たちの言うことはもっともです。周りの村や里へ行くにしても、日が落ちて暗くなってしまえば移動するのも難しくなります。だから群衆を早く解散させて、それぞれが自分で食べ物を調達できるようにしたほうが良いと思ったのです。ところが主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」当時の数え方ですが、その場には大人の男だけで5千人いたのです。女性や子どもを含めて7~8千人はいたということでしょう。まさに野外コンサートのような人数です。弟子たちが持っているのは「パン5つと魚2匹」だけです。だから弟子たちは主イエスに言いました。「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません。・・」しかし、主イエスは弟子たちに命じて、人々を50人ぐらいずつ組みにして座らせました。皆が座ると、「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。その結果「すべての人が食べて満腹した」と17節に記されています。この不思議な感動は奇跡として人々の記憶に残り、伝承されたていったのです。4つの福音書のすべてに記された公の場での最大の奇跡として記録されたのです。

 

教会はパンだけでなくケーキも増える所

 ある教会で、クリスマス伝道実行委員会が行われたそうです。クリスマスの諸集会について振り返りの時をもったそうです。そこで出た話ですが、ティールームのためのケーキが当初はやっと2つしか用意できず、いったいどうやって分けたらよいのかと気をもんでいたところ、実際にはみんなが食べて余るほどのケーキを多くの方が持ち寄ってくださったということです。「教会はパンだけでなくケーキも増える所なんですねえ」、という感想が印象的でした。という話しです。そういえば、昨年の大磯教会のクリスマス祝会の時、用意したシュトーレンがぴったりだったということが役員会のクリスマスの振り返りの時に出ていたことも、ちょっとした不思議です。私自身の不思議な感動は大磯教会の会堂建築です。まだ6~7年前の話ですが、会堂の増築と改修工事の経験者はいまでは半分ぐらいになってしまいましたが、当初、建築資金は4百数十万円だったのですが、10倍の4千5百万円の工事が出来てしまったのです。いまでも不思議です。こういう感動、神の業は教会の信仰と共に伝承されていくのだと思います。

5千人に食べ物を与える話しの中で、「残ったパンの屑を集めると、12籠もあった」と記されていますが、12という籠の数は、イスラエルの12部族、また12という弟子たちの数を意味するだけでなく、「新しいイスラエル」、「現代の十二弟子」である今の教会の姿をも現わします。自信を失い、気落ちして、いじけかけていた教会が、力の源はただ主イエスのみにあることを、再発見した姿がそこにあります。自分自身には何の自信もない、自分の手許にあるものを見ればその貧しさに絶望してしまうほかはないのです。けれども、主イエスにすべての糧の源があり、このお方が自分たちの持っていたなけなしのものを祝福して豊かにしてくださる、その主の手許を見つめる時、私たちは、そして教会は、主の恵みをもう一度見いだせるのです。神のご支配がここに始まっていることを思い出すのです。満ち溢れる恵みが手渡されていることに、目を開かされるのです。

 

天を仰いで、賛美の祈りを唱える

 16節の御言葉に注目したいと思います。パンと魚を祝福される主イエスのお姿、「五つのパンと二匹の魚を取り」、「天を仰いで」、「賛美の祈りを唱え」、「裂いて」お配りになるそのお姿は、あの最後の晩餐の時の主イエスのお姿を思い起こさせます。あの晩も主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにお与えになったのです。そこで主は話されたのです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。最後には私たちの罪と汚れ、私たちのどうしようもない貧しさを引き受け、ご自身の豊かさでもって覆うために、十字架の上にまで上られたお方が、このお言葉をくださっているのです。

教会が力を失い、不安になり、無力感に襲われる時、また私たちが過大な重荷を前にして途方に暮れる時、主イエスは、その只中で恵みの食卓を準備されるのです。「あなたが今見失っているものがここにある。あなた方が何によって立っているのか、何によって生かされているのか、それをもう一度見つめ直しなさい」と。主の語りかけが聞こえて来るのです。 祈ります。

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