2/26説教「荒れ野の誘惑」

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はじめに                              
今朝は、主イエスの御受難を心に刻む、受難節第一主日の礼拝を捧げています。受難節・レントの期間には「荒れ野の誘惑」というこの箇所から御言葉が語られることが多いのです。共感福音書と呼ばれる3つの福音書のすべてが、この主イエスの荒れ野の誘惑の記事を記していますが、今朝はルカによる福音書4章1節から13節の御言葉から恵みに与りたいと思います。

霊によって引き回されたイエス
1節に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を〝霊〟によって引き回された」と記されています。ヨルダン川で主イエスは何をなさったのか。それは、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったのです。その時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と3章22節に記されています。主イエスが洗礼をお受けになった時から、聖霊に満たされ、聖霊なる神のご支配と導きによって、公のご生涯をお始めになりました。
その後、主イエスは、〝霊〟によって「荒れ野の中を引き回された」と記されています。そして、「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」というのです。荒れ野でも聖霊は主イエスから離れることはありません。いや、荒れ野で悪魔の誘惑と戦われたその時にこそ、主イエスは聖霊に満たされ、聖霊のご支配と導きによって、その戦いに勝利されたのです。
ところで、荒れ野で悪魔の誘惑を、主イエスが受けられたとは、どういう意味をもっているのでしょうか。それは、御子イエスが、ご自身を低くされ、貧しくされて、人間のお姿でこの世に降って来られ、私たち人間が経験しなければならない全ての誘惑や試練を、ご自分もまたお受けになられたのです。そして悪魔の誘惑に勝利なさったのです。それは、私たち人間をあらゆる誘惑や試練の中で守り、救うためにほかなりません。ご自身がそのすべてを引き受けてくださった主イエスこそが、私たちを本当に救うことができる唯一の救い主なのです。

キリストの勝利を信じる
主イエスの受洗と荒れ野での誘惑は密接につながっています。主イエスの洗礼の後にすぐに悪魔の誘惑が続いています。洗礼を受けるということは、悪魔の誘惑から逃げたり、それを避けたりすることではなく、あるいはそれらとの戦いをしなくても済むという保証でもなく、それらと積極的に戦って、それに勝利することへとつながっていくことなのです。
ある人は誤解して、洗礼を受けてクリスチャンになれば、人生の悩みや迷い、苦しみがなくなって、災いや試練にもあわなくて済む、平穏な生活が送れるようになると考えます。また、周囲にはそのような幸運と繁栄を約束する宗教があります。それらの宗教は人間の願いや計画をいかにして実現するかを主たる目的にしています。けれどもキリスト教信仰はそうではありません。人間の願いや計画ではなく、神の御心、神の救いの御計画が実現することこそが重要なのです。そもそも、人間の願いや好みのままに働く神は、人間が勝手に造り上げた偶像に過ぎません。したがって本当に人間を救うことはできません。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰は、試練や苦難にあわない道を上手に選んで通るというのではなく、むしろどのような試練や苦難にあっても、決して失望せず、主キリストが与えてくださる勝利を信じて耐え忍び、戦い抜いていく勇気と力を与えてくれるのです。それは、主キリストご自身が、私たちに先立って、その道を進み行かれ、私たちのために罪と死と滅びに勝利しておられることを知っているからです。

神の子としての戦い
ところで、主イエスを誘惑したのは悪魔だと記されていますが、なぜ悪魔が主イエスを試みたのでしょうか。悪魔は主イエスが神の子であるなら、と言っています。悪魔はイエスが神の子であることが本物であるかどうか、それを試したかったのです。
荒れ野での悪魔と主イエスの戦いは、神の子としての戦いです。直接的には私たちとは違います。まさに主イエスは神の子であられたからこそ、この悪魔との戦いに臨まざるをえなかったのです。しかし、そのことは、この主イエスと悪魔の戦いが私たちと無関係ということではありません。神の子である主イエスがなぜ、まことの人として地上に来られなければならなかったか。それは私たち人間を救済するためです。その救いとは何か、という問いに私たちもさらされているのです。
ここでは主イエスが問われておられます。しかし、私たちも問われているのです。私たちが問われていることは、自分は本当に救われているのか。キリスト者である私たちが、いったいそこで、いかなる救いを得ているのか。そのことを問い直されていると思うのです。悪魔の問いを拒否して、御言葉によって打ち勝たれた主イエスの救いを、私たちもまた、自分の救いとして、本当に生きているのかを問われなければなりません。

救われた者の顔
そこで、ある説教者は、この箇所の説教の中で印象深いエピソードを語っています。前にも一度紹介した話しですが、面白い話しなので紹介します。
あるイギリスの神学者の話しです。ロンドンの町では、歩いていてよく路傍伝道に出会うそうです。イギリスは路傍伝道が盛んな国だそうで、特にその時代はそうだったのでしょう。日本でも以前には路傍伝道が多かったと思うのですが、最近は見かけません。私が愛知県の豊橋に居た頃、通勤で毎日、名古屋に通っていましたが、朝、時々、どこかの教会の牧師とおぼしき方が一人で、駅前で聖書を片手に話しをしていました。皆、素通りしていました。しかし、その時の私はまだ一信徒でしたが、勇気がある人だな、自分にはちょっと出来ないなと思いました。パウロもこうやって伝道していたのかな。と思ったりしました。
イギリスのある神学者の話しに戻りますが、路傍で説教していたので、その神学者はふと立ち止まって耳を傾けていたそうです。説教がひとしきり済むと、パンフレット、ちらしを配り、信仰を促すわけです。すると、その神学者のところにもひとりの女性がやってきて、そのパンフレットを渡しながら、「あなたは救われていますか」と尋ねたそうです。神学者は「はい、そのつもりですが」と答えたそうです。すると婦人は、神学者の顔をつくづく見ながら、「まあ、その顔で?」と言ったというのです。その神学者は、朝起きて、顔を洗い、鏡を見ながら、ふっと思い起こすというのです。この顔で救われているか。顔というのは、一つのしるしでしかないと思う。しかし、救いはその顔にまで出るのであろうか。と言うのです。一つの気づきだと思うのですが、人生も後半になったら自分の顔に責任を持て、と言われることがありますが、責任なんて持てませんね。私は、14年前は、会社に勤めていた会社員でした。もちろん信徒として長く教会に通っていましたが、牧師になって顔自体が変ったとも思えないわけですが、確実に白髪が増え、高齢者の顔にはなっています。はたして救われた者の顔をしているのだろうかと思うのです。確かにキリストに救われた者として、生き生きとした顔でいたいとは思いますが。あるいは、キリストの香りがする人間になっているのだろうか。とも思います。顔からでは判断出来ませんが、共に交わる生活のなかで、キリストの香りを感じることはあるものです。

パンの誘惑
「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉は広く人々に知られています。主イエスは誘惑を退けるための信仰を、私たちの前を歩きその身で示してくださっています。主イエスは、荒れ野で3つの誘惑に対して、3つの聖書の言葉で悪魔を退けます。最初の誘惑への返しの言葉は、
旧約聖書の申命記8章3節の言葉です。こういう言葉です。
3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。と申命記を引用して悪魔に立ち向かいました。飢えに苦しんでいる世界の人々に対して、主イエスが石をパンにかえて、この世の食料事情を解決し、世界から飢えを無くしてくれれば、皆救われるのではないかと私たちは考えてしまいます。主イエスも、飢えに苦しむものと同じ苦しみを味わっているのだから、「石をパンにかえる」ことにすれば、今、「私の空腹のみならず、世界の人々の空腹を満たすことが出来る」とお考えになったかもしれません。しかし、その時、「これは違う」と主イエスは思ったはずです。それは本当に人を救うことにはならないと考えられたのです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との言葉は、神の言葉を聞くことだけが良いことで、パンを食べることがいけないことであると言っているのではもちろんありません。申命記8章では、エジプトを脱出した後の、イスラエルの民の40年間の荒れ野の歩みが思い出されて書かれています。神はその旅の間、彼らを、マナと呼ばれる、天からのパンによって養い、支えてくださったのです。申命記8章4節には「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」と記されています。つまり神はご自分の民に、必要なパンを与え、また必要な衣服を整えて、いつも養ってくださるのです。神は私たちに備えてくださるのです。「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンなど求めてはならない、そんな物質的な、外面的なものではなく、内面的で、精神的な神の言葉だけ求めて生きなさい、ということではありません。そうではなくて主イエスは、神はあなたがたにパンをお与えくださる、あなたがたが生きるのに必要なものをすべて備えてくださる。しかし神の恵みはそれに尽きるのではない。神はそのことを通してむしろもっと大きな恵みを、その口から出る一つ一つの言葉によってあなたがたを生かし、導くという恵みを与えようとしておられるのです。

第二の誘惑
第二の誘惑において、悪魔は主イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せたとあります。そして「もしわたしを拝むなら、その権力と繁栄のすべてを与えよう」と言いました。この誘惑のポイントは、悪魔を拝め、ということです。悪魔を拝むなら、この世の権力と繁栄が得られるのです。いわゆる「悪魔に魂を売る」ということです。悪魔に魂を売ることによってそれらを手に入れることができる、という意味合いです。そこには、この世の権力や富の持つ悪魔的な性格、それにとりつかれると人間性が損なわれ、人に対する愛や思いやりを失い、残酷なことをも平気でするようになるという、これは人種や民族を超えた人類に普遍的な経験が生きていると言えるでしょう。そういう意味では、この第二の誘惑は私たちも受けるものであると言うことができます。人間性を失う出来事が多く起きています。ウクライナでの戦争は、悪魔に魂を売った者の仕業ではないかと思ってしまいます。高齢者を狙う詐欺の横行、闇サイトで実行役を集め強盗させる者も悪魔に魂を売った者の仕業ではないか。
主イエスはその誘惑を、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記6章13節の御言葉によって退けました。権力や繁栄という悪魔的な力の虜になることから逃れるための唯一の道がここに示されています。神を礼拝することによってのみ私たちは。権力や繁栄という悪魔的な力の誘惑から逃れることができるのです。

第三の誘惑
第三の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降りて見なさいと言うものです。主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」という、これも申命記6章16節の言葉によってこの誘惑を退けられたのです。つまり主イエスがここで拒んだのは、「神を試す」ことです。悪魔のこの誘惑は、神を試させようとする誘惑なのです。それは、本当に神がおられ、自分を守り導いて下さるのか、神を信じ寄り頼んで本当に大丈夫なのか、ということを、試して確かめようとすることです。そういう信仰を「瀬踏みの信仰」と言うそうです。信仰において大切なのは、神に信頼して委ねることです。確かめてからではなく、信じて、一歩を踏み出すのです。しかし、私たちにはなかなかそれができません。確かめて安心したくなるのです。主イエス・キリストがこの世に来てくださったのは、そのような私たちのためです。私たちにはなかなか出来ないことを、まことの神の子である主イエスが、私たちの先頭に立ってして下さったのです。神に信頼して歩み通してくださった主イエス・キリストを信じることによって、私たちもまた、悪魔のあらゆる誘惑を退けて、神のみを拝み、自らを委ねて生きて行くことが出来るのです。
主イエスは、悪魔の問いに、頑として正しい答えを、聖書の言葉で返されました。そして悪魔と戦い抜かれたのです。しかし、主イエスにおいても、荒れ野の誘惑に失敗した悪魔は、しかし「時が来るまで」、つまり一時的に主イエスを離れただけだったと最後の13節にあります。悪魔は再び襲ってくるのです。その時とは、主イエスの十字架の苦しみと死の時です。しかし荒れ野の誘惑を退けた主イエスが、神の子としての歩みを、十字架の死に至るまで歩み通してくださったことによって、私たちにも、神の子として悪魔の誘惑を退けて生きる道が開かれているのです。悪魔の誘惑に立ち向かいつつ歩んで行きたいと願うのです。 祈ります。 

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