3/19説教「栄光に輝くイエス」

はじめに                              
受難節第4主日の礼拝に、今朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書9章28節から36節です。主イエスが高い山、おそらくヘルモン山であると考えられていますが、そこで「山の上の変貌」と言われる場面が記されています。この箇所は、毎年、受難節の期間に読まれる箇所ですが、今朝もこの御言葉から主のメッセージを聴きたいと思います。

主の姿が変わる
28節にこう記されています。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」そして、29節で、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」とあります。これだけでも神秘的な話しですが、さらに次のように続きます。
30節「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」31節「二人は栄光に包まれて現われ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」
この情景は、一体何を意味しているのでしょうか。ひとつ言えることは、これは普通では考えられない特別な、非日常的な出来事であったということです。さて、ここでイエス・キリストが一体誰であるかということが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちに示された瞬間でありました。同じルカによる福音書9章21節以下で、主イエスは、これから先、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」と予告されましたが、「その日から八日ほどたったとき、」とルカは語ります。今朝の話は、その話しが本当なのだということを印象づけるものです。

モーセとエリヤ
モーセとエリヤの二人は、旧約聖書を代表する人物であります。律法と預言を代表すると言ってもいいでしょう。当時の人々が誰しも、神に最も近い人物と考えていた二人であります。その二人と主イエスが対等に話しておられる情景です。
「山上の変貌」の記事は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも出て来るのですが、いくつかの違いがあります。その一つは、このルカによる福音書だけがその話しの内容を記していることです。三人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」というのです。この「最期」というのは、原語のギリシャ語では、「エクソダス」という言葉が使われているのです。出発とか旅立ちという意味ですが、聖書では、特に「出エジプト」を意味する言葉です。エジプトからの「エクソダス」を経験したモーセと共に、これから起ころうとしているイエス・キリストの「エクソダス」つまり旅立ちが語られているのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、終りではなく、新たなステージへの出発、エクソダスだということを暗示しているのでしょう。さらに終りの日に、再びやってくると信じられていた預言者エリヤもそれを認め、共に語り合っているのです。
そして、「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」とありますが、オリーブ山で、主イエスが血の汗を流して祈っている時も、弟子たちは眠ってしまいました。肝心かなめの時、私たちは神の業に関与出来ないのです。しかし、私たちが眠っている時も神は目覚めているのです。眠たさをじっとこらえて、この場面に立ち会った三人の弟子たちは、驚き恐れ、そして興奮したことでしょう。ペトロはとっさに「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(33節)と言っています。この「仮小屋」というのは「幕屋」のことです。つまり天幕のことで、「臨在の幕屋」または「会見の幕屋」とも呼ばれるように、移動式神殿です。大祭司はそこに降りてくる神と出会えると考えられていました。ペトロは、思わず「モーセ用の幕屋」「イエス用の幕屋」「エリヤ用の幕屋」があると考えたわけです。ルカによる福音書は「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分らなかったのである」と書いていますが、それがその時のペトロの気持ちだったのです。

大きな希望を与える出来事
しかし、なぜ、この時に主イエスが神の子であることが明らかにされたのでしょうか。それはこの出来事の前に起きた出来事と深く結びついているのです。それは、主イエスがペトロに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたことに対して、「あなたは神からのメシアです」と言ったことです。つまり、主イエスに向かって信仰を告白したのです。そして、主イエスご自身が、ご自分の十字架と復活を予告し、弟子たちと群衆に「わたしに従って来なさい」と服従へと招かれたことです。このペトロの信仰告白と主イエスの受難の予告、そして服従の招きに応えて、この山の上の出来事が起きたのです。
ペトロは山の上で、モーセとエリヤとイエスのお姿を見た時、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(33節)と言います。ペトロもユダヤ人ですから、幼い頃から聖書の話しに親しんでいたでしょう。預言の言葉を学び、律法を守って来たはずです。そのペトロにとって、目の前にモーセとエリヤが現れたことは、現代を生きる私たちには想像できないほどの素晴らしい光景に圧倒されて、何を言っていいのか分からない状態で、後先考えずに発した言葉なのでしょう。あまりにも素晴らしい体験のゆえに、この光景をずっと留めておきたい、自分もまたここにとどまりたい、そういう思いになったに違いありません。
しかし、ペトロたちは主イエスと共に山を下りました。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」(35節)という、雲の中から聞こえた御言葉の通りに、彼らは主イエスに聞きながら普段の日々を生きて行くのです。「聞け」という言葉は「聞き従え」という言葉です。つまり、単に言葉として耳で聞くのではなく、主イエスの後ろから主イエスに従って歩むようにしなさいということです。

十字架を担って歩む
それでは、イエス・キリストの歩みとは何でしょうか。それは十字架を担って歩むことです。実際、ペトロたちはやがて主イエスと同様、迫害の中を宣教しました。それぞれにキリストの十字架を担って歩んだのです。私たちもまたそれぞれに自分の十字架を担って歩みます。十字架を担うなど、そんな辛いこと、大それたことなど出来るはずはないと考えますが、そうではないのです。そもそもペトロたちが目の当たりにした山の上の出来事は、キリストが再び来られる終わりの日の出来事の先取りでした。主イエスの服が真っ白に輝いたということは、つまり、ペトロたちは山の上で主イエスが救い主、世界の王となられた姿を見たのです。ペトロたちが、その人生の終わりの時までキリストの十字架を担って歩み続けることが出来たのは、いつかまた素晴らしい体験が出来るという期待だけではなく、その毎日の日々においてもキリストが共にいてくださり、山の上の体験のような、栄光に輝くキリストのお姿をいつも示されていたからでしょう。そして、今、その栄光のお姿は、まず礼拝において私たちにも示されています。いま、私たちはこの目で栄光のお姿を拝することはできません。しかし、私たちは礼拝において、栄光のキリストに出会うのです。そしてまたそれぞれの祈りのうちに、御言葉に聞く日々において示されます。そのことのゆえに、私たちはそれぞれに十字架を担って歩んで行くことが出来るのです。

主の僕の召命
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、イザヤ書42章1節から4節までです。今日の「山上の変貌」の記事の背景には、このイザヤ書42章があると言われています。イザヤ書42章2節で預言者イザヤは次のように言っています。
2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。
彼は叫ぶことなく、声をあげることはない。その声は巷に聞こえさせることもない。それはまたこう語るのです。3節です。
3傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
1節で「見よ、わたしの僕」と言っていますが、この「僕」については、イザヤ書の中で何度も語られています。そして、その頂点になるのはイザヤ書第53章です。そしてこの53章は受難節にしばしば読まれる箇所です。世の人の罪のために徹底的にたたかれながら、しかし、ついに黙りきって、口を開くことなく殺されてしまう「小羊」のような僕の姿です。確かに、この僕は、大声を上げることはなさいませんでした。人々を説得したり、押さえつけたりすることはなさらなかった。むしろ叫ぶことはなさらなかった。大祭司や律法学者のように、誇らしく、権威をもって語ることはされませんでした。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことがない」ようになさったのです。

傷ついた葦を折ることなく
イザヤは語ります。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。」というのは、非常に柔和で温和なメシアの姿を描いています。また、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」という言葉も、またメシアがいかに優しく、思いやりの深いお方であるかを表わしています。イザヤは「人の子、イエス」を預言しているのです。主イエスは、人が傷んだ葦のようになり、また、くすぶって暗くなってゆく灯心のようになっている現実をご覧になって、深く同情されるお方なのです。そして、いたわり、優しい心をもって近づき、接してくださるのです。これは決して、葦を折らず、灯心を消さないという消極的なことではなく、積極的に「傷ついた葦」を立たせ、「暗くなった灯心」をもう一度明るく輝かせてくださるという意味なのです。主イエスご自身が、人間的に見るならば、傷んだ葦のようになられ、また暗くなった灯心のようになられたので、葦のように弱い私たちを理解し、また、同情することのできるお方なのです。
また、この「葦」と「灯心」には一つの共通点があります。それは、葦は「水」がなければ枯れてしまいます。葦の一切は水に依存しています。また「灯心」は油がなければ灯心をともすことができません。しかもくすぶって消え入りそうな灯心です。どちらも、自分自身では、自分を支えることも、自分にいのちを与えることもできません。この両者は、初めから他に依存しており、私たち弱い人間の状態をよく示しているのです。人間もまた、そのすべてを神に依存しており、神なしにはただの数分も生きることができないのです。自分の意志で、心臓を動かしたり、呼吸したりできないのです。人はみな神に生かされている存在なのです。

私たちも変えられる
ペトロの生涯においても、また、失敗し落胆し、意気消沈して「暗くなっていく灯心」のように弱い状態になることがありました。ペトロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主イエスの言葉を思い出し、彼は、外に出て激しく泣きました。しかし、主イエスは、ペトロの回復のために、全力を尽くしてくださいました。主は傷つき、弱っている者を必ず立たせてくださいます。私たちは、誰でも自らの弱さを認め、キリストの保護と助けが必要なのです。しかし、山上の変貌の当時、沈黙を守っていた弟子たちが、復活の主イエスの霊をいただいた後には、世の圧力に対して、敢然と立ち向かったのです。主が弱い者を立ち上がらせて下さったのです。私たちも変えられます。弱く狭い私たちの心が、十字架と復活のキリストを信じる時、強く変えられるのです。そして、私たちの礼拝は主イエスの復活の記念日である日曜日に守られます。主の日の礼拝は、一週間の中の特別な時です。しかし、礼拝を守ることだけが、信仰を持って生きることではありません。日々の生活へと下って行くのです。そこで信仰者として生きるのです。山の上で、弟子たちが雲の中から聞いた声、「これはわたしの子、これに聞け」。私たちもその声に聞いて行きたいと思います。祈ります。

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