3/26説教「苦難へと進まれる主」

はじめに                              
今日は受難節第5主日の礼拝ですが、2022年度の歩みの最後の礼拝でもあります。この年度もいろいろな事がありました。世界を見るならば、3年にわたるコロナ禍もようやく沈静化に向かっているようですが、再び感染者数が増加傾向になりつつあります。ウクライナでのロシア軍の侵攻後2年目になりますが、平和の見通しがいまだ見えません。北朝鮮のミサイルは、又かと言うほど撃っています。不安な状況は4月からの新年度にも続きそうです。大磯教会も悲しい事が多くありました。昨年の受難節の間の3月12日にはM兄弟が天に召されました。前年に病床にて受洗された仲間でした。またクリスマスを直前に控えた12月22日にはK姉妹が天に召されました。姉妹の長い信仰者としての奉仕、キリスト者の交わりとカウンセラーとしての働きの最後を大磯教会で示して下さったことに感謝します。年が明けた1月4日には愛するH姉妹が天に召されました。目立たない奉仕をしっかりと続けて下さった姿を私たちは忘れることはありません。理不尽な現実に苦しまれた方もおられます。今、様々なご病気とコロナ禍もあって礼拝に出席できない兄弟姉妹方もおられます。しかし、そういう中にあっても、主がこの聖日礼拝へと招いて下さり、聖餐式を行うことができ、祈祷会も続けられることに感謝を致します。
さて、受難節第5主日に私たちに与えられています新約聖書の御言葉は、マルコによる福音書10章32から45節までです。早速、その御言葉の恵みに与りたいと思います。

先頭に立つ主イエス
32節に「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」とあります。主イエスと弟子たち一行は、いよいよ目的地であるエルサレムへと近づきました。エルサレムは主イエスに激しく敵対している祭司長、律法学者たち宗教指導者たちのいる所です。エルサレムに上るということは、彼らと正面衝突することであり、十字架の死を予想させることであります。そのエルサレムに向かって主イエスは一直線に進んでゆくのです。ガリラヤにおける主イエスは、どちらかと言うと目立たないようにしていた印象があります。しかし、今、主イエスは受難の道をまっしぐらに進まれました。「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(32節)とあります。ここで著者マルコは不思議な書き方をしています。まるでここに弟子たちという一団と、従う者たちという別の一団と、2つのグループがあるような書き方です。しかし、ここは、そのような意味ではないでしょう。弟子たちは主イエスに従う者たちです。つまりこの恐れは、主イエスに従ってゆく時に初めて分かる恐れと不安を強調しているのでしょう。弟子たちは、今までガリラヤにおいては経験したことのないような不安を覚えたのです。つまりこの恐れは、主イエスに従って行こうとする時に初めて分かる恐れです。ついて行けない恐れです。そして実際、弟子たちはついて行けなくなったのです。主イエスはここで十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められました。すでに死を覚悟していた主イエスの言葉は今までになく緊迫しています。そしてご自身の受難についての3度目の、そして最後の予告を弟子たちへ伝えたのです。「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。そして、それらはやがて現実となるのです。しかし弟子たちには、主イエスが語られたこの深刻な意味が依然として理解できなかったのです。そこで、主イエスは、弟子たちにこのことをあらかじめ教えてその時に備えさせる必要を知っておられました。そして今は主イエスの言葉を聞き流している弟子たちも、後に主イエスの言われたことがすべて実現した時、大きな驚きと共に初めて神のみこころを悟ることになるのです。

ヤコブとヨハネの願い
この驚き、恐れの中で、35節が語られています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのもとに来て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、シモン・ペトロとアンデレの兄弟と共に、最初に主イエスの弟子となった人々でした。最古参の弟子として、いつも主イエスの近くにいたのです。しかし、私たちは少し不思議な気がします。主イエスがこれから起こる受難の予告をした直ぐ後で、なぜ彼らはこんなお願いができたのでしょうか。どうしてそれが栄光をお受けになることと考えたのか。ここに、主イエスがこれから受けようとしておられる苦しみと死とを、弟子たちがどのように受けとめていたかが示されています。主イエスはこれまで三度、御自分が祭司長たちから受難を受け、殺されることを予告してきました。しかし、弟子たちはそうは思わなかったのです。それは、主イエスがこのような苦しみ、死を通しても「栄光をお受けになると考えたからです。殺されてしまってそれでおしまいとは考えなかったのです。むしろ、その時に神が遣わされたメシアとしての力が現わされ、栄光を示され勝利すると思ったのです。その理由として、受難予告の最後に「三日の後に復活する」とお語りになったことが挙げられます。「復活」の意味を深く考えなかったのでしょう。この世界と全ての人々を支配なさるのだという希望を、彼らはこの「三日の後に復活する」という言葉に見出していたのでしょう。主イエスの苦しみと死の先に主イエスの勝利があると期待をも抱いていたのです。それゆえにヤコブとヨハネはあのようなお願いをしたのです。

仕える者になりなさい
ヤコブとヨハネが願ったのは、主イエスが勝利して栄光をお受けになり、全世界を支配なさる時に、自分たちを右と左に座らせてくださいということです。それは他の弟子たちよりも高い地位、より栄光ある立場を得たいということです。それゆえに、彼らがこのようなことを願ったことを知った他の弟子たちは、41節にあるように、彼らのことで腹を立てたのです。それはつまり、彼らの中にも同じような願いがあったということです。主イエスが十字架と復活の奥義を語るのに対して、弟子たちの方はこの世のことで論じ合っているのです。このコントラストは際だっており、神の真理と人間の現実の差がいかに大きいかを表わしているのです。ひょっとすると私たちも同じ考え違いをしているのかもしれません。教会の中に社会のルールと全く同じ基準を持ち込んでいるのかもしれません。主イエスはそんな弟子たちを戒め、地上の栄誉の代わりに神の国に属する者が受ける苦難を約束されたのです。つまり主イエスと共に十字架の苦しみを分け合うという逆の特権を約束されたのです。そんな弟子たちに主イエスは、人の上に立つ者はむしろ徹底して仕える者となるべきことを教えています。
43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
主イエスは、人の上に立つ者は、むしろ徹底して仕える者となるべきことを教えているのです。神の国の価値観や生き方はこの世のものと全く反対で、偉い人は仕え、支配者は奴隷のように生きるのだと言っているのです。そして主イエスは、弟子たちに教えた通りに生きた方でありました。
主イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われました。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」(42節)と。
確かにそう思えます。最近、特にそのことを思います。皆さんもそうでしょう。世界の各地で権力者が武力を使い、人々を脅し、他国を侵略しています。意に添わない者がいると、排除して行きます。日本も明治維新以来、富国強兵のかけ声で同じ道を歩みました。今は東アジアの自由主義国、民主主義国の代表のように思っていますが、いつ権力者が支配する国になるかもしれません。この世の国の本質を、そして人間の本質を言っているのです。また、それは小さな組織でも権力が支配すると不正、腐敗が始まるということでもあります。人間社会の限界かもしれませんが、人間は、その限界を乗り越えるために様々な制度、ルールを作っているわけです。そしてここで大切なのは、主イエスは決して偉くなることや、先頭に立つという願いを否定しているわけではありません。偉くなるという言葉は、原文では「大きい」ということだと言います。あなたがたの中で大きい者になりたい人は人に仕えなさい。大きな存在になるということは大切です。小さく縮こまっていてはいけないのです。けれどもその支配は、すべての人の僕になることによってのみ貫かれるのです。
先日のWBCワールド・ベースボール・クラシックの試合は、久々に野球に釘付けにされました。私は全試合をテレビで観戦しました。ちょうど祈祷会の日に当たった決勝の試合は、その時間だけは見られませんでしたが、後で繰り返し見ました。ハラハラドキドキでしたが、こんな素晴らしい試合はありませんでした。毎試合ドラマのような展開でしたが、評判どおり大谷翔平選手の力は、選ばれた選手たちの中でも次元の違う大きさを感じました。すべての選手もそうですが、スーパースターではなく、チームの勝利のために、という思いを感じました。チームの勝利のためにバントをしたことは印象的でした。反対にアメリカチームの強打者トラウトとのピッチャー大谷翔平の直球での勝負は、強く心に残りました。

キリストの救いに生きる
最後の45節の言葉に注目します。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」主イエスご自身が、私たちによって仕えられるためではなく、私たちに仕えて下さるために、十字架にかかって死ぬことによって、罪に捕えられ支配されている私たちを解放するための身代金としてご自分の命を献げて下さったのです。私たちはその恵みの中で生きることが大切なのです。主イエスによるその救いの恵みは、私たちの努力や、苦しみをも耐え忍んで行く真面目さによって得られるものではありません。私たちは皆、威勢のよいことを言っても、結局、主イエスの飲む杯を飲むことはできないし、主イエスの受ける十字架の洗礼を共に受けることのできない者です。そのような弟子たちと私たちのために、主イエスは、罪人である私たちに仕え、私たちの罪が赦されるために身代金としてご自分の命を献げて下さったのです。
最後にイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の御言葉から聴きたいと思います。4節はこうです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」と。
ここで「病」は病気だけではなく全人的に弱っている状態を表わし、「痛み」は、生きる上での様々な苦痛や悲しみを表わしています。イザヤの語る「しもべ」は、悲しみの人で、病を知っています。しかし、それは私たちの病を負い、痛みを担っているのです。しかし、私たちは、苦難のしもべは、自分自身の罪の故に神に罰せられたと思うというのです。でも、そうではなかったとイザヤは告げます。5節には、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ、と言っています。イザヤは、この私たちの罪のために、私たちではなく、この苦難のしもべが刺され、砕かれたのだと語りました。神は私たちの罪をイエス・キリストに担わせ、身代わりに彼を裁かれたのです。それによって、私たちの罪を完全に赦し、神との関係を回復し、体も魂もすべてを神のものとして下さり、祝福をもって導いてくださるのです。

主イエスと共に生きる
主イエスは、マルコによる福音書10章39節で、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言っています。彼らも他の弟子たちも、主イエスと共に十字架にかかることは出来ませんでした。主イエスはお一人で十字架にかかり死んで下さったのです。しかし、この主イエスの十字架の死と、父なる神の力による復活によって、罪の赦しと新しい命という救いが、ただ神の恵みによって与えられたのです。私たちは、主イエスと共に歩むことが出来ることこそが、私たちの最大の喜びであって、その喜びの中で私たちは、すべての人の僕となってゆくのです。祈ります。

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