4/9説教「キリストの復活」

はじめに                              
イースター、おめでとうございます。今年は会堂に集まって、一緒にイースター礼拝を守ることができて、大変嬉しく思います。イースターは日本語で復活祭と言います。私たちの救い主イエス・キリストは私たちを罪と死の滅びから救うため、十字架におかかりになり、死なれました。けれども、主は三日目に復活されました。この復活の意味は、主が私たちのために罪と死に勝利された、ということです。今朝は「キリストの復活」と題してマルコによる福音書の箇所から御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

主イエスの体への深い思い
「週の初めの日」というのは、日曜日のことです。日曜日の早朝、三人の女性は墓へ行きました。その墓というのは、大きな石で封印されていたはずでしたが、その石が取りのけてあった、ということです。
さて主イエスの復活について、マルコによる福音書では、マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメの三人の女性が、主イエスが葬られている墓へ行ったことが記されています。このマグダラのマリアという人はマグダラ出身で、かつて主イエスによって悪霊を追い出していただいた人です。そしてヤコブの母マリアとは、主イエスの母です。ヤコブはイエスの兄弟です。さてサロメというのは誰でしょうか。良く分かりません。ヘロデ王の妻ヘロデヤの娘で、踊りのご褒美にバプテスマのヨハネの首を求めたサロメとは別人のようです。サロメの名前の起源は「シャローム」(平和)ですから結構いた名前なのでしょう。主イエスに従った女性の一人です。

体をもって生きている私たちの救い
主イエスの復活は、体のよみがえり、肉体の復活です。復活は、主イエスの「体」に対して深い思いを持ち、体をもってこの世を生きた主イエスと身近に関わりを持っている者においてこそ、本当に分かることなのです。逆に言えば、主イエスとの関わりを、皮膚感覚で受けとめるというような、体においてでなく、ただ心において、主イエスの教えやみ業を理屈で受け止めることにおいてのみ関係を持っている者には、復活は分からないし、その恵みも分からないのです。そのような関わり方においては、体の復活など必要ないからです。しかし父なる神は主イエスを体において復活させられました。そこに、神が主イエスによって私たちに与えようとしておられる救いとは、どのようなものであるかが示されているのです。
私たちは体、肉体をもって生きています。それは当たり前のことですが、しかし私たちはそのことを忘れていることがあります。若くて健康で元気なうちは、自分の肉体のことなど大して意識せずに生きることができるのです。しかし、だんだんに年をとっていき、病気になったり、体の痛みや不自由さを体験するようになると、自分の体のことをいやおうなしに意識させられるようになります。体をもって生きていることの苦しみが分かってくるのです。体というのは、確かにだんだんに衰えていくものです。そして以前出来たことが出来なくなっていく。前はこんなことはなかったのに、ということが起るようになってくるのです。そのように体は次第に衰えていき、その行きつく先は死です。それは全ての者に訪れることであって、そのことを無視して、考えないで生きることは、ある意味、ごまかしなのです。主イエス・キリストの復活は、そのように次第に衰え、いつかは死を迎える体をもって生きている私たちのために、神が行なって下さった大いなる恵みのみ業です。神が主イエスによって与えて下さる救いは、私たちの魂や心にのみ関わることではないのです。救いは私たちの体にも及ぶ、主イエスの復活はそのことを示しているのです。
体の復活の希望
主イエスは十字架の死において私たちの罪を背負って下さいました。私たちが神を愛し敬うのでなくむしろ敵対し、隣人を愛するよりもむしろ憎しみを抱き傷つけてしまう、そういう罪を全て主イエスは背負って、その罪人が受けるべき滅びとしての死を引き受けて下さったのです。つまり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉がそれを示しています。主イエスは、罪人が自らの罪のゆえに神に見捨てられて死ぬ、その絶望の死を味わい、背負って下さったのです。それが主イエスの十字架の苦しみと死の根本的な意味ですが、その十字架の死において主イエスは、神に見捨てられる絶望だけでなく、肉体をもって生きている私たちが次第に弱り衰え、ついには死んで墓に葬られていく、その私たちの肉体の死の苦しみをも徹底的に味わい、背負って下さったのです。そしてその主イエスを、父なる神が復活させて下さいました。この主イエスの復活によって神は、いつか死んで葬られる私たちのこの体をも復活させ、新しい命を生きる、新しい体を与えて下さることを約束して下さったのです。体をもって生きている私たちの人生は、いつかは死に支配されて終わるわけですが、それが終わりなのではなくて、その先に、神の恵みによる復活があるのだ、という救いを示して下さったのです。しかもその救いは、死んでも魂が天国に行って幸せに暮らすというのではなくて、体の復活です。主イエスによる救いは、体を離れての魂だけの救いではありません。今私たちが体をもって生きており、そのために様々な苦しみや不自由さがある、そして最終的には死んで葬られていく、その体が、神によって復活の命を与えられ救われるのです。その時には、私たちがこの体においてかかえている痛みや不自由、障碍などの全ての苦しみ悲しみが取り除かれ、もはや死に支配されることのない永遠の命を生きる、新しい体が与えられるのです。主イエス・キリストの復活によって、そういう希望が私たちに示されているのです。
体の救い
男の弟子たちの、理屈が先に立つ、頭でっかちの信仰は、主イエスの逮捕と十字架の死という絶望の現実において何の力も持たないものでした。彼らはこの現実を前にしてなすすべもなく呆然と立ち尽くすしかなかったのです。しかし、主イエスとの関わりを体ごと、皮膚感覚で、まあ言い換えれば日々の具体的な生活の中で体験し、自分の時間と手足をささげて仕えていた女性たちは、主イエスの十字架の死と埋葬においても、埋葬された後も、主イエスに仕える思いを失うことはなかったのです。そして神はこの彼女たちの信仰に応えて、主イエスを復活させ、主イエスの体と共に生きる者として下さったのです。私たちと主イエスとの関わり、つまり信仰は、単に魂や心の問題ではなくて、体における関わりです。私たちは洗礼を受けてこの体ごとキリストと結び合わされ、兄弟姉妹と共にキリストの体である教会を形作っていきます。またこの体をもって聖餐にあずかり、十字架につけられたキリストの体と血とにあずかり、復活して今も生きておられる主イエスと共に生きていくのです。今日は復活祭の礼拝ですからこの後、聖餐式があります。パンと言ってもウエハスであり、杯と言っても小さい容器に入ったぶどう液ですが、それは単なるキリストの肉と血の徴ではありません。聖餐の式辞を読み、配餐されるこの場にキリストが臨在されるのです。そのように体をもって主イエスと共に生きていく者は、自分の体の弱りや衰え、そしていつか必ず迎える死においても、その苦しみを先に味わい背負って下さった主イエスに支えられて歩むことができるし、そして神が主イエスを復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったように、私たちにも、体のよみがえりを、復活と永遠の命を与えて下さる、その希望に生きることができるのです。
体をもって生きる人生には苦しみ悲しみがあり、痛みや不自由さがあります。しかし神の独り子である主イエスが、私たちと同じ体をもって生きて下さり、肉体の死の苦しみを背負って下さったことによって、体をもって生きる苦しみや痛みの中にある私たちと共にいて下さるのです。そして神は主イエスを復活させて下さり、私たちにも復活の約束を与えて下さいました。神による救いは、私たちの体の救いでもあることを、主イエスの復活が告げているのです。痛みがあり、不自由があり、それまで出来ていたことが出来なくなっていくという、弱り衰えを覚えつつこの体をもって生きている私たちの歩みの全てが、主イエスの復活によって、神の恵みのみ手の中に置かれているのです。
主はわたしの魂を陰府から引き上げてくださった
今朝は詩編30編を二度読むことになりました。たまたま交読詩編の箇所と旧約聖書朗読が同じ箇所になってしまいました。復活祭は、主の死からの復活がテーマですから、この詩編の詩人が、死にいたる病から癒やされた自身の体験から神への感謝を歌っているこの詩編の箇所が読まれたわけです。
詩編30編4節には、詩人は、まず、主を救いの神としてあがめます。主は「わたしを引き上げ」、「癒し」、「魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせてくださった」と歌っています。これらの表現から、この詩人が、死を予感させる重い病からぎりぎりのところで救われたことを思わせます。続いて詩人は、「主の慈しみに生きる人々よ」(5節)と呼びかけ、主に賛美と感謝をささげよと促しています。私たちは三年の間世界を揺るがせたコロナ禍からようやく抜け出しつつあります。一時は悪夢のような様相を呈し、教会も、社会も経済もその災いにひたすら耐えることしか出来ませんでした。信頼している日本の医療にも限界があることが分かりました。大規模な自然災害時にしか用はないと思っていたトリアージ(救命の優先順位)などの言葉が感染拡大と、死者増加により現実味を帯びていました。医学が高度に発達した今日でさえ、様々な病気によって、生命を絶たれる人が少なくないとすれば、古代においてはなおさらそうであったわけです。旧約聖書の古代人は医学的知識に乏しい分、それだけ多く、病気治療を神々に祈り求めたのです。病苦が神の怒りの結果であれば、神をなだめ、犯した罪に対する神罰であれば、罪の赦しを神々に祈り求めたのです。これらの病苦からの解放を祈願する祈りは、ほぼ例外なく、祈り手が病苦から解放されたときに捧げる、神への讃美の誓いで締めくくられているのです。そして、この詩人は、塵が神を讃美することは不可能だと言っているのです。つまり、旧約の人々が死を恐れることは地上の生命を惜しむということはもとよりですが、陰府においては、神との関係を断たれる恐れのためであり、その関係を離れて真の生きがいは考えられなかったのです。

キリスト復活の日の朝
キリスト復活の日の朝、墓が空であり、婦人たちは途方に暮れました。主イエスは十字架で死を遂げ、今どこにもおられない。そしてその体は墓にはない。そして弟子たちもまた、主イエスを失い、どうしたらいいかわからず、うずくまっていました。震え上がり、彼らもまた正気を失っていました。これは、今日の私たちの姿と重なるのではないでしょうか。三年の間、コロナウイルス感染拡大の恐怖に誰もが怯えていました。振り払っても逃れられない不安に押しつぶされ、鬱屈した心を抱えていました。今また経済が活発化している一方で、大きな戦争に巻き込まれそうな不安を感じています。教会は信仰の友を何人も失った悲しみの中にあります。キリスト復活の喜びの言葉を聞いても、切実に響いてこない思いもあります。教会は途方に暮れています。こういう私たちの状況は、今日の御言葉において、主イエスを失い、どうしたらいいか途方に暮れて、墓を出て逃げ去った婦人たちの置かれていた状況と似ています。私たちの不安は、究極的には死への不安、恐怖です。コロナ禍が多くの死をもたらしました。また誰も避けることのできない死への恐れがあります。その恐怖に怯えています。死への不安が私たちをがんじがらめにします。この不安は解消できないものです。逃れようのないものです。死への不安はなくなりません。いや、私たちは死の恐怖を乗り越えられるわけではありません。私たちの寿命は限られているからです。いつかは私たちにも死がやって来ます。この事実はなくなりません。しかし、この死への不安の只中で、今日、私たちは、聖書の御言葉によって復活の主へと、命へと、信仰の目を向けることができます。今日、キリストは復活されました。キリストは死を滅ぼし、私たちに永遠の命をもたらしてくださいました。私たちはまだ確かな希望をつかむことはできません。にもかかわらず、今日、教会で、私たちは復活の主へ、キリストへと、信仰の目を向けることができます。弟子たちや婦人たちのように、まだ見ていなくても、信じて前に進むことができるのです。
キリストは死に打ち勝たれました。そのキリストの命に与る私たちは、この信仰によって生きることができます。いや、この信仰によって私たちキリスト者は皆、生きて来ました。この信仰は私たちが今、生きている、生かされている喜びを私たちにもたらします。不安の渦巻く時代にあっても、私たちはキリスト者として、キリストに生かされている者として、喜んで主と隣人に仕えることができます。そのように、開かれた心、明るさを今こそ取り戻す時です。キリスト復活の朝を迎えました。復活の主が私たちに寄り添い、私たちを導いてくださいます。さあ、たじろがず明日へと進みましょう。復活の主が先立ってくださいます。祈ります。

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