4/16説教「イエス、弟子たちに現れる」

はじめに 
今朝は、復活節第2主日の礼拝を献げています。今日の説教題は「イエス、弟子たちに現れる」としましたが、復活された主イエスが、復活を信じられず迷っていたトマスにお話になったことが中心です。そしてイザヤ書40章27節から31節の箇所から御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

トマスは正直な人
24節に「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」と記されていますが、この人はどんな人なのでしょうか。福音書にあまり多くは書かれていませんが、12人の弟子はそれぞれ個性がありますが、トマスという人は、大変正直な人のようです。いい加減なことはできないので、ほんとうに、自分が、信じられなければ、信じた、と言わなかったし、もし自分がこうだ、と思ったならば、そのとおりに動くこともできた人のようです。ヨハネ福音書11章16節を見ると、こう記されています。「16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」とあります。主イエスが、大変な危険な目に遭われることが分かった時、トマスは、わたしたちも一緒に死のうではないか、と真っ先に言った人です。トマスは疑い深い人だ、とは言われていますけれども、そういう勇気のある人でありました。そして、もう一箇所見てみたいと思いますが、同じヨハネ福音書14章5節で、主イエスが、わたしが、どこに行くのか、その道は、あなたがたに分かっているはずだと言われた時に、トマスはこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ福音書14:5)と答えています。トマスという弟子は、とても熱心に、情熱を込めて主イエスに従おうとしていますが、同時に、納得出来ないこと、分からないことを曖昧にせずに、分からないことは分からないとはっきり言う人だったことが分かります。そして、トマスのイエスへのその質問のお陰で、私たちは主イエスからの素晴らしい言葉を聞くことができたのです。14章6節、7節です。
6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」
という言葉です。トマスの質問がなければ、この御言葉はなかったのです。

主の復活を信じないトマス
主の復活の日の夕方、弟子たちがある家に集まっており、そこへ復活した主イエスが来られ、「あなたがたに平和があるように」と言って入ってこられたとあります。ユダヤ人はシャロームと挨拶しますが、その挨拶です。その時にトマスはいなかったのです。復活の主イエスと会うことができなかったのです。そこで、ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言ったのです。自分がこの目で見て納得できないことは、信じようとしないという彼の性格がここに現れています。他の弟子たちの言葉を聞いても、トマスは主イエスの復活を信じなかったのです。しかし、これは他の弟子たちと比べて、トマスが特別疑り深かったからというわけではないでしょう。自分ひとり、その場に居合わせず、「わたしたちは主を見た」(25節)と喜ぶ他の弟子たちからは取り残され、仲間はずれにされたような寂しさを感じて、意固地になったのだということもあるでしょう。しかし、そもそも、私たちも、普通に考えて死人が生き返るということは信じられないものです。臨死体験ということは聞きます。お花畑のような景色が見えて、痛みも無く幸せな気分のようです。しかし、それは死の直前まで行ったかもしれませんが、死の世界に入ったわけではないのです。意識朦朧の中の体験でしょう。先週の祈祷会の際も復活のことが話されました。神のなされることだから当然のことと思うという方もあれば、常識的には信じられないという方もおられます。私たちは復活を信じるのに、いろいろな徴がほしいものです。墓が空だったのは、誰かが理由があって盗んだのかもしれないと思うこともできます。オーム真理教の教祖が死刑執行され、その遺体をどうするかで話題になっていたことがあります。遺族にお返しして、墓が聖地になっては困るという話しもありました。遺体が盗まれたということだって考えられないことではありません。復活した主イエスの傷跡を確認し、偽物ではないかと確認したいというトマスのように考えることもできるのでしょう。社会の常識に、また現代の科学的な常識に、また医学的な常識にぴったり合うような説明がほしいと私たちは願うのです。しかし、主イエスご自身が三日目にわたしはよみがえると、三度も言われた以外に復活の証拠はありません。

信じない者ではなく、信じる者になりなさい
そんなトマスのもとに、「八日の後」(26節)、つまり次の日曜日に、主イエスは来てくださいました。そして、ここでも「あなたがたに平和があるように」と告げられ、そしてトマスに向って、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と語りかけてくださったのです。そしてトマスが言った言葉が「わたしの主、わたしの神よ」です。意固地になり、暴言を吐き、主イエスを恨んだトマスは、そんな自分の気持ちと言い分を受け止めてくださった主イエスの愛と赦しに、神を感じたのです。自分ひとりのために、主はもう一度来て、語りかけてくださった。その思いが、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白となってほとばしり出たのです。しかし、このように感じたのはトマスひとりではなかったでしょう。他の弟子たちも同じ思いであったに違いありません。

創造と贖いの神
今朝私たちに与えられた旧約聖書のイザヤ書40章を先ほど読みました。28節をお読みします。
28あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
主に不平をもらすイスラエルの民に対して、イザヤは神がどのような方であるかを思い起こさせます。キリスト者であっても、未信者と同じように神の偉大さを、神の大きさを忘れてしまうことがあるのです。私たちはいつも神がどのような方なのかをはっきりと覚えておかなければなりません。それが、私たちがさまざまな困難に直面した時に乗り越えていくために必要なことだからです。ここでイザヤは、神はどのような方だと言っているでしょうか。
第一に、主は永遠の神であるということです。それは神ははじまりも終わりもないということです。神はいつでも、どこでも存在しておられるのです。黙示録1章8節にこうあります。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」この方はアルファであり、オメガです。最初であり、最後です。永遠に生きておられる方なのです。この方があなたのことを知らないということはありません。あなたはいつも神に覚えられているのです。たとえ苦しみの中にいる時でも、あなたの必要に答えて働いて下さっているのです。そして、
第二に、主は地の果てまで創造された方です。すべてのものはこの方によって造られました。イザヤ書40章12節にはこう言われています。
12手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか。
地の塵を升で量り尽くし 山々を秤にかけ 丘を天秤にかける者があろうか。
とあります。この地球には14億立方キロの水があると言われます。誰が計算したか知りませんが、それほどの水でも手のひらに乗せることが出来ます。また、この宇宙は半径で460億光年の広がりがあると言われています。1光年は1年間に光が進む早さ、スピードです。光が宇宙の真ん中から端まで行くのに光の速さをもってしても460億年もかかるのです。それほど宇宙はものすごく広いわけです。その天さえも手の幅で推し量ることができるのです。それは私たちの想いをはるかに超えているのです。この天地を創造された神にとってできないことなど一つもありません。たとえあなたが天地がひっくりかえるほどの大きな問題を抱えていても、この創造主なる神にとっては何でもないことなのです。それは地のちりにも満たないような小さな問題でしかありません。

信じる者になりなさい
使徒言行録26章に、パウロがアグリッパ王に対して弁明している演説が記されています。その8節で、パウロはこう言っています。「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。」と。これは大変に厳しい皮肉であると、同時に、実に堂々とした主張です。神が死人をよみがえらせたなどということは、とても自分には信じられない、と皆が言っているのに、パウロは、そうではなくて、神が死人をよみがえらせたということを、あなた方は、どうして、信じようとしないのだと言うのです。考えて見れば、私たちも皆、それを信じたいのです。信じられたらどれだけいいかと思うのです。それならば、信じればいいではないですか、とここで、パウロは言うのです。主イエスは弟子たちに三度も三日目の復活を語っていたのです。それならば、その約束を、なぜ信じようとしないのだ、と言うのです。復活以上の証拠はないのです。ただ、私たちは、それなのに、ああでもない、こうでもないと言って、なかなか、これを受け入れようとしないだけなのです。ヨハネの黙示録の3章20節には、あの有名な戸の外に立って、戸をたたいていおられる主イエス・キリストの話しが記されています。主イエス・キリストは、今日も、私たちの魂の扉をたたいて、信じない者にならないで、信じる者になりなさい、とトマスに対すると同じように、言っておられるのです。ただ私たちが、戸を開いて、主イエスを迎え入れるかどうか、それだけなのです。主イエスは「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と言われましたけれども、本来、信じるということは、見て、信じる、ということではないのです。見て信じるのは、見てこういうことがあったと思うだけであって、信じるというのは、何の証拠もないのに、信じるということのはずです。私たちが人を信じるという時、時には、さんざん自分に迷惑や厄介をかけた、あるいは自分に悪いことをした者を、もう一度信じてやろう、という時には、何も根拠がないのです。ただ信じてやろうというだけなのです。ボンヘッファーという神学者は「トマスが主イエスに触れようとしなかったのは、彼は、もはや、自分の手も、自分の目も信じなかったからである、そして、ただ、主イエスだけを信じたからだ」と言っています。トマスは、始めは、主イエスの傷跡を見なければ、そして指をその傷の中に、さし込まなければ、と言いましたが、復活の主イエスにお会いして、もはや自分の目の確かさや、自分の手の確かさを信じることができなくて、それよりも、主イエス・キリストを信じることの方が、どれだけ確かか、ということを知ったのだというのです。私たちの生活の中での苦しみや悲しみ、どうにもならないような苦しみや悲しみに出会う度に思うことは、今まで確かだと思っていたことが、どんなに確かでないか、ということでしょう。今まで当たり前に信じていたことが、少しも信じられなくなったという経験です。私は大した苦労もしていない者ですが、それでも自分の確かさがどんなに確かでないかを知ります。ある日突然勤めていた会社が倒産して苦労するようになったり、普通に見えていた景色が突然歪んで、あるいは潰れて見えたりした経験は、いかに自分の存在が確かでないかを悟らされます。
そして、復活の主イエスは、私たち一人ひとりのもとにも来てくださいます。一人ひとりに生活の場があり、人間関係があり、重荷を負い、苦しみを抱え、疲れている私のもとに、御言葉を通して、聖霊となって来てくださいます。私たちを受け止め、愛してくださいます。それは形として目には見えないかもしれませんが、主イエスがトマスに言われたように、私たちも「見ないのに信じる人」になるためなのです。祈ります。

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