4/23説教「イエスは良い羊飼い」

わたしは良い羊飼いである
「わたしはよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)という主イエスのこの言葉は、私たちを慰めてくれます。私自身、子どもの頃の教会の日曜学校で、また夏季学校で、山中湖のほとりで毎年開かれた夏季キャンプで学んだテーマでした。60数年前のその頃の楽しかった思い出がよみがえって幸せな気分になるのは、私が歳取ってきたせいなのでしょうか。その日曜学校の夏季キャンプに言っていた子供たちが成長して、年齢は違うけれども、今、何人かが牧師をしています。そして、また、その頃の多くの子供たちが、今、それぞれの教会で長老をしているのは、嬉しいことであり、励まされます。あらためて、幼い時から主なる神を覚え、子どもの礼拝を献げることの大切さを思うのです。大磯教会でも子どもの礼拝が再開できる時を祈っています。
そして、羊と羊飼いの麗しい関係を歌った有名な詩が旧約聖書にあります。旧約聖書の詩編23編です。私たち一人一人の名を呼んで、見守り慈しむ「良い羊飼い」に神をたとえ、このお方と共にある喜びを歌っています。1節から4節までを読んでみます。(旧約854頁)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ 、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。
私たちは羊のように無力で迷いやすく愚かな者だけれども、神はそんな私たちを見捨てず、いつも私たちと共にいて下さり、私たちの羊飼いとなって、綠の牧場、憩いのみぎわに伴ってくださる。そのように、この詩編の詩人は歌っているのです。かつて、日曜学校に通って、羊飼いである主イエスのお話を聞いた子どもは、今、牧師として、天に召された兄弟姉妹の葬儀でこの言葉を語っています。幼い時から、そして死に至るまで、「イエスは良い羊飼いで、羊のために命を捨てる」という言葉に慰められています。癒やされています。今日はその言葉を更に深く知りたいと思います。

良い羊飼いと雇い人
しかし、今朝の聖書箇所には、「良い羊飼い」と並べられて、悪い羊飼いのことが記されています。しかし「悪い羊飼い」という言葉はありません。悪い羊飼いというのはそもそも羊飼いではないのです。12節、13節に語られているのは、羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人のことです。11節の「良い羊飼い」と、12節、13節の「羊飼いではない雇い人」とが比べられているのです。その違いは、雇い人は自分の羊を持っていないということです。雇い人にとって羊は他人のものなのです。その違いは狼が来た時に明らかになります。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げるのです。その結果「狼は羊を奪い、また追い散らす」のです。13節に「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」とあります。羊が自分のものでない雇い人は、羊のことをそこまで心にかけていないので、自分の身が危うくなったら、羊を置き去りにして逃げるのです。
このように、雇い人に過ぎない者とまことの羊飼いである主イエスとの違いが比べられているわけですが、羊を置き去りにして逃げる雇い人は、10章1節以下で主イエスが語っている羊を奪う盗人と同じだと言っているのです。この盗人はファリサイ派の人々のことを指しているのです。ここには、ヨハネによる福音書が書かれた当時の、ファリサイ派のユダヤ教によるキリスト教会への迫害が反映されていると言われます。ユダヤ人の宗教的指導者をもって任じているファリサイ派の人々は、自分たちは神の民イスラエルの羊飼いだと思っていますが、彼らのしていることは、羊の群れを追い散らす盗人と同じだと、主イエスは言っているのです。

主イエスこそ良い羊飼い
今朝、私たちに与えられている旧約聖書の御言葉は、エゼキエル書34章1節から10節までです。ここには、良い羊飼いと全く違うイメージの羊飼いが登場します。ここではイスラエルの牧者つまり羊飼いたちに対して、主なる神が「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。」と怒っておられるのです。そして8節でこう語られています。「わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」主なる神がご自分の民イスラエルのために牧者として養うはずの民の指導者たちが、群れを養わず、自分だけを養っている、自分の利益や自分しか考えておらず、群れを牧していない、つまりただの雇い人になっている。そのため羊の群れには牧者がいなくなっており、略奪にさらされ、野の獣の餌食となっている、と主なる神は語っておられるのです。それゆえに、11節以下には、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりじりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」と語っています。羊の群れのほんとうの所有者である主なる神は羊の群れの牧者、羊飼いとなって、散らされた民を探し出して連れ帰り、群れを養って下さるために、神は独り子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。「わたしは良い羊飼いである」という主イエスのお言葉はこのように、偽りの羊飼い、羊飼いではなく略奪者にすぎないファリサイ派を批判しつつ、主イエスこそが神から遣わされたまことの良い羊飼いであり、神の民を集め、養い、導いてくださるのだ、ということを語っているのです。

教会の群れの長老職
今日は、礼拝後、2023年度の教会総会があります。現住陪餐会員である総会議員には総会の資料が配付されていますが、総会で一番重要なのは長老選挙です。2年ごとに半数ずつ改選があり選挙で選ばれます。『長老教会の手引き』によれば、長老の意義について次のように書かれています。「長老は、牧師を補佐し、牧師と共に長老会を組織して教会の運営に参与するために、現住陪餐会員のうちから選ばれた者である。」そして長老の資格として「長老は、信仰深く、公正、謙虚、寛容であり、みだりに他と争う者であってはならない。長老は、信仰経験に富むと共に、その教会の信仰告白と伝統に忠実であり、礼拝を厳守する者でなければならない」とあります。大磯教会では役員会と言っていますが、毎月行われる役員会の始めに、長老全員で『教会役員ハンドブック』から少しずつ学んでいますが、その中に「群れの模範として」と言う中で、次のように書かれています。
主イエスは「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ福音書13章15節)と言われました。主が弟子たちの足を洗い、愛して模範となられたのです。それに倣い、役員もまた群れの中で一人の礼拝者、信仰者、また祈り手として、模範となります。「あなた自身、良い行いの模範となりなさい」(テトスへの手紙2章7節)と勧められています。
牧師も「宣教長老」として御言葉を語る長老であり、信徒の中から選ればれる「治会長老」と同じく長老会を構成する者ですが、信徒が選挙で長老に選ばれる前に「私は長老には相応しくない」などと言われてもらっては困る訳です。長老は牧師も含めて、自らの欠けを知らされたなら、自分自身が聖霊の導きの中で変えられ、その欠けが補われていくことを祈り求めたいと思います。また完全無欠の長老などは存在しないということも覚えたいと思います。もちろん完全な牧師がいないのと同じです。完全な羊飼いは、主イエス・キリストしかおられないのです。私たちは、自分の力や資質によらず、ただ御言葉と聖霊の導きの中で、長老として立てられ、歩んでゆくのです。長老も牧師も、教会の祈りの中で、用いられた働きの中で、成長させられていることを日々経験するのです。

良い羊飼いは羊のために命を捨てる
今朝の御言葉は、「良い羊飼い」である主イエスが、ご自分の羊の群れを守って下さることが語られています。その中心は、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ということです。主イエスが良い羊飼いであられるのは、羊のために命を捨てて下さったからです。雇い人は羊のために命を捨てません。自分の命の方が大事なのです。しかし、主イエスはご自分の羊である私たちのためにご自身の命を犠牲にして下さったのです。十字架にかかって死なれたというのは、そのことなのです。主イエスはなぜそこまでして下さったのでしょうか。それは私たちをご自分の羊として下さっているからです。だから命がけで私たちを守ってくださるのです。そして、そのことが14節にも語られています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」とあります。主イエスはご自分の羊である私たちのことを本当に心にかけておられるのです。「心にかける」ことと「知る」ことは切り離すことができません。知っていなければ、心にかけようがないし、心にかけていなければ知ろうともしないのです。だから、私たちの弱さをも知っておられるのです。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という相互の交わり、信頼関係が築かれるのは、主イエスが十字架にかかって命を捨てられたことによってなのです。つまりこの信頼関係は、私たちが努力して築いていくのではなく、主イエスが先ず私たちを無条件で愛して下さったことによって築いて下さったのです。神に背き逆らっている罪人である私たちを、何の条件もなしに、私たちの罪が赦されるために死んで下さったのです。私たちの信仰は、この主イエスの愛に、感謝をもって応えることです。この愛に見合う十分な応答など出来ませんが、その愛に少しでも応えようとする時に、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という交わり、信頼関係が、主イエスと私たちの間にも築かれていくのです。

教会の群れ
16節に「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」とあります。主イエスは他の囲いのことに気を配られます。この福音書の記者は、この囲いの中の人はユダヤ人キリスト者で、囲いの外の人を異邦人と考えたかもしれません。しかし、それは他の教会と考えることも出来ますし、他のキリスト教の教派ともとれます。また他民族、他の家族とか、あらゆるものに取ることが出来るでしょう。私たちはさまざまな集団に属しています。宗教もそうですし、政治団体もあります。生まれた国もそうです。あるいは自分の生まれた時代の集団もそうかも知れません。私は戦後の団塊世代に属しています。前の時代の人とも思考は違うし、若い世代の思考にもついて行けません。そして、私たちはその集団の思考の外に出ることがなかなか出来ません。ロシア人はロシアの考えからしか外を見ることが出来ないし、日本人は日本人の枠でしか、ものを見ることが出来ないのです。しかし、主イエス・キリストは見事な大風呂敷を広げられます。「わたしには、この囲いのものではない、他の羊たちがいます。彼らもまた、導かなければなりません。彼らは、私の声を聞き、ついに一つの羊飼い、一つの群れになるでしょうと」と。
今は、教会という囲いに入っておらず、教会が宣べ伝える救いの知らせに反発していたり、無視していたりする人々をも、主イエスが集め、導かれる羊として下さる、という希望を抱くことが出来るのです。そしてこのことは同時に狭い囲いの中に閉じこもろうとする私たちの思いを主イエスが打ち砕いて下さり、囲いの外との交わりを与えて下さる、ということでもあります。あの人とは気が合わない、付き合いたくない、という思いで、自分の周りに囲いを作ってしまう私たちを解放して、囲いを取り除いて下さるということでもあります。そこには多くの曲折を経なくてはならないかも知れませんが、良い羊飼いである主イエス・キリストは、わがままな羊である私たちを、本当に必要な命の糧を得ることができる広い牧場へと導いてくださるのです。その時世界に平和が訪れるのです。祈ります。

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