はじめに
もう10年位前になりますが、バス旅行で甲府のぶどう狩りと桃の食べ放題という観光コースに参加したことがあります。収穫の時季ですから秋だったと思いますが。いつも自分で運転して旅行することが多いのですが、気楽にバスに乗って旅行するのもいいものだと思いました。バス旅行のメインはぶどう狩りでしたが、ぶどう園というのは、本当に良く手入れされているなと感心した覚えがあります。大きな甘いぶどうは十分に肥料を与え、剪定し、豊かな実を結ぶように手入れをしなければ出来ないのだと分かりました。リンゴも桃もミカンも野菜もお米も、また家畜もすべてそうなのでしょう。今朝は「イエスはまことのぶどうの木」のたとえから御言葉の恵みに与りたいと思います。
わたしはまことのぶどうの木
「わたしはまことのぶどうの木」のたとえは、主イエスが十字架の苦難に向かう直前の晩餐で語られました。弟子たちと別れ、地上に残る彼らが動揺し、悲しみ、不安にあることを深く心に留め、語られたのです。主イエスは悲しみ落胆を過ぎ越して、復活後に彼らが出会う未来を見ていました。弟子たちがその時、揺るぎない信仰と希望をもって立ち上がれるように励まし、やがて成る彼らのエクレシアつまり教会のために語られたのです。
ところで、主イエスは、「わたしは何々である」と何度も語っておられます。先週の礼拝説教は「わたしは良い羊飼いである」でした。その他に「わたしは命のパンである」、「わたしは道であり、真理であり、命である」という言い回しによって、御自分がどのようなお方であるのかを世に示して来られたのです。そして、今朝の御言葉で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木である」と言われるのです。何故、ぶどうの木と言われたのでしょうか。これには理由があるのであって、植物なら何でも良いわけではありません。「ぶどうの木」は、旧約聖書において神の契約の民イスラエルを象徴的に表わすものでありました。詩編80編9節にこう記されています。(旧約918頁)
9あなたはぶどうの木をエジプトから移し
多くの民を追い出して、これを植えられました。
ここではイスラエルがぶどうの木にたとえられて、エジプトから脱出したことと、カナンの地へ定住したことが語られています。このぶどうの木を植えられたのは主なる神なのです。それゆえ、主イエスは「わたしの父は農夫である」とおっしゃるのです。このように聖書において、ぶどうの木は神の契約の民であるイスラエルを象徴するものでありました。ですから、主イエスが「わたしはまことのぶどうの木である」と言われることによって、主イエスこそがまことのイスラエル、つまりまことの神の契約の民であることをお示しになったのです。
1節で、「わたしはまことのぶどうの木」と、主イエスはわざわざ「まことの」と言われています。それは何故なのでしょうか。神によって約束の地である乳と密の流れる土地、肥沃なカナンの地に、ぶどうの木であるイスラエルは植えられたのですが、そのぶどうの木は、神に背いて悪い野ぶどう、酸っぱいぶどうを実らせるものとなってしまっていたのです。そのようなイスラエルを念頭に置きつつ、主イエスは、わたしにつながることによって、まことのイスラエル、まことの神の契約の民とされているのだと言っているのです。主によって建てられた教会(エクレシア)に属する私たちも、イエス・キリストにあって、まことのぶどうの木とされているのです。
見事なぶどう畑の歌
今朝、私たちに与えられています旧約聖書の御言葉は、イザヤ書27章2節から6節までですが、ここには、世の終わりにイスラエルがどのように回復されるのかという預言が記されています。(旧約聖書1100頁)
2その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。
3主であるわたしはその番人、常に水を注ぎ
害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
・・・・・・
2節の「見事なぶどう畑」とは、イスラエルのことです。神はぶどう畑に良いぶどうの苗を植えたのに実ったのは酸っぱいぶどうでした。そこで神はどうしたかというと、その垣根を取り除き、石垣をくずして荒れ放題にするとイザヤ書5章で記していますが、しかし、ここでは違います。ここでは「見事なぶどう畑」とあります。イスラエルが良い実を結び、神がそれを喜んでおられるのです。4節には「わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。」とあります。もしイスラエルに敵対する者があれば、神が守ってくださると言っているのです。神の怒りは主イエスが十字架で負ってくださったので、私たちは救われているのです。私たちは神の怒りの対象ではありません。もう神の怒りを恐れる必要はないのです。ですから、大切なのは、5節にあるように、神と和解することです。ここには「わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」とあります。イエス・キリストによってのみ神と和解して、神との平和を持つことができるのです。
しかし、そればかりではありません。6節を見ると、神はそのような人を豊かに祝福してくださることがわかります。「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす。」とあります。今、ゴールデンウィーク中ですが、行楽地は緑豊かで花も満開でしょう。大磯のオープンガーデンに毎年参加している大磯教会の前庭の小さな庭も、この時季に草花は咲くのです。時が来れば、花は咲き、実を結ぶのです。そのためにはまず根を張らなければなりません。地中深く根を張っていくのです。そうすると芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶようになります。
しかし、ここで注意しなければならないのは、そのためには忍耐が必要だということです。6節に「時が来れば」とあります。実を結ぶには時が必要なのです。収穫には時間がかかります。フィリピの信徒への手紙1章6節で、パウロは「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」と言っています。私たちが良い働きを始めるならば、イエス・キリストが来られるまでにそれを完成させてくださるのです。どんな小さなことでも、種を蒔いて、しっかりと根を張りたいと思います。それが花となり、実になるのです。時がくれば必ず実を結ぶのです。そのために御言葉を聞き続けることが大切なのです。
父なる神の働き
ヨハネによる福音書15章に戻りますが、ぶどうの木を育てる農夫である、父なる神の働きとはどのようなものなのでしょうか。そのことが2節に記されています。
2「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。」
ここで、父なる神の働きが、枝を手入れするものとして、そして、枝、すなわちキリスト者は、神から手入れされるものとして見つめられています。ここで注目したいことは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。主イエスとつながっているかということと共に、実を結んでいるかどうかということが、ここで注目されています。主イエスにつながり、礼拝も守り、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態が問題にされているのです。キリスト者とされていながら実りがない、形式的な信仰に陥ってしまう状況が見つめられているのです。
そして、そのような実りがない枝に対して、農夫である主なる神が、その枝を取り除き、豊かなぶどうの実を実らせるための手入れをすると言うのです。即ち、父なる神は、ぶどうの枝あるいは蔓(つる)を良いものと悪いものを見分け、剪定し、悪いものを取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊に実を結ぶようにされると言っているのです。
しかし、この言葉から、私たちの中のある人が、実りをもたらさない枝で、ある人は実りをもたらす枝であると言うように、人間が取り除かれる人と、そうでない人の二つのグループに分けられるのだと考える必要はありません。そう考えるのではなく、どのような人であっても、一人の人間の内側に、良い実りをもたらさないような要素があるということです。父なる神は、そのような部分を取り除き、私たちが良い実を結ぶことが出来るように養って下さると言っているのです。
御言葉による剪定
では、神の剪定、つまり神の手入れは、どのようになされるのでしょうか。3節では「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」という主イエスの御言葉が記されています。ここでキリスト者が御言葉によって既に清くされていることが語られています。農夫である父なる神の手入れは、御言葉に聞き、それに生かされるという仕方で実現するのです。神の手入れは、主イエスの御言葉を通して実現するのです。ここから分かることは、主イエスの御言葉は、農夫が果実を実らせるために剪定するように、私たちが真の実りをもたらすように、私たちを剪定するということです。ぶどうに限らず、果実を甘く、しっかりと実らせるためには、剪定することが不可欠です。同じようにキリスト者も、主の御言葉を聞くという仕方で、日々神からの手入れを受けているということでしょう。剪定されることなく、豊かな実りをもたらすことはないのです。そして、御言葉に聞くということは、私たちの中にある真の実りを実らせない部分がそれによって取り除かれて行くということなのです。
私たちは、御言葉を聞く時に、自分を切り取ろうとするような鋭い部分には耳を塞いで、御言葉の中にある自分にとって都合の悪い部分を切り捨てていこうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、本来のあり方は、御言葉によって、私たちの悪い部分が切り落とされていくことが大切なのです。
主イエスの御言葉
主イエスの御言葉は、罪の中にある人間に対して、いつも悔い改めを迫ってくるのです。御言葉というのは、ただ、主イエスがお語りになった教えというだけでなく、主イエスの言葉、行為、人格、全てを指します。この主イエスの全人格を通した語りかけを聞く時に、私たちは、神に逆らって立っている、自分自身の罪を知らされるのです。そして、その罪が赦されているという恵みの中で、罪を取り除かれて、神の下に立ち返り、神の御心に生かされて行くのです。このこと以外に、私たちが真の実りを得ることはないのです。そして、もし御言葉によって清くされることを拒み続けるのであれば、それは、どのような状況にあっても、もはや、主イエスにつながっていないことと同じなのです。
私たちは日々、主なる神によって養われているのです。私たちは、枝であることを忘れて、自分自身が木であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。自分のことを自分で養分を吸い取り、豊かな実りを実らせようとして歩んでいる、自立した一本の木であるかのように考えてしまうのです。しかし、私たちは、ただ、自らが枝あるいは蔓であることを示されて、木の幹であるキリストにしっかりと結びつくこと、即ち、御言葉によって剪定され、自分の思いが打ち砕かれて行くことによってこそ、真の実を結ぶ者とされるのです。主なる神は、今日も、主イエスの御言葉を通して、私たちを清くしようとしておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。この言葉は、キリストに結びつくことなく、自ら実を得ようとする、つまり、自分が木であるかのように錯覚してしまう全ての人々に向けられているのです。あなたがたは、自分で良い実りを実らせることが出来ると思うかもしれない、しかし、そうではない、わたしこそぶどうの木だと語られているのです。この御言葉に聞きつつ、剪定され、清められて行くこと。そして、キリストによって与えられる命を受けつつ歩んで行く所に、まことの実りが生まれて行くのです。
聖書の言葉なくして教会はありませんし、その御言葉を聞き続けることによって私たちは清くされているのです。イエス・キリストが私たちを教会へと招いて下さり、ぶどうの木である主イエスにしっかりと結びつけられ生かされているのです。そして、私たちの日々の小さな歩みを主が喜んで下さっているのです。お祈りいたします。