5/21説教「聖霊の働き」

はじめに
先週の18日の木曜日は、復活されたキリストの昇天日でした。復活されたキリストが弟子たちを地上に残して天に昇って行かれた日です。昇天日は、主のご復活日(イースター)から40日目になります。昇天日といっても特に教会での礼拝や行事はありませんし、イースターとペンテコステの間にあり、目立たないのですが、大切な日です。主イエスが天に昇られたということは、見える形では、この地上の世におられなくなったということです。地上の世界においては、神のみ業は教会に委ねられたということで、教会が宣教の使命を与えられたことを自覚させられるのです。そしてその10日後に、すなわち、ご復活後、50日目に約束の聖霊が地上に残された弟子たちの上に与えられたという、ペンテコステの祝いの日へと引き継がれていくことになります。そういうわけで、今朝は、聖霊の働きについて語られているヨハネによる福音書16章5節から15節の箇所から御言葉の恵みに与りたいと思います。

悲しみで満たされている弟子たち
最後の晩餐の席で、主イエスは言われました。5節、6節を読みます。
5今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない。6むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
主イエスの別れの説教を聞いた弟子たちは悲しみで満たされていました。そのために、主イエスに「どこへ行くのか」を尋ねる者はいなかったのです。悲しみで満たされていることと、どこへ行くのか尋ねないということは、どう結びついているのでしょうか。これはつまり、弟子たちの心が「主イエスが自分たちのもとから去って行こうとしており、もう主イエスと共にいることができなくなる」という悲しみに満たされ、父なる神のもとに行くことの積極的な意味、それによってもたらされる恵みを見つめることが出来なくなっている、ということでしょう。それは確かに悲しいこと、寂しいことです。誰でも共に生活した愛する人との別れは悲しく、他人には分からないものでしょう。弟子たちは、これまでいつも共にいて支え、守り、導いていて下さった先生である主イエスが、おられなくなり、自分たちだけで歩まなければならなくなるからです。当然そこには不安や恐れがあります。そういう悲しみに弟子たちは捕らえられていたのです。
だから、誰も主イエスに「どこへ行くのですか」と聞けなかったのです。そもそも、弟子たちが期待していたのは、主イエスが自分たちを救ってくれるということでした。この場合の救いというのは、自分たちを支配していたローマ帝国の支配からの救いのことです。それなのに、主イエスは十字架で死なれるとか、父の許に行かなければならないとか言うものですから、弟子たちはそれを受けとめることができないでいたのです。でも問題は主イエスではなく、弟子たちの方でした。主イエスは最初からご自分が来られた目的や、それをどのように成し遂げられるのかを彼らに話して来ました。すなわち、主イエスが来られたのは彼らを罪から救うためであり、そのために十字架にかかって死なれること、そして、三日目によみがえられること、天に昇って行かれること、そのすべてを話されました。しかし、弟子たちは聞く耳を持たなかったので、それがどういうことなのか理解することができなかったのです。私たちも同じではないでしょうか。主イエスが去って行ってしまうことに弟子たちが覚えた悲しみ、不安、恐れを私たちも感じているのです。理解できないことに、心が悲しみでいっぱいになります。しかし、主イエスも私たちに語ってくださるのです。それを心に聞いて理解することが、あるいは理解に努めることが、私たちが悲しみに沈まないために必要なことなのです。

わたしが去って行くのは、あなたがたの益になる
次に7節を御覧下さい。主イエスが去って行かれると聞いて、弟子たちの心は悲しみで一杯になりましたが、そんな彼らに主イエスはこう言われました。
7しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
ここで、「弁護者」とは何かということですが、13節にある「真理の霊」と同じで、聖霊のことです。個人的なことですが、新共同訳聖書になって、この「弁護者」という訳がどうもしっくりきませんでした。口語訳聖書では「助け主」という言葉でした。「助け主をあなたがたのところに送る」の方が心にしっくりくるようにも思うのですが、新しい聖書協会共同訳でも「弁護者」となっています。
主イエスがここに語られていることは、弟子たちに対してのみでなく、私たちに対しても語られている大いなる慰めの言葉です。主イエスがこの世を去って父なる神のもとに行かれるのは、私たちのためになること、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。つまり、十字架と復活によって救いを実現して下さった主イエスが、天に昇り、父なる神のもとに行かれたこと、それゆえに私たちはもはやこの地上において主イエスのお姿をこの目で見ることはできないのです。つまり、主イエスによる救いは見ないで信じるべき事柄になったのです。これらのことは、悲しむべきことではなくて、私たちのためになる、良いこと、喜ぶべきことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。この「弁護者」については、すでに14章16節で教えられていたことです。そこには、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とあります。「別の弁護者」とは、主イエスと全く同じように助けてくださる方という意味です。今までは主イエスがいつも共にいて直接助け、慰めてくれましたが、その主イエスが去って行かれることで、今度は同じ助け主である弁護者方が来て助けてくださるのです。

聖霊が来てくださることによって
この方は13節にあるように「真理の霊」であり、聖霊です。父なる神のもとに行かれた主イエスに代わって、聖霊が弟子たちに、遣わされるのです。それによって教会がこの世に誕生し、今日まで歩んで来たのです。私たちがキリストの救いにあずかる教会に連なって生きているのは、この聖霊の働きによることです。私たちは主イエスを信じ、神が主イエスによって実現してくださった救いにあずかって生きることが出来るのです。この聖霊は主イエスが昇天し父なる神のもとに行かれたことによって遣わされました。もし、復活した主イエスが天に昇らす地上にずっとおられたなら、聖霊が遣わされることはなかったのです。聖霊は、天におられる主イエスと地上を生きている私たちを繋いで下さっているのです。聖霊のお働きによって私たちは、目に見えない主イエスとも繋がっていることが出来るのです。主イエスというぶどうの木の枝として生きることが出来るのです。このことこそ、本当に私たちのためになること、良いこと、喜ぶべきことです。

良い関係の回復
コロナ禍では教会員が会堂での礼拝に集まれないという悔しさをかみしめました。信仰生活にこのようなことが起こるとは想像もつきませんでした。時として私たちも、何かを失う時、弟子たちのように心が悲しみでいっぱいになることがあります。しかし、失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられるときでもあるということを覚えておきたいと思います。コロナ禍で私たちはやむなく家庭礼拝をしましたが、初代教会も迫害の中で、そして今日の中国の教会も共産主義体制の許で、やむなく家々で礼拝を捧げています。どのように困難なときにも礼拝は捧げられることを学びました。この機会はもしかしたら、神がくださった原点回帰の時だったのでしょうか。私たちは、今礼拝や交わりが決して当たり前ではないことを、つくづく思い知らされました。また、必要は新たなアイデアを生み出します。時代に即さなくなった慣例や制度の見直し、ほんとうに大切なものの確認などは、コロナ後の新たな世界を生き抜く第一歩となるのです。大磯教会も将来を見据えて身近なところから様様な改革をして行かなければならないと思います。やれることとやれないことがあり、教会員の体力・エネルギーも限界があるわけですが、福音宣教のために聖霊のお働きを求め、祈りたいと思います。

聖霊は罪を明らかにする
主イエスが神のもとから送ってくださる聖霊がしてくださることが8節から11節に語られています。まず8節に「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります。聖霊は、罪と義と裁きについて真実を明らかにするのです。まず罪については9節です。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」とあります。聖霊は主イエスこそ神の独り子であり救い主であられるという真実を明らかにします。それによって主イエスを信じることなく拒み、十字架につけて殺した世の誤り、罪がはっきり見えてくるのです。この福音書の3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありました。世は神にこのように愛されながら、その愛を受け入れず、拒んだ。そこに世の罪がはっきりと現われているのです。

聖霊は義を明らかにする
また10節には「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」とあります。聖書において義は、人間が考える正義ではなくて、神との間に正しい関係があることです。私たちは罪によって神との正しい良い関係を失っています。つまり義でなくなっているのですが、神は、独り子イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、良い関係を回復してくださっています。義を与えてくださっているのです。その恵みに応えて私たちも、神を信頼して、主イエスを、目に見える証拠によってではなく、見ないで信じて生きるのです。主イエスの十字架と復活による救いのみ業に私たちが応えて、信仰に生きる、そこに、神と私たちとの正しい関係が、つまり義が打ち立てられるのです。

聖霊は裁きを明らかにする
11節には、「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」とあります。「この世の支配者」というのは、私たちを神のご支配から引き離そうとしている罪の力、サタンのことです。サタンは権力を握っている人間たちを用いて神の独り子イエスを十字架につけて殺しました。そこでサタンが神に勝利してこの世を支配しているように見えたのです。しかし神は主イエスを復活させ、主イエスは今や天において全能の父なる神の右に座しておられます。この世をほんとうに支配しているのはサタンではなくて父なる神であることが示されたのです。神に逆らってこの世の支配者であろうとしたサタンは最終的に裁かれ、断罪されるのです。聖霊はこの神の裁きを明らかにします。そこに、サタンに支配されている世の誤りがはっきり現われるのです。

 父なる神と、独り子なる神、主イエスと弁護者なる聖霊の神が、連携して、一体となって、救いを実現し私たちにそれを悟らせ、その救いに生きる者として下さっているのです。私たちは主イエスのお姿をこの目で見ることはできない中を歩んでいます。そこには確かに不安や恐れがあります。しかし、神のもとに行かれた主イエスから遣わされた聖霊が、神による救いの真理を明らかに悟らせてくださるのです。 祈ります。

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