5/28説教「聖霊の賜物」

はじめに

今週の土曜日の6月3日は大磯教会の123年目の誕生日になります。〝いちにっさん

〟でぞろ目ですから覚えやすいですね。123年というのは、戦後、創立した教会が多い日本の教会においては、歴史のある教会であると思います。ここで教会というのは、礼拝堂の建物のことではなくて、イエス・キリストの福音を語り、祈る集団と言う意味です。

聖霊降臨の日の礼拝である今朝の御言葉は、使徒言行録2章1節から11節までですが、復活された主イエスの約束に従って祈り続けていた弟子集団に、聖霊なる神がどのように与えられ、教会を誕生させたか、というお話です。早速御言葉の恵みに与りたいと思います。   

 

炎のような舌が一人一人にとどまった

ペンテコステの日に、主イエスの約束通り、弟子たちに聖霊が降ったのです。そこで何が起こったのでしょうか。2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「激しい風が吹いて来るような音」、それが聖霊の働きを指し示しているのです。風自体は私たちの目に見えません。しかし確かに吹いてきて、私たちに働きかけます。肌に感じます。二千年前、聖霊が、新しい風として吹きつけ、弟子たちの信仰を呼び起こし新しくした。地上の教会が誕生した。それがペンテコステに起こったことだったのです。

そしてこの出来事は、「突然」起こったと聖書は語っています。神が一方的に現れる聖霊の出来事は突然現われることが多いのです。だんだんそうなっていくのではなくて突然なのです。確かに主イエスの約束を守って弟子たちは祈っていたのです。1章14節に「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。弟子たちが祈っている時、聖霊降臨の出来事は突然起こりました。私たちはともすると、こんな状態では聖霊をいただけるような状態ではない、と言いがちですが、それは全く違います。私たちの準備が整うのを聖霊は待っていません。聖霊は突然与えられるのです。私自身が経験したことも、この通りの突然の出来事でした。何度も語りましたが、私が伝道者の召命が与えられたキッカケもそうでした。55歳を過ぎて、何度目かの失業中のことでした。当時、愛知県にある教会の礼拝に毎週出席していましたが、失業中だったので、平日も時間があったので教会の祈祷会に出席していました。

私と牧師だけの祈祷会で、時々もう一人加わるという祈祷会でしたが、ある日、祈祷会が終わって、牧師とお茶を飲みながら雑談している時に、牧師が「鈴木さん、これから牧師になるために神学校に入ったらどうですか。」と言われた言葉が、今になってみると弁護者なる聖霊のお働きだったと思うのです。その時は、この牧師は何を言っているのだろう。と思ったのです。一昔前であれば、会社も定年の時期です。今から伝道者になれるのかと思いました。しかし、その声は耳の中で、心の中でと言うのでしょうか、次第に大きくなって来ました。聖霊の炎は一方的に燃え上がりました。いろいろありましたが、そのことがキッカケでキリスト教伝道者への道へ入りました。この説教を準備している時に、改めて気付いたことですが、あの時は祈りの会の後だったのだと改めて気付きました。

3節には「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。「炎のような舌」とは何でしょうか。「炎」、それは神が人間にご自身を示し、人間と関わりを持とうとされる時に現れるものです。出エジプト記3章で、モーセは神の山ホレブで、燃え上がる柴の炎の中から神のみ声を聞きました。神は炎の中から彼に語りかけると同時に、「ここに近づいてはならない」と言われたのです。罪人である自分がこれ以上近づいたら焼き尽くされずにはおれない、モーセはそういう体験の中で、神と出会い、遣わされたのです。聖霊が降った時に炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまったというのは、まさに主なる神ご自身が彼ら一人一人に出会い、働きかけて下さったことを現しています。聖霊の風は、外から吹いてきて、炎の舌として現れ、そして私たちを新しく生かすのです。

また、「舌」という言葉が使われていることにも意味があります。聖書において「舌」は語ることとの関連で出てきます。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とありますが、それは、神からの炎が、弟子たち一人一人に、舌となって、つまり「語る力」として与えられたということでしょう。したがって、4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と語っているのです。ペンテコステの出来事において弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい舌、新しい言葉を与え、語る力を与えたのです。ガリラヤ出身の青年たちは、聖霊に満たされ、語る力を与えられて世界伝道へと歩んだのです。

 

バベルの塔の示すこと

 今朝、旧約聖書の御言葉として与えられた箇所は、創世記11章1節から9節の箇所です。バベルの塔の物語は、「世界中が同じ言葉を使って、同じように話していた」というところから始まっています。その人間たちがシンアルの地に、天にまで届くような塔を建て始めるのです。それは人間が神に成り代わろうとすることを象徴しています。神に成り代わって人間が神になる。そういう意味では、バベルの塔を建てることは今でもいろいろな形で行われています。人間による環境破壊による気象の変化、地球温暖化や生態系破壊に現れていると言っていいかもしれません。人間が、自分の命と自分の体を、自分のものだからそれをどのように使おうと勝手だ、と思って生きることも、そこにバベルの塔を建てている思いと同じと言わなければなりません。他国を侵略し破壊し人の命を奪っても思いを遂げたいという思い。神は、人間のそのような傲慢な、不遜な営みを御覧になり、人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようになさったのです。つまりこのバベルの塔の物語は、この世界に様々な違う言葉があり、違う言葉どうしは通じない、という現実を語っているのです。自分がこの世界の主人になろうとしたことへの神の裁きを語っているのです。

そして、今朝のペンテコステの出来事、聖霊が降り、新しいイスラエルである教会が誕生したことにおいて、これと反対のことが起り、この問題の解決が示されているのです。互いに通じないそれぞれの言葉の中で生まれ育った人々が、この聖霊の働きによって、皆、同じことを聞いたのです。「神の偉大な業」が語られるのを聞いたのです。それぞれの言葉の違いはあります。しかし、皆が同じ神の偉大な業を語る言葉を聞く、つまり主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いの恵みを聞くのです。バベルの塔において散らされた人間の再結集がここにあります。聖霊は、そのように私たちを一つにするのです。

バベルの塔の話は神の裁きによる混乱を表わしており、そしてペンテコステは神の赦しによる秩序が表わされているのです。

語る言葉を与える聖霊
ペンテコステの日に起った出来事、聖霊が降ったことによって弟子たちに与えられた出来事は、豊かな意味を持っています。それらは全て、この後、ここで誕生した教会が成長して行き、全世界へと広がっていくことの中で実現していくことの予告、先取りであると言うことができます。神が、聖霊の力によって生まれさせて下さった教会を通して、どんなに豊かな恵みのみ業を繰り広げていって下さるのかが、このペンテコステの日の出来事に凝縮されて示されているのです。私たちはここから、神が教会において実現して下さる恵みの豊かさを知ることができます。けれども、それと同時に私たちは、聖霊を受けた弟子たちに起ったことの中心、本質をしっかりとつかんでおかなければなりません。それは、いろいろな国語でしゃべり出したことではありません。また異文化との交流ができるようになったことでもありません。起ったことの本質は一つ、それは、彼らが、「神の偉大な業」を語り始めたことです。その「神の偉大な業」は、主イエス・キリストにおけることです。神が、その独り子イエス・キリストを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちと同じ人間としてこの地上を歩んで下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、その十字架の死を父なる神は、私たちの罪の赦しのための贖いの死として受け入れて下さり、私たちの罪を赦して神の子として下さった。そして私たちにも、死に打ち勝つ復活の命、永遠の命を約束して下さった、この、主イエス・キリストにおいてなされた神の偉大な救いのみ業を、弟子たちは、聖霊を受けることによって語り始めたのです。それを証しする者とされたのです。

語る者にも聞く者にも働く聖霊
そして、その言葉を人々に理解させ、「神の偉大な業」が語られているのだと分からせて下さるのも聖霊の働きです。いろいろな国から来た人々が、それぞれの国語で「神の偉大な業」が語られるのを聞いて驚いたというのです。それは、弟子たちに聖霊が働いていろいろな言葉を語れるようにした、ということであると同時に、人々にも聖霊が働いて、弟子たちの語る言葉を理解できるようにした、ということでもあるのです。聖霊は、語る者にも聞く者にも働きます。それによって、主イエス・キリストの喜ばしい福音が、伝えられ、受け取られるのです。教会が生まれたというのは、そのような聖霊の働きが開始されたということです。どんな言葉、どんな説教を聞いても、聖霊の働きがなければ、キリストの福音は伝わらないのです。しかし聖霊が働いて下さるなら、人間的などんな違いも問題ではありません。言葉や文化や生活習慣がどんなに違っていても、その違いが乗り越えられて、神の偉大な業が伝わって行き、私たちを新しいイスラエル、教会へと結集して下さるのです。教会はこの聖霊のお働きによって生まれ、今も歩んでいます。私たちはその聖霊のお働きを、聖霊の風を、自分自身に祈り求めていきたいと思います。私たち一人一人が、主イエス・キリストによる神の偉大な救いのみ業を語る者とされることを、求めていきたいのです。大事なことは、私たちが聖霊の働きを、その風を、その炎を、祈り求めていくことです。私たちが何かをするのではなく、聖霊が新しい出来事を起して下さることを願い求めることです。しかしその出来事は、どこかの誰かに起るのではなくて、この自分に起こるのです。自分に聖霊が働いて下さり、語る言葉を与えて下さるのです。私たち一人一人がそれを願い求めて祈りを合わせていくところに、生き生きとした喜びの福音が伝えられて行くのです。聖霊が降り、教会が最初に誕生したペンテコステの出来事をしっかりと見つめ、その聖霊が今、創立123年を迎えた大磯教会にも豊かに働いて下さることを信じて祈り求めたいと思います。お祈りします。

 

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