6/4説教「喜びにあふれて」

はじめに
先週の礼拝はペンテコステ礼拝、つまり聖霊降臨を記念する礼拝でしたが、教会暦によると、ペンテコステの次の日曜日である今日は「三位一体主日」と呼ばれます。歴史的には三位一体節として10月まで続くのですが、現在は聖霊降臨節と呼ぶ教会が多いようです。ペンテコステの次の日曜日が「三位一体主日」と呼ばれるようになったのは、紀元10世紀頃です。ところで、三位一体という言葉は一般的にも使われますが、元々キリスト教の神を表わす重要な教えなのです。ただ、その言葉は聖書の中にはありません。神を三位一体という理解で把握し、それを教会の正統な教理として確立したのは、4世紀のニケヤ公会議です。唯一の神である父と、子であるキリストと、聖霊という三つの神格、しかもそれを一体、ひとりの神であると信じ告白することが、キリスト教の神理解の一つの基礎となりました。この理解は、長い間のキリスト教の土壌であったユダヤ教との決別を決定的なものにしました。つまりユダヤ教はイエス・キリストを神としていないからです。
さて、「三位一体主日」である今朝、私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、ルカによる福音書10章17節から24節までです。早速、その恵みに預かりたいと思います。 

二つの喜び
今日の聖書箇所には二つの喜びが出てきます。一つは七十二人の弟子たちの喜びです。17節に「七十二人は喜んで帰って来て」と書かれています。もう一つは、主イエスの喜びです。21節に「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」とあるとおりです。
喜びの気持ちは、人生に必要な、とても大切なものです。私たちは喜びのある生活をしたいと願っています。人は皆、自分が思い描く楽しいこと、というのはそれぞれに違っています。大磯教会の南側の海寄りの道はいつも釣り竿をもった人たちが通っています。また海岸と海の中には冬でもサーファーが沢山います。音楽の好きな人、絵を描くのが好きな人、野菜を作るのが好きな人、大工仕事の好きな人、旅行の好きな人、皆何かしら好きなことがあると思うのですが、費用もかかるので、なかなか出来ないという現実もあるかもしれません。また喜んでばかりいられない災難や苦悩もやってくるわけですが、しかし、喜びがなければ、生活は苦しく、虚しいだけのものになってしまうでしょう。コロナ禍で長い間行動が制限され、人と会うことが出来ない生活になり、精神的なダメージを受けた人が沢山いたように思います。また、信仰にも喜びが必要です。喜びは信仰を生きるエネルギーの元です。喜びがなければ、信仰も行き詰まってしまいます。牧師の仲間にも体を壊したり、精神的な病気になる人が最近多くいるように思います。高齢が原因のこともありますが、ストレスを抱えた若い人の方が精神的なダメージは大きいように思います。真面目な方が多く、仕事を抱え込んでしまうこともあります。これは誰も他人事ではありません。笑顔が少なくなってきたらお互いに気を使ってあげなければなりません。そのように私たちの人生には喜びが必要です。さて、今朝の聖書の御言葉を読むと、どうやら喜びには2種類あるようなのです。早速見てみましょう。

七十二人を派遣する
ルカによる福音書10章17節以下に、七十二人の弟子たちが伝道から帰り、主イエスに伝道の成果を報告している様子が記されています。弟子たちは「主よ、お名前を使うと、悪霊でさえもわたしたちに屈服します。」と喜んで主イエスに語っています。ところで、私たちが知っている主イエスの弟子は12人ですが、ここでなぜ72人を任命して遣わされたのか。これについては、さまざまな解釈がされていますが、古い写本の中には「70人」と書かれているものもあり、ルカ自身がどういう意味で「七十二人」と書いたかは今になってはわかりません。ただ、大方の解説者が言うのは、この70または72という数字は、当時の人々が考えておりました、世界全体の民族の数ではないかというのです。他の考えでは長老たちの数として定められた数とも言われます。いずれにしても、世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿、世界に生きる教会の姿が、予め先取りされて述べられていると読むことができるのです。
ところで、この七十二人の派遣は、主イエスを信じる信仰者の群れである教会が、つまり私たちが、主イエスのことを宣べ伝える使命を与えられ、この世に派遣されていることと重ね合わせて語られているのです。この七十二人に対する主イエスのお言葉は、教会の信仰者たちへのお言葉でもあるのです。著者であるルカは、自分を含めて、そのように意識しつつ語っているのです。この七十二人と私たちとはどこが重なるのでしょうか。七十二人の弟子たちは、後から来られる主イエスの先駆けとして派遣されました。これからこの町に来られる主イエスを、人々が救い主としてお迎えするように備えをするために派遣されたのです。私たちも、後から来られる主イエスの先駆けとして派遣されています。復活して天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる主イエスは、いつかそこからもう一度おいでになり、それによってこの世は終わり、神の国が実現し、私たちの救いが完成すると約束して下さっているのです。
七十二人の弟子たちは、主イエスによって二人ずつ、町や村に遣わされました。病人を癒やし、「神の国は近づいた」と宣べ伝えるためです。当時、病気は悪霊が人に取りついて生じさせると考えられていました。そういう悪霊に打ち勝つ権威、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」(19節)を授けて、主イエスは七十二人を遣わしたのです。だから、72人の弟子たちは〝悪霊よ、イエスの名によって命じる。この人から出ていけ〟とやったのです。すると、その人から悪霊が出て行き、病気が癒やされました。この現象は、弟子たちにとって、喜ばしいことだったに違いありません。何だか自分に力が付いたようで、得意ですらあったかもしれません。それで、喜んで報告したのです。「お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」と。

名が天に記されることを喜ぶ
ところが、主イエスは、悪霊が屈服することを喜んで報告する弟子たちに言われました。
20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
自分のしていることがうまくいった。結果が出た。都合良く運んだ。それは人間の目から見れば喜ばしいことである訳ですが、神の目から見ると、ズレているのです。それとは違う喜びがあるのです。それは、自分の名が天の名簿に書き記されている喜び、自分の名前が神に覚えられている喜びです。もっと端的に言えば、自分が神に愛されている喜びです。
私たちは、毎年11月の第1聖日の就眠者記念礼拝の後に、天に召された兄弟姉妹の名前を読み上げます。名簿もお配りしています。名簿に載る兄弟姉妹が毎年加わります。いずれ皆さんの名前も呼ばれるでしょう。これは地上における私たちの慰めと平安を与えられる教会の行事ですが、天に記されている名簿に私たちの名前が書き記されるということは、私たちに大きな安らぎと喜びを与えてくれるのです。自分の名が天に書き記されている。それは、目に見える確かな現実ではありません。だから、理解しにくいのです。けれども、その喜びは、目に見える喜び、人生の表面的喜びよりも、もっと必要なものです。私たちの魂を支える根源的な喜びです。その喜びと出会うとき、私たちは、今、都合良く事が運んでいなくても、心の底からの喜びが得られていなくても、大きな不安を抱えていても、なお、私たちの魂を支え、勇気を与えられ平安を得るのです。
自分の名前が天の名簿に書き記されている。神に認められ、愛されている。それを信じることによって、私たちは、人生逆風で、うまく行かず、結果が出ず、都合良く運ばない不安と落ち込みの中にあっても、〝自分はだめじゃない〟という魂の平安を得るのです。それが私たちに最も必要な喜び、根源的な喜び、イエス・キリストを信じる者に与えてくださる喜びです。

シオンの残りの者
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、イザヤ書4章2節から6節までです。その3節に次のように記されています。
3そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。
「残りの者」とは、神が救われる者として選び、残しておいてくださった人々のことです。その人々の名が、神の手元にある命を得る者のリストに書き記されているのです。神のリストに書き記されているということは、もはやそれを消し去られることはないということです。地上の人生においてどのようなことがあっても、信仰の歩みにおいて害を加えられ、志し半ばで命を失うようなことがあっても、また人生の戦いに敗れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、サタンに「この人はこんな罪を犯した」と神の前で訴えられてしまうことがあっても、神は、「いや、この人の名はわたしのこのリストに書き記されている。この人はわたしの民、わたしの救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神が私の罪を赦して下さり、私の名を天に記して下さったことを信じることです。そこにこそ、信仰者に与えられる本当の喜びがあります。この喜びを与えられる時、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」と言う約束が真実であることを知ることが出来るのです。

主イエスの賛美
21節以下には、主イエスが聖霊によって喜びあふれて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神を賛美した言葉が記されています。21節冒頭に「そのとき」とあるように、この賛美の言葉は20節までの所と結びついています。あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さった主イエスが、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜び、神をほめたたえて下さったのです。
主イエスがここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼児のような者にお示しになりました。」ということです。「これらのこと」とは、18節から20節に語られてきたこと、その中心は、あなたがたの名が天に書き記されている、ということです。そのことが、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたのです。つまり、自分の力に寄り頼み、自分の力で何とかできると思っている者、しようとしている者には、名が天に記されている恵みは隠され、分からないのです。「幼子のような者」、それは自分の無力を知っている者、いやもっと正確に言えば、自分の力ではどうにもならない、という現実の中で途方に暮れている者です。そのような者にこそ神は、「あなたがたの名が天に書き記されている」という恵みを示して下さるのです。

三つにいましてひとりなる神
この後歌う讃美歌351番は、三位一体主日に歌われるにふさわしい賛美歌です。ヨハネの黙示録4章8節から11節に基づいて作られています。作詞者レジナルド・ヒーバーは、18世紀、英国国教会の司祭ですが、まだ詩編歌以外の歌を礼拝で歌うことが公式には許されていない時代でしたが、自分が司祭を務めたホドネット教会の礼拝で歌うために作詞したものです。彼が作った讃美歌詩は生前は出版が許可されませんでしたが、彼の死後、妻にとって出版され、ついにカンタベリー大主教の許可が与えられて、英国国教会に自由創作讃美歌の道を開く大きな契機になりました。
1聖なる 聖なる 聖なる主よ、
夜ごと、朝ごとに ほめたたえん。
三つにいまして ひとりなる
主こそ力に 満ちあふる。
イギリスの大詩人、アルフレッド。テニソンは、「他のどんな讃美歌よりもこの歌が一番好きだし、その韻律(リズム・メロディー)もすばらしい」と言っています。テニソンの死の一週間前に息子との会話の中で、神は人格的存在である。なぜなら、この罪深い私を愛し、1羽の雀をも心にかけておられる神は愛と意志の神であって、私たちと人格的関係に立っておられるからだ、その愛と意志は永遠であって、その名は「聖」というほかない、と語ったと記されています。このテニソンだからこそ「聖なる 聖なる 聖なる主よ」という讃美歌に心を打たれる思いがあったのでしょう。
私たちは、自分の名が天の名簿に書き記され、神に覚えられている喜び、神に愛されている喜びを本当に喜びたいと思います。聖なる 聖なる 聖なる主は、「暗黒(くらき)はこの世をおおうとも、ただ神のみは、聖なるかた、愛と栄に満ちあふるる)」方です(3節)。主イエスご自身が私たちの目と耳を開いて、多くの人々が願いながらも見ることも聞くことも出来ないでいる喜びを与えて下さるのです。 祈ります。

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