6/11説教「金持ちとラザロ」

はじめに
今日、6月11日は教会暦で言うと三位一体後第一主日になりますが、教会の行事的に言うとこどもの日・花の日と定められています。これは19世紀から20世紀にかけての、いわゆる日曜学校運動の中で生まれてきた日で、教会に集まる子どもたち、この社会で育つ子どもたちのために祈る日です。さらにアメリカ起源のこの日は、夏の花が咲き始める「花の日曜日」と呼ばれる日と重なり合うこともあります。そこで「こどもの日・花の日」などと呼ばれて特別の行事をする教会もかなりあります。私にも、子どもたちが病院に花を持っていった記憶があります。しかし、残念ながらコロナ禍の3年で、それらの行事はほとんど出来なくなったのではないかと思います。今、日本全体が、子どもの出生率が予想以上に低くなってきたので、政府も子ども家庭庁を作って異次元の政策を打つと言っています。その中で、教会も日本全体以上に教会学校の生徒が減っているので、次世代の教会の姿が危ういものになっています。大磯教会も子どもから高齢者に至るまで主イエスの愛に満ち満ちた教会としてしっかりとした教会形成をして行きたいと願うのです。
さて、今朝私たちに与えられた新約聖書の箇所は、ルカによる福音書16章19節から31節までです。説教題にあるように、「金持ちとラザロ」という主イエスが語った話しです。早速、御言葉の恵みに与りたいと思います。

ラザロとは誰か
宗教の教えは異なっても、死んだらどうなるのか、という問いの前に私たちは立たされます。天国と呼ぶか極楽と呼ぶか、呼び名は違っても、幸いな死後の世界と、そこから落ちた者の世界、黄泉と呼ばれたり、地獄と呼ばれたりする世界があるということです。キリスト教会でも、天国と地獄とかが語られることがあります。聖書はそのことについて何を教えているか。聖書の中で、主イエスが天国や地獄についてお語りになっている場面はまことに少ないのです。主イエスがただ一度語っている珍しい聖書の箇所が、今朝のルカによる福音書16章19節から31節の金持ちとラザロの物語なのです。ただ、主イエスはここで現世と死後の世界をどのように考えておられたかということではなく、当時の人々の、死後の世界に対する考え方をそのままたとえ話の舞台として設定しているのです。したがって、この話しから死後の世界についての主イエスの考えを読み取ることはできません。さらに、主イエスが、たとえ話しの中で、登場人物に名前を付けているのはここだけです。ここでは「ラザロというできものだらけの貧しい人」と、個人名で呼んでいます。だから、これはたとえ話ではない。という人もいます。ラザロは弟子たちもよく知っている人物なのでしょう。したがって、今朝の金持ちとラザロのたとえ話しは、金持ちもラザロも、何かをたとえているのではなくて、主イエスがお語りになった一つの物語の登場人物です。その物語を通して主イエスは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。この主イエスが語った話は特別難しいたとえではありませんが、単なる勧善懲悪の話しではないし、善い行いは良い結果を、悪い行いは悪い結果が出るという因果応報の話しでもありません。
ラザロは金持ちの門前に横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた、と記されています。当時、裕福な人々は、パンをナプキン代わりに使っていたようです。ちぎったパンで手を拭き、それをテーブルの下に投げたと言います。それをラザロは遠くから眺めて、そのパンで何とか腹を満たしたいものだと思っていたとあります。よく食パンの耳をもらって食べ繋いだと言う話しを聞きますが、あれは結構美味しい物ですが、ラザロは大変です。犬もやってきては、そのできものをなめたとあります。貧乏人のでき物といえば、すぐ旧約の詩人ヨブを思い浮かべます。ヨブは苦難のしもべでありました。赤くただれては、かさぶたになり、寝ることもできない痛がゆさに瓦の破片でかきむしると、また赤はだが、でてくることを繰り返す光景です。犬がなめたというのですから、まさに死人扱いです。私たちが犬と聞きますと、かわいらしい存在と考えがちですが、牧羊犬を用いなかった当時のユダヤの人々にとって、犬は、野蛮で汚い動物として嫌われていました。野良犬がよってきてでき物をなめていたけれども、その犬を追い払う力すらラザロにはなかったのです。
そして、ラザロという名前は、エル・アザルというヘブライ語の名をギリシャ語ふうに書き改めたものだと説明されます。そしてラザロと言う名前の意味は、「神はわが助け」という意味です。つまり、「神の助けなくして、生きられない者」と言う意味だし、神の助けによってのみ生きている。という意味があります。金持ちの門前に横たわっていた、と記されていますが、金持ちが捨てたパンを食べていても、金持ちの憐憫によって生きていたのではないということです。神の憐れみによって生きていました。実は、主イエスとラザロはその名前の意味が似ています。イエスという名前は「神の助け」という意味です。ラザロの意味は「神はわが助け」です。同じです。ヴェルナー・フェンザック著『イエスのたとえ話講解』の中で著者は、たとえの中のラザロこそ、イエスにほかならない。と言っています。主イエスは、私たち人間世界のただ中にあって、貧しいものになったのです。クリスマスの主は、馬小屋で生まれました。ベツレヘムの家畜小屋は岩を掘った粗末なものでした。人間が生まれるに全く相応しいものではありません。主イエスは生まれたその時から、金持ちの門前にいたのではないでしょうか。そうして、当時の権力者、金持ちの門の前で、十字架の死で、命を捨てるという特別な仕方で、外に横たわっているのではないでしょうか。主イエスはいつも戸の外にいるのです。ラザロの問いかけのまなざしは、主イエスの問いかけのまなざしです。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25章40節)と主イエスは語られました。ラザロこそ主イエスそのものだ。そのような解釈もあるのです。

贅沢に遊び暮らしていた金持ち
もう一方は、ある金持ちです。しかし、ラザロは個人名で呼んでおられるのに、この金持ちの個人名が出て来ないのは何故か、という疑問があります。ある意味で不名誉な立場なので、紳士的配慮の結果であったという説明がありますが、良く分からない説明の気がします。この金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていました。紫の柔らかい麻布、これらは高級な衣服です。当時の染色技術は極めて未発達でした。漂白も染色も刺繍もない地のままの毛織物がほとんどだったのです。ただ一つの染色が地中海に面したティルスあたりで巻き貝の一種からとれる色素を用いて染めたものがこの貝紫でした。したがって高貴な人のステイタス・シンボルになっていたのです。この金持ちは、その高級な衣服をいつも身に着けていたのです。また、時々ぜいたくに遊んだのではなくて、毎日贅沢に遊び暮らしたのです。この金持ちは、それほどの富を持っていたのです。しかし、主イエスは、必ずしも金持ちを富のゆえに非難してはおられません。正当な手段で富を得たならば、決して非難されないのです。ユダヤでは勤勉はよいこととされていたし、ユダヤ人は今でも大変に勤勉で金融界や科学・文化でも優れています。アインシュタインもユダヤ人です。このたとえの中の金持ちは、神のことをまったく忘れ、無視していたと考えられます。生活に満足しきっていたのです。
ところで、この金持ちが、なぜ、ここに登場したのでしょう。実はここで無視できない言葉が14節以下に記されています。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』」と言われました。ここで分かるように、この金持ちとは、この「金に執着するファリサイ派の人々」のことです。この「金に執着する」という新共同訳の訳は、口語訳の「欲の深い」という訳よりも原文に近づいていると言われます。「金を欲しがる」、あるいは「銀貨を愛する」と言い換える人もいるようですが、まさに金銭、富に心を奪われ、縛られているのです。現代の多くの日本人の心をよく表わしています。しかし、ファリサイ派を一言弁護するなら、彼らは、ローマ帝国に占領された中にあって、始めは信仰を一生懸命守ったために貧しい生活を余儀なくされていたのです。まさに清貧であったのですが、そういう人々にも欲の深い思いが芽生えて、ひっくりかえってきたのです。ぜいたくに遊び暮らしながら、自分たちは神を信じ、それに神が報いてくださったのだから、これは神から与えられた特権であり、その特権に生きて何が悪いのか、という思いが忍び込んできたのです。

アブラハムの前で
この対象的な二人にも同じように死が訪れます。死だけは誰にも平等にきます。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。そして、金持ちも死んで葬られます。毎日ぜいたくに遊び暮らすほどの金持ちですから、その葬儀もきっと豪華なものであったに違いありません。それに対して、ラザロには「葬られた」という言葉はありません。ラザロは、墓に葬られることもなく、人知れず息を引き取ったのかもしれません。
ここまでがこの地上での歩みです。23節以降は、死後の世界において二人がどうなったかが記されています。金持ちは陰府で、さいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。と記されています。
金持ちは、大声で叫びます。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
この金持ちもイスラエルの民であり、アブラハムの子孫です。だから、わたしを憐れんでくださいと願っているのです。そして、更に「ラザロをよこして」と願っています。この金持ちは、自分の門前に横たわっていた貧しい人が「ラザロ」と言う名前であったことを知っていたのです。知っていながら彼はラザロに憐れみをかけませんでした。そして、依然としてラザロをまるで召し使いのように考えているのです。しかし、アブラハムはこう言います。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』と。主イエスのたとえ話は、ファリサイ派の人々の価値観をひっくり返すものです。
アブラハムの言葉を受けて金持ちは、そのことを理解しました。ですから、彼はもう苦しみから逃れようとは考えません。金持ちの関心は、自分の苦しみから、まだ地上にいる兄弟たちへと向けられます。27節です。
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。』
おそらく、兄弟も同じように、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのでしょう。自分と同じような生活をしていたら、兄弟たちも同じように炎の中で苦しむことになってしまう。金持ちは、ラザロを父の家へ遣わし兄弟たちに警告してほしいと願うのです。 
ラザロを兄弟たちのところに遣わして下さいと願う金持ちに、アブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言いました。「モーセと預言者」は律法と預言者を指しており、それによって旧約聖書の全体が意味されていると言うことができます。また本日共に読まれた旧約聖書の箇所である申命記18章15節以下には、神が将来モーセのような預言者をお立てになるから彼に聞き従え、と語られています。いずれにせよ「モーセと預言者」は、神がご自分の民にお語りになったみ言葉を、そしてそれを書き記した聖書を指しているのです。「彼らに耳を傾けるがよい」ということは、聖書をちゃんと読み、神のみ言葉にしっかり耳を傾けよ、ということです。これは私たちに対して語られている言葉でもあります。私たちには、旧約、新約の聖書が与えられており、そこに語られているみ言葉が毎週の礼拝において説き明かされています。それをしっかり読み、また聞いていけば、私たちには神とその救いの恵みが分かるはずなのです。
救いの恵みを聖書は私たちに告げてくれているのです。しかし金持ちは先ほど読んだように、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言いました。これは、聖書を読み説教を聞いているだけではなかなか悔い改めることができない、ということを言っているわけです。それは自分自身の体験からの言葉でしょう。もしも死んだラザロが復活して現れ、「先に死んだあなたがたの兄さんは炎の中でもだえ苦しんでいますよ」と告げてくれたら、兄弟たちも悔い改めるでしょう、と言っているのです。しかしアブラハムはこう答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。私たちもこの金持ちと同じように、聖書の言葉や説教だけではどうもピンと来ない、もっとはっきりとした目に見える奇跡などによって、神がおられる証拠が示され、そのみ心が何であるかを明らかにしてもらえれば信じることができるのだが、などと思うことがあります。けれども、悔い改めが起るのは、奇跡を見ることによってではないのです。聖書を通して神が私たちに語りかけておられる御言葉を本当に聞こうとする思いがなければ、奇跡に驚くことはあっても悔い改めは起りません。聖書に記され、礼拝において説き明かされる御言葉によって、神は私たちを悔い改めへと、救いへと招いて下さっているのです。主イエスはそのことを、この物語において語り示しておられるのです。
しかし、そこで私たちは安心してはなりません。私たちはこの聖書に耳を傾けなければなりません。聖書によって、私たちの信仰と生活を整えていかなければならないのです。救いは、聖書を通して、誰にも開かれているのです。

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