6/18「招きを断る人」

はじめに
今朝の御言葉は、主なる神から私たちへの招きを語っている御言葉です。そして、その招きを断る人間のエゴイズムが見えてきます。これは「大宴会のたとえ」という主イエスが語ったたとえ話です。主イエスは、たびたび婚宴のたとえを語られることがあります。ところで、今朝の14章で語られていることは、主イエスがファリサイ派の、ある議員のお宅で食事に招かれたときの出来事です(1節)。その席で、主イエスは水腫の病を患っている人を癒やされたことが語られています。水腫というのは、調べてみると、皮下組織にリンパ液などがたまり、むくみが表れ、呼吸が苦しい病気だとありましたが、主イエスは、安息日でありましたが、その人の病気を癒やされました。そして、7節以下では、婚宴に招待された人の席順のことで、上席を好む人々をたしなめ、12節以下では、「昼食や夕食の会」には、貧しい人や障害を負っている人々を招くようにとお教えになりました。そして14節で主イエスは次の言葉で締めくくられます。
14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。
「正しい者たちが復活するとき」とは、神の国が実現するときです。だから、その席で主イエスの教えを聞いていた客の一人が、食事の席と「復活」という言葉から「神の国」を連想して、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)と言ったものと思われます。しかし、この客の一人がつぶやいた言葉には、どことなく悲しい響きがあり、神の国での食事の幸いを語っているけれども、本当の喜びが感じられないのです。そこで主エスは、神の国での食事は、その程度の喜びではない、もっと大きな幸いである。ということを伝えるために、このたとえ話を語ったと考えられるのです。それが今朝の御言葉です。早速、御言葉の恵みに与りたいと思います。

招きを断る人々
「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、・・」(16節)と、神の国を盛大な宴会にたとえた話しを始めました。ところが、宴会の用意ができたので、あらかじめ招いていた人々を呼びに僕を送ったところ、皆、次々に断り始めたと言うのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」(18節)、「牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください。」(19節)、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」(20節)。一人ひとり、何か事情があり、理由があって、宴会の誘いを断りました。ここで当時の慣習についての説明が必要になります。それは、当時の宴会への招待が二度にわたってなされるという慣例です。宴会への招待は、通常、何日か前に行われる事前の招待と、当日の食事の用意が整った後の二度の招待という二回があったということです。このたとえを聞いた私たちは思います。だったら、最初に断れば良いのに、最初の招待は受けておいて、迎えに行ったら断るというのですから、この家の主人が怒るのも無理はありません。
ある説教者は、ここでの、畑を買った。牛を二頭ずつ五組買った。妻を迎えた。という言葉が、全て過去形だという点に注目しています。つまり、もう買い物も、取引も、結婚式も終わっているわけです。だからこの断る人たちの中には、僕の誘いを断らなくてはならない理由が、本当は何もない。この神からの大きな招きを断ることのできる大きなものが私たちの中にあるとするならば、それは、私たちの中で過度に肥大した悪しきエゴイズムということです。聖書はその、神の愛を遮断し、神に、愛を裏切りで返してしまうその自己中心性を、罪と呼びます。

持っている者と持っていない者
さて、これらの三人は、人間がいつも口にする弁解のとりこになっていました。私たちの生活をよく見ると、やはりこの三つの弁解が、かなり絶対的な力をもって、支配していることに気づきます。しかし、神はこのような弁解を超えています。そこで僕は帰って、自分の主人に、これらのことを報告しました。その時、主人は怒って僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
一体、この貧しい人々と、あの招きを断り弁解した人たちとの違いは何でしょう。彼らはあまりに持ちすぎているのです。ですから、弁解に事欠かないのです。ところが、貧しい人々は、持っていないのです。「幸いなるかな、貧しき者、神の国はその人たちのものです。」と主イエスはおっしゃっています。それに引き換え、持っている人たちは、大切なものを欠いているのです。いつでも神に開かれた心が欠けています。さて、私たちはどちらでしょうか。持っている方でしょうか。それとも持っていない方でしょうか。そう聞かれれば、誰もが「いや、私は持っていません。少なくとも、ほんの少ししか持っていません」と言うでしょう。力も才能もありません。お金は言うに及ばず、知恵もありませんと。そのような人に聖書は語ります。「いらっしゃい、神の招く晩餐に、ただで、手ぶらで何も持たずにいらっしゃい」と、全ては用意されていると言うのです。

渇きを覚えている者は、水のところに来るがよい
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉はイザヤ書55章1節から7節までです。これは、バビロン捕囚によって遠い異国に追いやられ、バビロンで苦渋の生活を始めた同胞のために、支えと励ましの御言葉を語った預言者の言葉です。この無名の預言者を、学者は仮に「第二イザヤ」と呼ぶのが常ですが、彼のメッセージの締めくくり部分が今朝の旧約聖書の御言葉です。1節、2節をもう一度お読みます。
1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
これほど真っ直ぐに、これほど端的に、人間の生きる幸いを語る言葉があるでしょうか。「渇いている者が、水を得る、飢えている者が、糧を得る、価なしに」と預言者は語っています。すべてのものが金銭の価値に置き換えられるのか。金銭のやり取りを越えた、当たり前の生命の営み、命を支える働きというものがあるのではないか。ところが人間は、糧にならぬもの、生命を豊かにせずに、かえって損なうものばかりに目を向け、身銭を切って血眼になってそれらを追い求めているのです。それでは渇きは一向に癒えず、飢えは満たされることはない、と言うのです。第二イザヤの時代に人々が生きているのは、異郷の地バビロン、文明の都であり、富や経済に支配された町に暮らす人々の抱える現実が、ここに如実に映し出されているのです。そして同時に、時を越えて現代の私たちにも、深く問いかけてくる言葉です。
しかし、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」という呼びかけは、古代の人にとっては、思っても見ない予想外の呼びかけでもあったに違いありません。古代では厳格に水は管理されていたし、その使用については、仲間の厳しい掟の遵守が求められていたのです。その掟を破る者は、死を免れなかった。そういう生活の中に、神は「水のところに来るがよい。 銀を持たない者も来るがよい。」と呼びかけているのです。なぜそんなことがあり得るのか。その答は8節、9節にあります。
8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。
9 天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
神の思いは、私たちの思いをはるかに越え、神の道は、私たちの道を高く超えているからだ、と言うのです。私たち人間の営みのひとつ一つの事柄は、余りに小さく、中途半端に途切れており、すべては虚しいようにも見えます。しかし、そこに語られている御言葉は、虚しく戻ることはないのです。

お返しが出来ない人々
さて、最初に招待した人々に断られた主人は、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(21節)と僕に命じました。よく読んで見ると、これは、直前の箇所で主イエスが昼食や夕食の会に招くべき人として選んだ人々(13節)と同じです。つまり、それは14節にあるように、「お返しができない」人々です。
神の国に招かれるのは、〝お返しができない人々〟です。当時のユダヤ社会では、結果として貧しい人々や障害を持った人々がお返しのできない人々だったわけですが、神は貧しい人や障害を負った人だけを愛し、選び、神の国へと招かれたのではありません。私たちも招かれているのです。けれども、招かれたのは、お返しのできない人です。神にお返しするような行いも人格も持っていないと、自分を低くして、へりくだっている人のことではないでしょうか。ところが、ファリサイ派の人々は、自分はお返しができると思っていました。人に対して食事のお返しができるだけでなく、神に対しても、お返しができると思っていました。自分は律法を熱心に守っているのだから、神に選ばれ、招かれるに足る行いがある、理由があると自負していました。自分の力に自信があったのです。けれども、ファリサイ派であろうと徴税人や遊女であろうと、金持ちであろうと、貧しい人であろうと、本当に神の招きに見合うお返しのできる人など一人もいないのです。神の前に立てば、私たち人間は、どんなに立派な生き方をしているように見えても、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と悔い改め、へりくだるほかにはないのではないでしょうか。
自分には神に誇れるような行いがないことを知っている。愛がないことを知っている。罪人であることを知っている。そのような者が、神の憐れみによって神の国に招かれるのです。救いは、自分の行い、自分の力によって決まるものではなく、神の憐れみによって起こる恵みです。当然の結果なのではなく、与えられた贈り物です。この恵みに気づかせ、信じさせるために、神は主イエスをこの世に遣わされました。主イエスを十字架に架け、その命を犠牲にして私たちの罪を赦して、私たちを愛する深い憐れみを示されました。この恵みの前に、私たちは、目に見える自分の行いや力や、地位や財産などを誇ってはならないのです。それらを誇るとき、私たちは自分の価値観で自己本位になり、憐れみによる神の国への招きを断る者となるのです。

席はまだあいている
しかし、話しはまだ続きます。そこで僕は言いました。『御主人さま、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』。主人は、そこで僕に向かって言いました。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』と。そうです、まだあまりの席があるのです。これこそ恵みの席です。神の恵みは、もう一杯になり「満員御礼」ということはありません。私たちも、その一員になることが出来ます。この最後にせき立てられる人とはこういう人です。悩みがあって、教会に行こうとしたが、どうしても教会の入口から入ることができず、恥ずかしくて入れない人です。気後れしているけれども、恵みにふれる人、それがなお空いている席に座る人です。「無理にでも人々を連れて来る」とは、強引という意味ではなく、「わたしのような者は」と思っている人にこそ、神の救いが当てはまることを教え、勇気をださせることを表わしています。恵みにのみ生きる人が、恵みの食卓に与るのです。 お祈りいたします。

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