7/23説教「あなたの唯一の慰めは何か」

はじめに
今年度の大磯教会の教会目標は「何を信じるか~信仰告白を学ぶ」というものです。プロテスタント教会の中で最も良く知られた指導的な信仰入門書であるハイデルベルク信仰問答の第一問は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いから始まっています。その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、主イエス・キリストのものであることです」となっています。この答えの元になっている聖書の御言葉が、今朝のローマの信徒への手紙14章7節から9節の箇所です。それでは、早速、今朝の新約聖書の御言葉、ローマの信徒への手紙14章7節から9節の御言葉から恵みに与りましょう。

主のために生き、主のために死ぬ  
7、8節でパウロは次のように語ります。
7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
ここでパウロが言っていることは、もはや自分のために生きるのではなく、主の僕として主のために生きる者となったキリスト者は、主のために死ぬ者となります。それは、主のために死ななければならない、いわゆる殉教の死を遂げなければならない、という意味ではありません。主イエスの十字架と復活によって、罪の赦しと新しい命を与えられた私たちは、その豊かな恵みを受けて、深い喜びの内に主のものとして生きるということです。そして、死においても、永遠の命の約束という恵みの内に、主のものとして死ぬことができる、ということです。つまり、主の僕として主のために生きる深い喜びは、死においても失われることがない、とパウロは言っているのです。死においても、私たちは主のものであり、主こそが私たちを支配して下さっているのです。つまり私たちがこの世の人生を終えて死ぬ時にも、そこで私たちを支配するのは、主イエスの救いの恵みなのです。9節には「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあります。主イエス・キリストが十字架の死を遂げて下さり、そして復活されたことによって、私たちは、生きている時も死においても、主イエスによる救いの恵みのご支配の下に置かれているのです。

大木英夫説教集から
私事になりますが、私は70歳で埼玉県上尾市にある聖学院大学大学院で3年間学ぶことが出来ました。教会員のご理解が得られたことは感謝でした。主にラインホールド・ニーバーという神学者でもあり政治思想家でもある人のことを高橋義文という先生から指導をいただいたのですが、その高橋先生の師匠に当たる先生が、大木英夫という先生でした。大木先生は、東京神学大学と聖学院大学の学長をされ、日本基督教団滝野川教会の牧師を長くされた方です。この大木先生はニューヨークのユニオン神学大学でラインホールド・ニーバーから直接学んだ最後の日本人学生で、「ニーバーの祈り」を翻訳し日本に紹介した先生です。高橋先生と大木先生のお二人の先生は、私がラインホールド・ニーバーについての論文を書いて、修士課程を終了してから相次いで天に召されました。高橋義文先生は2021年8月29日に78歳で先に逝去され、大木英夫先生は、昨年、2022年10月12日に93歳で逝去されました。この大木英夫先生が書かれた『ローマ人への手紙―現代へのメッセージ』(教文館1998年発行)という説教集はなかなか面白い本です。現代的な視点で聖書を解説していて具体例が多くて分かり易い説教集です。その本の中に、今朝のローマの信徒へ手紙14章7節から9節の解説があります。一部を紹介したいと思います。

恐れなくてもいい、大丈夫 
その中で大木先生は、アメリカの社会学者であるピーター・L・バーガーの言葉を紹介しています。ピーター・バーガーはユダヤ系アメリカ人で、ナチスから逃れてドイツからアメリカに移住した人ですが、彼は、次のような事を例としてあげて、現代の神の問題について書いています。
それは、真っ暗な夜、悪夢にうなされた子どもが目を覚ますと、今まで周りにあったものがよく見えない、恐くなった子どもが悲鳴をあげる、そこへお母さんがやってきて、子どもをなだめ、寝かしつけると言うのです。真夜中、悪夢を見て目を覚まして、暗い中で自分が独りぼっちという状態に置かれている子どもは当然、言いようもない恐怖感にとらえられるものです。暗闇の中で、周りに柱がどこにあり、窓がどこにあるのかということが分かれば、自分自身の位置も分かるわけですが、すべてが混沌であり秩序が崩れてしまい、世界はまさに混沌の状態になってしまっている、そういう中に自分がおかれているということを直感的に感じて、子どもは恐れ、悲鳴をあげるというのです。母親がその声を聞いて部屋に入ってきて電気をつけ、子どもに話しかけ、また子守歌を歌い、「恐がらなくてもいい。みんなちゃんとしているでしょ。だいじょうぶよ、お休みなさい」と、声をかけるという。
しかし、ピーター・バーガーはこのように問い返すのです。「しかし、果たして世界はそんなに安心できるものなのであろうか。子どもが暗闇の恐ろしさを感じ、怯えるのは人生の本当の姿ではないだろうか。それを母親は『だいじょうぶ』と言う。母親は嘘を言っているのではないだろうか」、「もしも母親の言うことが嘘ではなく、本当であるとするならば、世界は決して無秩序や混沌が支配しているのではない。神が存在しているから大丈夫なのだということでなければならない」と言うのです。
そして、大木先生は、現代のように子どもを持つということが自由意志に委ねられている時代に、もしも人生の苦しみ、悩みを味わった親であるならば子どもを持たないかもしれない、もしも子どもを持つとするならば、確かに母親は、そして父親も、神を信じなければならないはずだと感じたと言っています。そして、大木先生は、もう一つの例を語っています。
ある40代半ばの学者が、体中に癌が広がっていて、検査の結果、もう何ヶ月もないということを奥さんを通して知らされたと言うのです。そして、この学者は今まで集めた貴重な資料を整理して売りに出してしまったというのです。学問という崇高な「業」、心血を注いだ「業績」によっても人間は救われないのだ、ということを感じたと言うのです。この一人の若手の学者は、その宣告を受けたとき、この子どもと同じ感じをもったのではないかと大木先生は思ったと言うのです。突然、世界が崩れだし、混沌がまるで堰を決壊した大水のように襲ってくる。世界全体が秩序を失い、自分の存在が崩れていく、足もとが崩れていく。そう思ったと大木先生は語っています。大木先生がこの本を出版されたのは今から約30年前のことですから、癌治療ははるかに進歩しているので、事情は違いますが、本質は変わらないでしょう。誰がこのとき、子どものように悲鳴をあげないでおれるでしょうか。と言うのです。人間は死に直面するとき、この子どもの真夜中の恐怖と全く同じ恐れを経験するはずだと言うのです。突き詰めて言うならば、神が存在することがなければ、人間は自分の人生に耐えることができるか、というのです。
母親がもしも「だいじょうぶ」と嘘を言っているのではないとするならば、神は存在せねばならないのです。神が存在しないならば、いかなる根拠をもって世界は大丈夫だ、人生は大丈夫だ、
と言えるのでしょうか。神は、天地創造の時に混沌に向かって「光あれ」と言われました。光が造られました。そして光が照り輝いたときに、闇は駆逐されていきました。光は闇よりも強いからです。神がおられるということは、キリストの復活において啓示されたのです。アメリカ人は「ハッピー・イースター」と言います。なぜ、ハッピーなのか。それは、復活祭において、世界が大丈夫だ、人生が大丈夫だという肯定が告知されているからではないか。現代人が、もしも生きることが大丈夫だという確信が嘘でないとするならば、現代人は復活祭において神の存在に気づかなければならない、とも言っています。

ただ一つの慰め
主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちは、生きている時ばかりでなく死においても、私たちを本当に支え、慰めを与える真実の喜びを与えられています。この喜びを本当に知ることができれば、私たちは古い生き方から解放されて、新しく生きることができるのです。この喜びは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったキリストが、聖霊のお働きによって与えてくださるものです。主のものとして生きるところに与えられるこの深い喜びは、死においても失われることはないのです。その喜びは「慰め」と言い替えることができます。「ハイデルベルク信仰問答」の問一は、そのことを問うています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いです。その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」というものです。この答えの元になっている聖書の言葉が、今朝の箇所、8節の「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という言葉であることは冒頭に申し上げました。私は、もはや私自身のものではなく、主イエス・キリストのものとされている。つまり私の主人は主イエス・キリストであり、私は主の僕として、自分のためにではなく、主のために生きる。キリスト者に与えられているこの新しい生き方こそが、この世を生きる人生においても、死を迎える時にも、私たちを本当に慰め、支え、喜びを与えるとパウロは言っているのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちはこのように、主イエスのもの、主イエスの僕として、主のために生きる者とされているのです。そこにこそ与えられる深い喜びのゆえに神に感謝して生きるという新しい生き方を与えられているのです。

あなたの道を主にまかせよ
これから歌う讃美歌528番「あなたの道を」という讃美歌は、ドイツの讃美歌作者パウル・ゲルハルトの作詞です。1節は「あなたの道を 主にまかせて」2節は「どんな時にも 道を備え」そして4節は「走るべき道を 走り終えて」と、全体を通して「道」にこだわったこの讃美歌は、4節で「栄光のみ国へ帰るその日」と歌い、天国を見据えた歌詞で終わるゲルハルトの詞の特徴がよく現れています。マルティン・ルターがドイツ語に訳した詩編37編5節の言葉、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい」がゲルハルトにこの作詞を生み出す霊感を与えたと言われます。この5節の言葉は、それまでは「あなたの願いを主に打ち明けなさい。そうすれば、主はかなえてくださる」という意味に理解されていました。しかし、ルターは、それを「あなたの道を主にゆだね、主に望みをおきなさい。主は良いようにはからってくださる」とドイツ語に訳しました。私の願いを聞いて下さる神ではなく、自分の願いを神にまかせて神のみ旨に従う信仰が告白されているのです。このルターのドイツ語訳からゲルハルトの詩があふれ出てきたのです。この詩編の詩人は「あなたの道を主にまかせよ」と言っていますが、「まかせる」という言葉は、本来「(石を)ころがす」という意味があるようです。主の主権のもとに私たちの道、つまり人生をころがして移すことを意味しているのです。私たちの人生は、自分の思いとは異なる方向にころがるかもしれないのです。しかし主は、まかせた者の道、人生をご自分の計画に従って、豊かに計らってくださるのです。

恐れるな、わたしはあなたと共にいる
今朝の旧約聖書の御言葉、イザヤ書43章は、慰めに満ちた主の救いの言葉が語られています。預言者第二イザヤからこの言葉を聞いているのは、バビロンへ捕囚の憂き目にあり無気力になっているイスラエルの民です。その捕囚の民に第二イザヤは、希望へ転換させる主の呼びかけの言葉を語るのです。5節の言葉「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める」と。まさに現在の危機を転換させる神として示されています。神は、苦難の中にあえぐイスラエルの民と共にいる、と呼びかけているのです。ここに語られている主の言葉は、世界の隅々まで神の支配の及ばないところはないという宣言であり、苦難の中にある民を救い出すことができるという言葉です。

人は「自分のため」に生きていると思っています。しかし主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちは、生きている時ばかりでなく死においても、主が私たちを本当に支え、慰めを与える真実の喜びを与えてくださるのです。この喜びを本当に知ることができれば、私たちは、生まれつきの古い生き方から解放されて、新しく生きることができるのです。それは、本当の喜びです。その喜びは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって与えて下さるものです。そして、主のために生きる者とされるのです。そこに、真実の喜びに生きる新しい歩みが与えられていくのです。祈ります。

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