7/30説教「光の子として歩む」

はじめに
今年の暑さには閉口します。連日35度以上の日が連日続いています。大磯教会に長くいる人は、会堂にも集会室にもエアコンがなかった時代をご存じだと思います。今やエアコンが無ければいられない暑さですが、コロナ禍になって換気のために窓を開けるのでやはり暑いですね。先日、集会室のエアコンがつかなかったので、修理のため電気屋さんに来てもらいました。始めエアコンのガスが無いかもしれないと言われたのですが、ところが、一旦ブレーカーを落としてエアコンを付けたら直りました。原因は塩害でした。海に近いところにあるエアコンは、特に室外機は基盤、つまりICチップを使った基盤が塩でやられるのだそうです。大磯教会のように海の近くではよくあるのだそうです。大磯教会の古い牧師館に住んでいた時に、台風の後など、窓ガラスに塩の跡が残っていました。今朝の聖書の箇所は、主イエスが山に登られて弟子たちや人々に教えられた山上の説教の中でのお話です。小見出しに「地の塩、世の光」と書いてあります。そこでは塩の効能と世の光のことが語られています。主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言われ、塩の効能を語っていますが、実際のところ、塩には人間にとって害もあるのです。塩害はIC基盤を使っている電気製品や電子オルガンなどにも影響します。また、人間にとっても塩分を取り過ぎると腎臓を悪くしたりしますから、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということでしょうか。それでは早速御言葉の恵みに与りたいと思います。

あなた方は地の塩、
主イエスは今朝の新約聖書の箇所の5章13節以下で、「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」と弟子たちや主イエスの後を追ってきた群衆に語りかけています。塩は生活に必要不可欠なものです。塩の入っていない料理など食べられたものではありません。塩分の摂りすぎは体に悪いですが、塩なしに人は生きていけません。塩分は人間に必須のミネラルです。ある男性の話ですが、体に力がない、疲れ易い。それが余りひどいので医者に診てもらったところ、塩分不足が判明したそうです。奥様が気を使いすぎて、食事から極端に塩分を抜いてみたためでした。味噌汁だめ、醤油だめというふうに・・・塩分が不足すると、頭痛、めまい、吐き気、だるさ等の症状がでるそうです。私事になりますが、先日、健康診断をしましたが、いつもそうなのですが、尿検査でクレアチニンという数値が基準より高めでした。クレアチニンも老廃物の一つで、この数値によって腎臓の働きがある程度分かるのです。無呼吸症の治療もあって、20年近く、毎月1回は医者に通っていますが、いつも言われるのが、塩分に気をつけなさい、水をよく飲みなさい、ということです。私に取って塩分はいつも悪者扱いなのですが、しかし、そうではありません。主イエスは、このたとえの中で塩の効能について語っています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節)。
塩の役目は大きく分けて2つ考えることが出来ます。主イエスも言っているように、調味料として食物に塩味をつけることです。そして、もう一つの働きは、塩は物が腐るのを防ぎます。「あなたがたは地の塩である」とは、あなたがたは、この世に良い味をつけ、またこの社会の腐敗や堕落を防ぐ、なくてはならない働きをしているということです。塩は酸化するのを抑え、菌の繁殖を抑えます。保存食としての燻製や漬物は先人の知恵です。主イエスのこの例えでは、防腐剤としての働きに重点が置かれているのです。キリスト者が地の塩であるというときに、前提として、この世は腐敗している、汚れていると言う事実があります。様様な犯罪、人間の闇があり、企業倫理の喪失が毎日ニュースを賑わしています。ウクライナでの戦争は更に長期化し、日々死傷者が増えています。戦いはアジアや中東に拡大しそうな不安を感じます。
ところで、洗礼を受けたキリスト者は主イエスの弟子といえます。私たちはどのように「地の塩」の働きをしたらよいのでしょうか。塩は少量でも食物全体を引き締める働きをします。同じように主イエスの弟子であるキリスト者も少数派であっても、社会に浸透し、塩のような役目を果たすことが期待されているのではないでしょうか。
さて、塩は少量でも効き目があると言っても、たとえば、それは肉や魚に擦り込まなければいけないし、料理に混ぜなければ意味がないのです。私たちは社会の中で、できればクリスチャンと言われたくない、できればこの世から身を離した気持ちで信仰生活を送りたいと思うかも知れません。教会で礼拝は守るけれど、なるべくこの世と関係をもたないで生きようとする思いがあるかもしれません。私自身がそうでした。市役所勤務時代も会社員時代も皆、教会に行っていることは知っていても、クリスチャンだからといって得になることは何も無いからです。礼拝出席を守るために努力はしましたが、組織人としての限界があります。地の塩の働きは出来なかったのです。
しかし、主イエスは、この世で生きて行く上での危険は、塩気を失うことであると言っているのです。主イエス時代の塩は岩塩でした。多くは湿地から採ってきた岩塩でした。岩塩は不純物が多く含まれており、塩気を失うことがありました。そうなると、用がなくなり、道路に捨てられたりしたようです。キリスト者も塩気を失い、無力無益な存在になる可能性があるということを主イエスは言っているのです。塩気を失ったキリスト者とはどういうことでしょうか。この世の人と区別がつかないキリスト者ということでしょう。この世と調子を合わせて生きているキリスト者ということかもしれません。この人には塩気は無い、この世の腐敗を防ぐ殺菌力は無くなっているということです。地上に生きたイエス・キリストは、ファリサイ派や律法学者の欺瞞と闘い、悪評をかっていた徴税人や罪人といわれる人たちと付き合っていました。主イエスは彼らと交際したゆえに、大酒飲みの食いしん坊などと悪口さえ言われながら、地の塩として働かれたのです。
地の塩を生きているキリスト者は周囲にピリピリ感を与えて、時に疎まれることもあるかもしれません。今朝の主イエスの言葉は、すぐ前の10節から12節の「義のために迫害されている者の幸い」の教えを引き継いでいるのです。読んで見ます。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしたちのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
義の正反対が腐敗ということです。主イエスは、まことの地の塩の働きを尽くされたのです。主イエスの弟子である私たちは、たとえ嫌われることがあっても塩の働きをしなければならない。いや、主イエスは、頼りなかった弟子たちも、集まって来た多くの群衆も、罪人と言われた人々や病気を癒された人々も、この福音書を書いた徴税人のマタイも、そして、なるべく目立たないように無難に過ごそうとする私たちにも、「あなたがたは地の塩である」と言い切っておられるのです。主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい、そのように努力しなさい」と言われたのではありません。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われたのです。主イエスは、私たちに努力目標をお示しになったのではありません。弟子として、あるいは御言葉を聞こうとしてこの礼拝に集まっている私たちすべての者に、主イエスは、あなたがたは地の塩、世の光なのだ、と厳かに宣言しておられるのです。

あなたがたは世の光である
二つ目は14節以降の「世の光」ということです。
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、と もし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
「あなたがたは世の光である」とは、文字通り、あなたがたが光としてこの世を明るく照らしているということです。その前提として、この世は暗いということがあります。この暗さは、神の義を失った暗さ、愛のない暗さ、いのちを失った暗さ、そうしたすべてが入るのだろうし、それは神から離れて生きている暗さと言うことができます。はたして光の役目とは何でしょうか。光にも殺菌効果があるのですが、しかし、世界の光、世の光というとき、照らす、輝くという特徴に主眼が置かれています。光は暗闇を照らし出し、神を指し示す働きをするのです。主イエスは、塩が塩気を失ったら意味をなさないように、光が隠れてしまったら意味をなさないと語っているのです。「山の上にある町は、隠れることができない」。山の上にある町はどこからでもよく見えます。視界を遮るものはない。ユダヤの町は石灰岩の上に建てられていて、日中は太陽の光を受けてかすかに輝いたと言います。そして夜になれば住民たちがランプに火を灯したので、町の周囲を照らしたのです。以前、ギリシャで、アテネの丘の上に建つパルテノン神殿を見学したことがありますが、まさに町のどこからでも見える輝く神殿の姿は印象的でした。まさに山の上にある町は逃げも隠れもできないばかりか、輝いて、周囲を照らしたのです。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。ランプは周囲全体を照らすために、燭台の上に置かれます。そのランプの光を隠すことができる升をかぶせて隠してしまうことは、全く意味をなさない行為です。
主イエスがここで伝えたいことは明らかです。この世の人たちの目に、キリスト者は光としてはっきり映る存在でなければならないということです。「地の塩」は、世の腐敗に警告を与え、それを止める働きを教えていますが、「世の光」の場合は、暗闇の世を照らし出し、神を指し示すというキリスト者の積極的な働きを教えています。光の役目は照らし、輝くことです。

光の子として歩む
今朝の御言葉の最後16節で、主イエスは次のように語ります。
16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
ここで主イエスは、具体的に世の光として輝くとはどういうことなのかを弟子たちや悩みを抱える多くの群衆に語っています。世の光として輝く最終目標が語られています。ここでは、世の光として輝くこととは、「立派な行い」をすることとされています。隠れたキリスト者ではなく、キリスト者として旗色鮮明にしても、それだけでは足りないと言われるのです。主イエスが弟子たちや、救いを求める人たち、そして主イエスの弟子とされた私たちに求めている立派な行いとは何でしょうか。今朝の旧約聖書の御言葉は、イザヤ書2章1節から5節を読みました。預言者イザヤの時代は、めいめいが勝手に生きていた時代でした。戦いの時代、争いの時代でした。そしてまた、主イエスの時代もそうでした。闇は深く、律法学者、ファリサイ派は律法解釈を誤り、人の罪を助長していました。そして今の時代もまた闇が深いのです。戦いは止まず、心の荒廃は深く、自分勝手に、悪を善、善を悪、闇を光、光を闇としてしまっている時代であるのです。イザヤが幻で見た平和の実現が切実に求められているのです。
1節に「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと」とありますが、ここには終わりの日の平和の幻をイザヤが見たことが記されています。4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」5節「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。今朝の説教題は「光の子として歩む」と付けました。主イエスが、全く力なく頼りない、弟子たち、苦しみ多く救いを求める貧しき人々、そして主に頼るしかない私たちキリスト者に求めている「立派な行い」とは、平和を求める小さな行動、悲しみに寄り添うこと、共感することではないか。
主イエスの価値観は普通ではありません。あらゆることで逆説的です。なぜ、病や痛みに苦しむ人々が地の塩であり、世の光なのか。明日の食事を心配しながら暮らしていたかもしれません。社会の白い目を気にしながら、ひっそりと暮らしていたかもしれない人々を、そのまま地の塩であり、世の光だというのです。私たちは自ら光輝くのではありません。キリストが光の光源です。私たちはその反映にすぎません。キリストを離れては何一つ出来ないのです。私たちは、人々が神を信じていることを願うのです。私たちは、家庭にあって、職場にあって、地域社会にあって、神の御名が信じられ、あがめられることを心から願い、主の光を反映させるものでありたいと願うのです。 祈ります。

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