8/6説教「よい隣人とは」

はじめに
大磯教会が所属している日本基督教団が発行している「教団新報」(The Kyodan Times)という広報新聞があります。隔週土曜日発行という新聞の最新版、7月29日号に、「2023年度の新任教師オリエンテーション」という記事が載っていました。いつもサラーとしか読まないのですが、この新任教師オリエンテーションについては私もお世話になったし、楽しい思い出があるので詳しく読みました。三日間の泊まり込みで新任の牧師の卵がいろいろな講師の話しを聞き、ゲームもあったりで、4つの神学校の出身者や独学で神学教師試験に合格した人や、教団以外の他の教派から転入した方々が、年齢も20代から70代までと幅広いのですが、共に三日間、同じ釜の飯を食べて交流をするという貴重な機会です。そのプログラムの中で、牧会講話という時間があります。「教団新報」によると、今年は上林順一郎という隠退教師が牧師としての人生を振り返って新任教師に語っているのです。インターネットのウェブで調べてみると、上林順一郎牧師は、大阪生まれて、早稲田教会や浪花教会などを歴任され、ちょっと読んで見たくなるような題の本もいくつも書いておられる牧師です(『引き算で生きてみませんか』YMCA出版、『人生いつも迷い道』コイノニア出版、『なみだ流したその後で』キリスト新聞社)。そこで上林順一郎牧師が語られた講話の内容が短い記事で載っていましたので紹介します。
神学校時代は60年安保の嵐が吹き荒れ「このままでよいのか」と悩みながら牧師になっていったという。ある教会では学生運動の余波で分裂状態となり、一方のグループが教会を去ってしまった。そこで問われたのは「自分は去って行った人たちのために祈っているか」ということであった。また、酔った状態で礼拝に来た人に退席してもらったことがあった。なぜ「そこに座ってていいよ」と言えなかったのかと悔やんだ。上林牧師はこうした経験を通して「キリストと共に死んで行く牧師になりたいと思うようになった」と述べた。
そのような記事でした。確かに学生運動盛んな時、私が青年時代、私の母教会でも青年の一部が中心になり教会の玄関にバリケードを作りそうになりましたが、長老の説得で解除したことを思い出しました。しかし、私が注目したのは後半のことです。上林牧師は「酔った状態で礼拝に来た人に退席してもらった」ということが、恐らくいつまでも自分の心に残っていたのだなと思いました。80歳過ぎても、牧師としてその行為が悔やまれたのだと思います。牧師であっても、また、教会に何年通っていても、律法学者と同じなのではないか。人を赦せないのです。主イエスのようには、苦しんでいる人を受け入れられないのです。愛せないのです。
さて、今朝の説教題は「善い隣人とは」という題です。早速、ルカによる福音書10章25節から37節の「善いサマリヤ人」のたとえから御言葉の恵みに与りたいと思います。

私の隣人とは誰ですか
「善きサマリヤ人」のたとえ話はクリスチャンであれば誰でも知っている有名な話です。このたとえがなされた背景は、ある律法学者が、主イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねたことにあります。永遠の命とは、神の前に罪赦され、神と共に歩む新しい命のことです。それは死によっても断ち切られることのない永遠なる神との交わり、と言うことができます。主イエスが「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」とこの律法学者に尋ねると、彼は、神を愛し、隣人を愛するとの律法を守ることにより永遠の命を得ることができると胸を張って答えました。主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」と言われました。この律法学者は、こう主イエスに迫られ、いかに自分がその神の戒めを実行しているかを示そうとし、「では、わたしの隣人とはだれですか」と主イエスに尋ねたのです。彼は、隣人を同胞のユダヤ人と考えたので、その隣人を愛していると言いたかったのでしょう。主イエスは、隣人を愛することができると自らを誇っていた彼に、善きサマリヤ人のたとえ話をされたのです。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。決して互いに交わることなどない関係でした。ユダヤ人は、サマリヤ人を混血民とさげすんでいました。しかし、そのサマリヤ人が、追いはぎに襲われたユダヤ人を助けたのです。
ところで、律法学者は、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。彼が主イエスに問いただしたかったのは、「誰がわたしの隣人か」という点でした。主イエスは当時の人々から「罪人」だと思われるような人たちとばかり付き合っていました。今の教会で言えば、牧師が世間から相手にされない人や前科者ばかりを呼んできて、教会がそういう人たちでいっぱいになってしまうというような状況です。教会にいる敬虔な信者さんは「牧師先生、こんなに世間から白い目で見られている人ばかりを教会に連れて来られても困ります。教会の評判が落ちてしまうではないですか」と苦情を言うかもしれません。律法学者も主イエスに同じような思いを抱いていました。神の民であるユダヤ人の中でも、売春婦や、ローマの手先となって働く売国奴の徴税人、そんな連中とばかり親しく付き合う主イエスは、イスラエルの清さを損なう危険な行動をしていると見ていたのです。そこで、この点では自分の方が正しいと主張しようと、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、律法学者は主イエスに尋ねたのです。わたしにもあなたのように、売春婦や徴税人ばかりと付き合え、彼らと隣人として親しく付き合いなさいというのですか、と。

善きサマリヤ人の話
そこで主イエスは「善きサマリヤ人」のたとえを話し始めるのです。それは「あなたの隣人とはいったい誰なのか」ということを律法学者に示すためでした。この「善きサマリヤ人」の話しは一度聞いたら忘れないようなインパクトを持っています。それはこのサマリヤ人の行動が、普通の人にはとてもまねのできない、人類愛の理想のような行動であるように思えるからでしょう。それに引き替え、半殺しにあった人を見て見ぬふりをする祭司とレビ人のなんと冷たいことか、宗教家のくせに、人助けをしないとは、なんという人たちだ、と義憤すら感じることもあるでしょう。見て見ぬふりをするとか、冷たい態度と言う時に、先日、NHKの番組で「チコちゃんは知っている」という番組で、「都会の人は田舎の人とくらべて、何故冷たいと言われるのか」という質問をチコちゃんがしていました。何でだろうと思ったら、専門家の答えは「都会の人は情報が多すぎるからだ」ということでした。都会は情報が溢れていて皆、疲れているから、道を尋ねても、「まっすぐ行って左」とか、短くしか話さない。余分なことは話さない。電車に乗っていても皆、寝たふりをしていたり、皆必要以上のことを話さないのが冷たく思えるのだ、ということらしい。なるべく関わり合うのを避けるのです。誰かが道に倒れて困っていても、大勢いるので誰かが助けるだろうと、自分は避けてしまう。土地柄もあるので、あるいは大阪は違うかもしれません。
この善きサマリヤ人の話に戻りますが、祭司とレビ人は偽善者の宗教家、ユダヤ教の悪い見本で、善いサマリヤ人は愛に溢れる素晴らしいクリスチャンの模範だ、という読み方は的を外した読み方です。この話の時代背景や、旧約聖書の教えをよくよく考えると、祭司やレビ人は間違ったことをしていた、とは必ずしもいえないのです。祭司やレビ人も困った同胞のユダヤ人を何とか助けてやりたいと思ったに違いないのです。しかし、この半殺しに遭った人がもう死んでしまったら、その人に触れただけで祭司は汚れた存在になってしまうのです。死にかけている人を見た祭司も、気の毒に思いつつも自らの神へのお務めを果たすために、やむなく彼を避けて通ったのです。レビ人もそうです。
もうろうとした状態で祭司やレビ人が通り過ぎているのを見ていたユダヤ人が次に目にしたのは、なんとサマリヤ人でした。サマリヤ人は隣人どころか敵でした。しかし、驚いたことに、このサマリヤ人はそのユダヤ人を見殺しにすることなく、それどころか、親身になって介抱したのです。宿屋に連れて行って寝かせてくれ、宿屋の主人にお金を託し、もっと費用がかかれば帰りがけにお金を払うとまで言っているのです。このサマリヤ人もユダヤ人が大嫌いであったかもしれません。口もききたくないと思っていたかもしれません。しかし、そのような思いがあっても、今目の前にいる人の苦境を救いたいと言う気持ちが止められなかったのです。どんなに憎くても目の前にいる人の苦しみを見過ごせなかったのです。そこでこのサマリヤ人は、憎しみを乗り越えて、彼を助けると言う行動を選んだのです。今、私たちは世界中で民族の壁、憎しみの壁を打ち破れない現実を見ています。ウクライナでも、パレスチナでも東アジアでも、アフリカでも民族の壁、憎しみの壁を打ち破れません。このサマリヤ人の行動は、民族の壁を打ち破りました。そして主イエスは、私たちがそのような行動を選ぶことを望んでおられるのです。

善きサマリヤ人は主イエス
33節に、「ところが、旅をしていたサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」とあります。この「憐れに思い」と訳されている言葉は、同じルカ福音書の15章に記されている「放蕩息子」の物語においては、放蕩して帰って来る息子の姿を見て父が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」という文章で「憐れに思い」と訳されているのと同じ言葉です。別の翻訳の言葉で言うと「はらわたが痛む」と言う意味の言葉です。自分の腹が痛み、あるいは胸が痛むほどの同情ということです。傷ついた人の姿が目に入った時、たちまち自分の胸が痛む、体が痛む。だから通りすぎることができなくなる。そして、注目すべき事に、この憐れみを語る言葉を、福音書は、人間のこころの動きを表わすために用いてはいないのです。常に主イエスの御心を表わすたとえ話の主人公の心の動きを表わす場合にのみ用いているのです。このことから、このサマリヤ人は主イエス・キリストその人であると語り継がれているのです。
主イエスはなぜ地上に来てくださったのか。私たち人間の傷ついた姿を見て、神が気の毒に思ってくださったのです。神の御心が痛んだのです。主イエスはそのようにして来てくださいました。そして、地上にある間、主の御心も、その体も憐れみのゆえに痛み続け。遂に十字架の上で死なれたのです。私たちは自己弁護を繰り返し愛の傷を深くするばかりの人間です。しかもその傷の大きさにも気づいていない人間です。その傷の大きさをただ一人知っていてくださったのは主イエスです。そして私たちの隣人になってくださいました。このサマリヤ人は、主イエス・キリストであるとの信仰の告白は、自然なことです。そして、それがよく分かった時に、私たちは初めて、自分自身もこのサマリヤ人の心に生きる事ができるようになるのです。

主イエスが伝えていること
主イエスは、律法学者にこう伝えたかったのです。あなたは、わたしが罪人ばかりと付き合うことを不審に思ったかもしれない。しかし、彼らは助けを求めているのです。わたしは彼らを助けたいし、彼らの隣人になりたいのだ。あなたにもそうなってもらいたい。壁を壊し、敵ですら隣人とするような行動を選び取ってもらいたい。誰を自分の隣人にするのか、それはあなたの選択にかかっている。あなたが隣人と思わないような人たちも、あなたの隣人になり得るのです。あなたもサマリヤ人のように行動しなさい。霊的に死にかけている人たちのところに行って、彼らの隣人になりなさい。彼らもあなたの隣人になってくれるでしょう。主イエスはこのように言いたかったのです。そして、「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)という主イエスのお言葉は、私たちにも与えられているのです。主イエスは、永遠のいのちへ至る道として、「隣人を愛する」という教えを実践しなさい、と言われました。そして、隣人とは自分の周りにいる似たような人たち、気の合う人たちのことだけではなく、自分から積極的に作るものだ。敵すらも隣人に変えることができるのだと教えて下さいました。私たちのできることをしていきたいと思います。 祈ります。

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