9/3説教「救いに導く知恵」

パウロからテモテへ
さて、このテモテへの手紙は、使徒パウロから、共に伝道に励んだ仲間であるテモテへ、1章の最初の挨拶の言葉によれば、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ」と、パウロは親愛の思いを込めて書いています。このテモテへの手紙(二)は,パウロが二度目の獄中生活の間、そして殉教の直前に書いたものであると言われます。ここにはパウロの最後の言葉が書かれ,死に立ち向かうパウロの勇気と主キリストへの信頼が示されているのです。
10節ですが、パウロはテモテにこう言っています。
「あなたは、わたしの教え、行動、意図」について、いつもそばにいてよく見て来ただろうと言うのです。そして引き続き語る4つの言葉、「信仰、寛容、愛、忍耐」という言葉が出て来ます。これはキリスト者としての徳はこれだ、と言っているのでしょう。信仰と寛容と愛と忍耐だと言うのです。パウロはテモテが、寛容で、愛をもって忍耐したと語っています。そして、第1次伝道旅行で行った、小アジアの内陸都市、アンティオキア、イコニオン、リストラでパウロに降りかかってきた迫害と苦難について、その体験をテモテに語ってきたに違いないのです。
迫害に耐えて主キリストのために生きる使徒パウロの生き方を、テモテも学び取っていたということでしょう。主イエス・キリストの真理に生きると当然そこに生まれてくる、迫害や苦難をいとわない生き方をすることだ、とパウロは言うのです。
ここに出てくる地名は小アジアの町です。現在のトルコになります。これはおそらくこの手紙をもらったテモテが、伝道の場所として、パウロの後を受けてこれらの小アジアの教会の牧師をしていたであろうと思われる町々です。パウロよりはるかに若いテモテが、アンティオキア、イコニオン、リストラの各地の教会で働いている時に、そこで何よりもはっきりと思い起こしたのは、この地を初めて伝道し、福音の説教を初めて宣べ伝えた師匠とも言えるパウロ、そしてパウロの仲間たち、そして若かったテモテもその一人でした。彼らがどんなに苦しみ、迫害にさらされたかということを思うのです。
パウロは、この手紙をテモテに書いたときは、パウロは獄中にあり、自分の伝道者としての最後をあるいは予感していたかもしれません。パウロは自分の歩んで来た生涯をふり返り、「何というひどい迫害に私は耐えて来たことか。」と思わず感慨の思いを語ったのでしょう。しかし、それは、自分の力ではない、「主がそのすべてからわたしを救いだしてくださった」と言っているのです。
パウロは、今、自らの生涯をふり返って、一つの結論に達したのです。それは、確かに「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける」という事実です。しかし、このことは、なにもパウロが晩年になり、獄中にあり、死の不安の中で気付いたことではないということに気が付きます。既に、第1次伝道旅行の際、語っているのです、ちなみに、使徒言行録14章21節、22節にこう記されています。新約聖書242頁ですが、
21「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、22弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国へ入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」と語っているのです。

迫害の歴史
ところで、数年前、長崎、熊本の隠れキリシタンの遺跡群が世界遺産に登録されましたが、私はそれ以前に、興味があったので、長崎の大浦天主堂、平戸、そして高速船にのって2時間ぐらいかかる五島列島、そして天草を回ってきたことがあります。今は観光資源として活用されるいい時代ですが、150年前はキリスト者であることは大変なことで、死と隣り合わせであり、まさに迫害があったわけです。そのことが実感として分かりました。
もっと身近なところで、エリザベス・サンダースホームにある澤田美紀記念館には澤田美紀姉が生涯に集めた貴重な隠れキリシタンの遺物が展示されています。見つかれば捕らえられ拷問を受ける状況の中で、様々な工夫を施してキリスト像やマリア像を信仰の証として守り抜いた、その信仰というよりも,執念のようなものさえ感じます。
パウロは、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と12節で言っていますが、迫害ということでは、もちろんキリスト者だけではありません。他の宗教も少数民族も迫害を受けています。
もう5~6年前になりますが、初めてドイツ旅行をしました。ドイツのフランクフルトにあるユダヤ人街記念館とユダヤ人墓地を見学しましたが、墓地の周囲を囲んでいるかなり長いレンガ塀にはそのユダヤ人街でナチスに殺されたユダヤ人の名前を書いた無数のプレートが埋め込まれていました。宗教対立だけでなく、偏見、民族差別は繰り返されています。
パウロは、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける」と言っています。迫害をどう語るかは、私たちの課題かもしれません。今は、暴力的な迫害は身の回りには無いかもしれませんが、世界には様々な迫害があります。人々や社会の無理解や偏見からくるものが、あるいは、おだやかな迫害として理解され得るかもしれないのです。そして戦争の狂気の中で暴力的迫害が行われます。
政教分離の社会にある日本では、現在、キリスト者はあえて、迫害を求める必要はないし、迫害から免れることを赦されているなら、感謝すべきであります。しかし、迫害の真の意味を知らないキリスト者と教会は、不信と不義に満ちたこの世界で、深い緊張関係を保ちつつ生きているかどうか、あらためて問う必要があるのではないでしょうか。今の日本の政治状況、そして日本の教会はどうなのでしょうか。

苦しんだから今は迷わない
今朝、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、詩編119編65節から72節までです。旧約聖書の962頁です。この御言葉から学びたいと思いますが、この詩編119編は、この詩編の詩人は、全体として律法について歌っており、律法に歩み、それを守り行う者の幸いをこの詩人は歌っています。そして、この箇所で注目するところは、67節です。
「わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。」
この67節の解釈として、旧約学者である浅野順一氏は、その著書『詩篇』の中で、これを原文に忠実に訳せば、文語訳的に言うと「我苦しまざる前には我は誤る者なりき、されど今は汝のみ言を守る」となると言っています。つまり、この詩人は、「迷い出て、ついに卑しめられた」と語っています。この詩人は迫害され、みじめになる前は、すなわち彼が幸運であり、平安である間は誤りの罪を犯す者であった、そのため彼はしばしばこの世の迷路に迷う者であった。しかし、今は神の御言すなわちそのおきてを守る者となった。そのように言っています。「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります」と言っているのです。印象深い言葉です。この詩人は、今は自信をもって告白しているが、かつてはそうではなく、迷いに迷ったというのです。この詩人は苦しんだから今の自分があるのだと言うのです。やっと迷いから救い出されたと言っているのです。私たちは苦しみによって迷ってしまうと考え、苦しみは迷いの解決にならないと考えがちですが、この詩人は違います。わたしが迷ったのは苦しまなかったからだといっているのです。この詩人は、今は幸か不幸か大いに苦しんだので、今は迷いを吹っ切りました。と言っているのです。

体験が聖書の理解を促す
聖書は旧約も新約も、究極的には信仰の書ですから、学問や頭だけの理解では決して分からないところがあります。そこには、自らの体験が関わってきます。内村鑑三のよく知られた言葉に、聖書に関する最も良い注解書は体験であるという言葉があります。体験ほど聖書をわかるようにしてくれるものはないという意味です。注解書は参考になる程度だというわけです。むしろ、ひとりひとりが人生で体験することこそ、聖書を本当によく理解させてくれるのです。67節と非常に似た言葉が71節です。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」

聖書は救いに導く知恵を与える
テモテへの手紙(二)3章10節から17節に戻りますが、パウロは、テモテに対して、イエス・キリストに結ばれて敬虔な生活をする人には迫害がつきものであると語るのですが、そして3章前半でパウロがいろいろと忠告しているような悪人や詐欺師が、ますます、悪に落ちて行くのに対して、「あなたは、自分が学んで確信したこと」にとどまるようにとテモテに勧めるのです。
そして、14節、15節で、次のように語ります。
「14だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、15また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」
パウロはテモテに「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてなりません」と語っています。テモテは幼い時から聖書の教育を受けてきた人物です。そして、その学びは、一方では両親やパウロを通してであり、他方では聖書を通してであったというのです。ここでの聖書は、旧約聖書のことですが、パウロは聖書の目的は、キリストへの信仰を通して救いを受けさせることにあると言うのです。そして「救い」とは、罪の赦しと永遠のいのちが与えられることなのです。
神が人間に聖書を与えられました。旧約聖書も新約聖書もどちらをも含めて、神が聖書をお与えになった理由は、人間に救いを受けさせること。これ以上でもこれ以下でもないのです。ところで、日本人の多くは、聖書を持っていると言われますが、半分でも読んだ人は極めて少ないでしょう。キリスト者である私たちも、そんなに聖書を読んでいないのです。ひたすら聖書を読まなくてはなりません。しかし、私たちは礼拝毎に聖書を読む幸せに浴しているわけで、これはマルチン・ルターに始まる宗教改革のおかげであるといわざるを得ません。宗教改革以前は自国語で聖書を読めなかったのです。生活にこれほど密接に聖書がキリスト者にとって身近なものになった。有り難い事です。大切な宝があたえられたようなものです。
『氷点』の著者、三浦綾子姉は「聖書を読むために、何よりも大切なことは、自分の生きざまを引っ提げて読むことである」と書いています。まさに、聖書の目的は、人々に罪の赦しと永遠のいのちが与えられることであるので、私たちも人生を懸けて読む気概が必要なのです。
聖書は、新約聖書も、旧約聖書も、私たち人間が、いかに罪深く、いい加減な罪人であるかを教えてくれます。そしてそのような罪人をも愛して下さり、キリストの御支配へと導いていただけるのです。まさに、私たちを救いに導く知恵に満ちた書物です。聖霊の導きの下に書かれた書物であり、神の支配する世界へ私たちを導く唯一のテキストなのです。

真っ直ぐな心で読めば聖霊が働く
ゲオルク・プラスガーというドイツの神学者が書いた『ハイデルベルク信仰問答との対話』(2019年教文館発行)という本に、「頭だけで聖書を読むより重要なこと」という文章がありますが、このように言っています。
聖書の中で重要な主題となっていることは、まさに神が私たちに身を向けることと私たちが神
に背を向けることという、この対立するものの関連づけである。・・そのことをみんながすぐ理解するという状況ではない、人は「喜びの知らせ」としての福音を聞くことなしに、聖書を読むことができる。福音を括弧に入れて、どのような読解の技術をもって「より多くの意味」をテキストから引き出すことができるかを考量することもできるだろう。しかしそうした人間の能力を過大評価しないということが、この問答書の解釈の取る立場である。ハイデルベルク信仰問答の解釈によれば、聖書において本当に重要な事柄の実存的な意味を理解するためには、聖書を信じつつ読むことが必要なのである。・・信仰は理性を放棄することではないということである。信じつつ聖書を読むということは、聖書の中の記述を何でも丸ごと起った事実の報告として理解することを意味しない。そうではなく、信じつつ聖書を読むことは次のことを意味する。すなわち、もし聖霊において神から贈られた信仰がないなら、福音が実際に人間に対する神の慈愛であるという事実への信頼も存在しないということである。・・だから信仰において聖書を読むことは、聖書を、まさに今神について語っている文書として読むことを意味する。

聖書はすべて神の霊感によるもの言います。その意味は、聖書は神の霊の息吹によって書かれたということです。聖書は40人の著者たちによって、約1600年の歳月をかけて書かれましたが、その内容を見ると統一性があり、全体が見事に調和していることが分かります。聖書は40人の著者たちによって書かれましたが、真の著者は神御自身であって、神がそれぞれに聖霊によって語りかけ、聖霊は神の人を用いて神の御言葉を書かせたので、そこには統一性や一貫性があるのです。私たちが、真っ直ぐな心で聖書を読むなら、そこに驚くべきことが起こります。他のどんな本にもない救いの知恵がその中にあるからです。 祈ります。

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