9/10説教「気を落とさずに絶えず祈る」

はじめに
今朝の説教のテーマは「祈りについて」です。昨年度の大磯教会の年間テーマは「祈りは神との対話である」ということで、祈りの聖句を取り上げ何回か説教を行いました。今年度の年間テーマは「何を信じるか~信仰告白を学ぶ」ということですが、有名な「ハイデルベルク信仰問答」においても、その最後の箇所、第3部 「感謝について」の最後に「祈りについて」の箇所があります。その問116問は次のようです。
問116 なぜキリスト者にとって祈りが必要なのですか。
答   なぜなら、祈りは感謝の最も重要な形態であり、神が私たちに祈りを求めておられるからです。そしてただ神を心からたゆみなく祈り求め、神に感謝する人にだけ、神はその恵みと聖霊を与えようとしておられるからです。
私たちが抱く祈りについての問の一つは、「神はそもそも、私たちが祈ることを必要としておられるのだろうか」ということです。「私たちは神に願い求めていることを実際に知ってもらうために、それを神に言わなければならないのだろうか。神は私たちの考えを読み取ることもできるのではないだろうか。もしそうなら、特別の行為としての祈りは余計なものになるのではないか」ということです。これに対して、先週の説教でも紹介したゲオルク・プラスガーというドイツ、ジーゲン大学教授の著書『ハイデルベルク信仰問答との対話』(2019年・教文館)は、次のように言っています。
「そう問う者は二つの明確な前提を設けたことになる。一つには、祈りが神に向けた情報提供として理解されている。(つまり祈ることで神に情報をお伝えする必要があるということか。)もう一つには、祈りは祈っている当事者にも重要なものではないかどうかが考慮されていない。いやそれ以上にこの問いは、神はすべてをあらかじめご存じではないのかと言って、神に難癖をつけていることを示している。」
と言っています。そして更に、
「この前提は本当に的確だろうか。あるいはそれは、神であるならすべてを知っていなければならないと言い張る神のイメージに起因するのではないだろうか。
またもう一つ別の問いも投げかけられる。『私たちは神のご計画を私たちの祈りによって変えられるだろうか』と。この問いも一つの前提を示している。なぜならそれは、神であれば、世界の出来事全体がそれに従って経過していくような、確定した計画を持っているはずだという前提から出発しているからである。しかしそれは神の行動について聖書の使信が証言していることには即していない。すなわち神は自ら意向を変える方である。」
つまりプラスガー教授がいっていることは、神は人格的な神だということです。神が非人格的であれば、いくらしつこく、忍耐強く祈っても駄目です。神が人格的なお方だからこそ、忍耐強く祈ることが出来ると言っています。ユダヤ人ではないフェニキアの女が娘の癒しを主イエスに願い、主イエスは、女の一途な振る舞いを見た後、彼女の願いを聞き入れています(マルコ7:24~30)。また、今朝の新約聖書に語る「やもめと裁判官」のたとえで、やもめの熱心さに動かされた裁判官を、主イエスは神に譬えていますが、これらは神が人格的な神であることを示しています。
さて、今朝はまず、旧約聖書、詩編88編の詩人が語る祈りから御言葉の恵みに与りましょう。この詩編の詩人は、人格神である神に祈っているのですが、神は何も答えてくださらないのです。こういう祈りもあるのです。

詩編88篇の祈り
聖書にはたくさんの祈りの言葉が記されていますが、なんと言っても詩編があげられるでしょう。詩編は祈りの宝庫です。詩編は一篇ごとに一つの祈りになっています。今朝、私たちに与えられた詩編88篇も祈りの詩編です。この詩編の祈りの人は、随分大きな苦悩の中に置かれていたようです。
詩編88篇は、詩編の中で最も悲哀に満ちた詩であり、救いがたい苦悶の詩編と言われます。普通は、嘆きの詩編にであっても、一般的には、祈りの応答への確信と神への感謝を歌って終わるのですが、この詩編88篇は、最後まで苦悶が続き暗く希望が示されていません。詩人の苦しみは和らげられることはなく、彼は死を予期するに至るのです。ある人々は、この詩編は「ハッピー・エンド」の部分が失われてしまったのだろうとも言っています。
この詩篇は、まず、絶え間ない神への訴えから始まっています。2節、3節をお読みします。
主よ、わたしを救ってくださる神よ、
昼は助けを求めて叫び、
夜も御前におります。 (2節)
わたしの祈りが御もとに届きますように。
わたしの声に耳を傾けてください。 (3節)
この詩人は、最後まで苦しみは和らげられていないのですが、彼の抱えている苦難も神の御手の中にあることだけは確信されているのです。彼の苦難は何であるのか。バビロン捕囚の間のイスラエルの民の絶望的な感情を表現したものなのか。あるいは若い頃から病苦に悩まされた一個人の祈りであると考えるのか、この詩人は希望のない全くの孤独の苦しみにあります。いずれにせよ、このような詩が『詩編』の中に編集されている事実は驚きに値します。しかし、本詩が詩編に組み込まれており、その中に位置をしめている意味は何なのでしょう。詩人は、イスラエルの神に従う人々全体に警告を与え、彼らがいつの日にか救いのない苦悩という、測り知れない状況に立ち向かうことになるかも知れないと戒めているのです。また、しかし、ある意味の希望も与えています。本詩編の苦しみに匹敵する体験をしている人に対して、彼以前にもそのような苦しみをなめた人がいたということを思い起こさせる意味での希望です。9節、10節をお読みします。
9あなたはわたしから 親しい者を遠ざけられました。
彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。
わたしは閉じ込められて、出られません。
10苦悩に目は衰え 来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び
あなたに向かって手を広げています。
果たして、9節、10節の言葉にある詩人の苦難とは何なのでしょうか。ほんとのことは分かりませんが、その苦難が神ご自身によってもたらされたものであると、彼は主張するのです。彼の眼は老齢のために衰え、かすんでいるのかもしれませんが、その原因は苦悩によると言うのです。身体的な機能の低下というよりも、原因は苦悶によると詩人は言うのです。「わたしは忌むべき者」とは何を意味しているのでしょうか。この詩人は罪を告白することも無く、また無実を訴えるわけでもありません。ヨブのように友人にも捨てられ、詩人は孤独の中にいます。
ところで、北森嘉蔵(きたもり かぞう)牧師の『詩篇講話』下巻の中で、北森牧師がこの詩編の解説の中で次のように書かれていることは興味深いことです。
「詩篇の特色、人間の生活の中で、すべての書物が間に合わなくなったときに、間に合ってくれる書物が詩篇だという消息がよくわかる所です。ここに書かれているような状況にわたしたちが置かれると、全く孤立無援というふうな気がいたします。独りぼっちという気がするのです。
そういうわたしたちにこの詩篇の作者が、どういう役割をしてくれるかというと、わたしに先立って、わたし以上に苦しんでくれた人が、じっとそばにいてくれるということです。だからこの言葉そのものは何ら解決を与えてくれませんけれども、じっとそばにいてくれるだけで、わたしたちは孤独でなくなるのです。いわゆる同伴者がいてくれるということになるわけです。」
神が答えてくれず、解決策を示してくれなくても、詩編88編の詩人もまた、神が人格的なお方であることをよく知っています。だから、苦難の中でも忍耐強く祈っているのです。

やもめと裁判官
さて、今朝、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、主イエスがお語りくださったたとえ話が記されています。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と記されています。裁判官は法に違反し、犯罪を犯した者を裁くという、大変な権力を持っています。この裁判官は、人を人とも思わず、神を神とも思わなかったとあります。6節では「不正な裁判官」と言われています。傲慢になっていたのでしょうか。そこへ、一人のやもめが、この裁判官のところへ来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言ったというのです。しかも、何度も何度も来たというのです。やもめというのは、当時のユダヤ社会では、社会的な地位が低く、あるいは無力な存在でした。このたとえの中のやもめは、何か深刻な問題を抱えていたのでしょう。誰かとのトラブルがあり、大きな不利益を被っていたのでしょうか。もしかすると、夫が残してくれた家が、借金の担保になっていて、家が取られそうだったのかもしれません。卑劣な要求をされていたのかもしれません。命の危険があったのかもしれません。その理由は分かりませんが、やもめは足しげく、ひっきりなしに、この裁判官のところにやってきて、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と頼んだと言うのです。現在とは制度が違いますから、神殿で行う調停制度のようなものであったかもしれません。この裁判官は、自他共に認める悪い裁判官ですが、最初は取り合おうとしなかったのですが、このやもめが、あまりにもしつこく、足しげくやってくるので、うるさくて仕方がないのです。やもめは必死でした。そこで裁判をしてあげることにしたというのです。そこで、主イエスは言いました。神を畏れず、人を人とも思わないこの裁判官でも、熱心な願いには負けるものだ。まして、神は、選ばれた民であるあなたがたのために、正しい裁きを行わずに、放って置くはずはないではないか。と言われたというのです。つまり6節以下の主イエスの解説によれば、この裁判官は神に譬えられているのです。しつこい位に神に祈り求めるならば、神は答えてくださると言っているのです。
このやもめはなぜ裁判官を動かすことができたのか。それはこのやもめのしつこさゆえにであります。言い換えると、やもめが忍耐していたからです。もし、やもめに忍耐力がなかったとすれば、すぐにあきらめてしまって、事態は何も変わらなかったでしょう。しかしやもめが忍耐強く、毎日のように裁判官のところに行き続け、訴え続けたからこそ、裁判官を動かすことができたのです。
主イエスがこのたとえ話を語られた目的は、私たちに忍耐することを教えるためです。それも忍耐強く祈るためであります。1節にこうあります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と。主イエスは、祈りには忍耐強さが必要であると言われます。神に向かって何度もしつこいくらい祈れと言われるのです。

気を落とさずに絶えず
主イエスは、このやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ておられるのです。ここでは「気を落とさずに」という言葉が大切です。私たちは、祈りにおいて、気を落としてしまうことがあります。それは、祈っても自分を取り巻く目に見える現実がいっこうに変わらないという経験の中で起こることです。私たちを取り巻くこの世の現実はまことに厳しいものであり、祈ってもその現実がどうなるものでもない、と感じることがしばしばです。目に見える現実の重さ、その圧倒的な存在感に、私たちの祈り、神に願いを求める心が押しつぶされ、信仰そのものが萎えてしまいそうになるのです。私たちが置かれているそのような状況を主イエスは、神を恐れず人を人とも思わない裁判官の下にいるやもめの姿によって描いておられます。
このやもめは、自分の正当な権利を守ってくれるようにと、必死に裁判官に訴え出ています。今、彼女の訴えは無視され、取り合ってもらえないのです。それはまさに気落ちさせられずにはおれないような現実です。もう訴えても駄目だ、どうせ相手にしてもらえない、とあきらめてしまっても不思議ではない事態です。私たちは皆、それぞれ事柄は違っても、そういう現実の中を生きているのではないでしょうか。しかし、このやもめは、そのような現実の中で、気を落とさずに絶えず求め続けたのです。

フォーサイスの『祈りの精神』
イギリスの神学者でフォーサイスという人は、有名な『祈りの精神』の中で、「祈りは、実際に神の意志を変えることは出来ないが、意向を変えることは出来る」と言っています。神がイエス・キリストによって人間の罪を赦し、救い出すという意志は変えられない。しかし、その意志を達成するために、神は臨機応変に行動なさるとフォーサイスは言うのです。私たちは神に祈ることによって、神の意向は変えられるというのです。様々な対応の仕方があるのです。また、「祈りは戦い、どちらかが譲歩するまで続けられる合戦である」とも言っています。ともかく、粘り強い祈りを捧げることが、御心にかなうことであると強調しています。フォーサイスがこのように言うことができるのは、もちろん聖書に基づいていることです。特にフォーサイスが意識しているのが、今朝のやもめのたとえ話なのです。
今朝の箇所の最後の言葉は「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」という主イエスの気になる言葉です。これは、疑い深い目で私たちの信仰を問うておられるのではないのです。むしろ、これは主イエスの信仰への招きの言葉です。あなたがたの中にも、わたしは信仰を見出すことが出来ると言ってくださるのです。わたしを忍耐強く待ったらよい。あなたの中にもわたしは信仰を見出すことができる。その信仰を見出すために、わたしはすぐに来る。そう言われているのです。お祈り致します。

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