9/17説教「信仰による大転換」

はじめに
残暑というにはまだ暑すぎる日々が続いていますが、その中で私の家族はこの二週間、コロナに感染し、体温が高く暑く汗だくの日々を過ごしていました。始めに息子が感染し、次に妻が感染し、最後に私が感染したわけです。コロナの分類も二類相当に下がりそれほど恐くない存在になっていましたが、私も38度6分ぐらいまで上がり、何もやる気がなくなりました。ようやくコロナの第9波も収まりつつあるようですが、インフルエンザも流行っているようですから、皆さんも気を付けてください。かかってしまったら休養しましょう。では、早速、今朝の御言葉の恵みにあずかりましょう。

私の内なるものは御名をたたえる
今朝私たちに与えられた旧約聖書の御言葉は、詩編103篇1節から13節です。1節、2節はこうです。
1わたしの魂よ、主をたたえよ。/わたしの内にあるものはこぞって/ 聖なる御名をたたえよ。2わたしの魂よ、主をたたえよ。/主の御計らいを何一つ忘れてはならない。
この言葉にあるように、本詩は神への讃美と感謝を歌ったものです。矢内原忠雄氏の解説によると、「わたしの内にあるもの」とは、体の中のすべての器官、即ち五臓六腑のことだと説明しています。心臓とか腎臓とか大腸、小腸とか、各種の臓器にそれぞれ各種の感情が宿ると詩編の詩人の時代には考えられていたようです。したがって、体内のすべての器官などといえば、自分のすべての感情、すべての意思、すべての知性が、こぞって神の聖き御名をほめたたえよ、と歌っているのだと説明しています。確かに人間は頭でだけ考えているのではなく、一本の虫歯でも泣かされるのですから、体内のすべての臓器に感情が宿ると考えるのも不思議ではありません。本詩は高貴な、澄み渡った響きをもって神の恵みを歌い上げ、後世の人々に文学をも人生をも豊かにしてきた詩編の一つです。3節から5節をお読みします。
3主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
4命を墓から贖い出してくださる。/慈しみと憐れみの冠を授け
5長らえる限り良いものに満ちたらせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
この3節から5節の言葉から、詩編の詩人が激しい病から癒やされたことを示しています。詩人の魂に神の偉大さについての思いが圧倒的な力で押し寄せてきています。この詩人は死の直前の病から生還したのかもしれません。人間の目には暗黒としか見えない罪と病と死においてこそ、神の恵みは最も輝き、彼にとって人生はその光によって照らされたものとして写るのです。
そのことによって、人生全体が様変わりし、新しい励ましと力を得ること、そして、罪のゆえに神から遠く離れているならば、人生に成功はないことを詩人は知っているのです。神があらゆる咎、罪を赦してくださり、障害を取り除き、人生を新しい土台の上にすえて下さったという確信がこの詩人を突き動かしています。ここから、この詩人は鷲が翼を広げるように、力みなぎる新しい生命感が湧き上がることを歌っているのです。8節、9節をお読みします。
8主は憐れみ深く、恵みに富み/ 忍耐強く、慈しみは大きい。
9永久に責めることはなく/ とこしえに怒り続けられることはない。
詩人が自分の人生で体験したことは、今や彼自身の問題を超えて、神の本質と支配を理解することに昇華しています。神のとらえがたい偉大さを、人間の小さな尺度に合わせようとして、怒り、報復を考えるような人間の何と愚かなことか。神の怒りに怯え、不安の日々を送る人間の、何と小心なことか。自分の罪深さを知ることなくして、恵みを知ることはできないのです。正に罪は詩人の人生の最も衝撃的な事実であるゆえに、詩人は、恵みは罪よりも大きく、神の愛は神の怒りよりも強いことを認識するのです。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」(11節)のです。

信仰による義
さて、今朝の新約聖書の御言葉は、ローマの信徒への手紙の中でも、その中心的な箇所です。パウロの福音のメッセージを共に聞いていきたいと思います。
3章21節でパウロはこう言っています。
21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
と書かれています。パウロは、今や驚くべきことが起こったと言っているのです。「神の義」が人間の思いも及ばない仕方で、暗闇の中にいる人間を裁き滅ぼす仕方ではなしに、すべての人に与えられることになったと言っているのです。「ところが今や」とは、主イエス・キリストによって決定的な転換がなされたことを表しています。「今や」という言い方は、パウロが「今や、恵みの時、今こそ、救いの日と」コリントの信徒の手紙(二)6章2節で言うときの「今」と同じです。
神の恵みや救いがどんなに大きくすばらしいものであっても、そのまま埋もれたままでは、私たちの人生に何の関係もありません。それに気づき、信仰をもって受け止める時、私たちの人生に新しいことが始まるのです。救いはいつも「時」と関わっているのです。正に「今」なのです。「今が恵みの時」「今がその救いの日」なのです。福音書に徴税人ザーカイの話しが載っています。ザアカイは、「今日、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われた主イエスをその日の内に迎えたのです。
ところで、「神の義」というのは、神が、ご自分の義つまり正しさを、義ではない、つまり罪人である人間に与えて下さり、人間を義なる者、正しい者と見なしてくださる、つまり罪を赦して下さるということです。神の義を与えられて義なる者とされることが、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる救いなのです。その神の義がどのように与えられるのか、23節、24節にそれが語られています。
23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神の義つまり神の救いは、誰にでも自動的に与えられるのではありません。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」とあるように、私たちは皆、根本的に、神に背き逆らっている者たちです。神を敬い従うことを良しとせず、自分が主人になり、自分の思い通りに生きようとしています。その結果、神をも隣人をも愛することが出来なくなり、神とも隣人とも、良い関係を築くことが出来ずに破壊してしまうことばかりを繰り返してしまうのです。そのような罪人である私たちは、この世においても、死んだ後においても、神のみ前で喜びと平安の内に礼拝することなど本来できないのです。しかしそのような私たちが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と聖書は語っています。これこそが、聖書が語るキリスト教の救いの中心なのです。
何故、「神の義」は、イエス・キリストを信じるすべての人に、与えられるのか。そこには、何の差別もないのか。パウロは、それを説明して、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」。誰もが、自らの責任に於いて罪を犯してしまったから、差別はないというのです。罪人という点において皆同じなのです。そして、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(24節)。

ルターの神の義の理解
「神の義」といえば、改革者マルティン・ルターのことを思い起こさないわけにはいきません。ルターは、宗教改革の扉を開いた当時、30歳になっており、既に神学の教授になっておりました。彼は神学を教える人間でありながら、どうしても喜びをもって聖書を読み解くことができない悩みの中にあったのです。しかも、学生たちに毎日、聖書の講解をしなければいけない。このときルターがぶつかったのが、「福音には、神の義が啓示されています」(ローマ1:17)という言葉です。神の義、神の義しさとはなにか。当時のルターにとって、神の義しさとはさばきの義以外になかったのです。神の義しさの前では、どんなに自分が正しく生きても、耐えることができないのではないかという悲しみを覚えたのです。それどころか、ルターは、神の義という言葉が憎かったとさえ書いているのです。その神の義が福音の中になぜ現れてくるのかがわからず、途方にくれて、しかし、聖書から離れることができなかった、というのです。やがて、ルターは、神の義について自分たちが全く誤解していたのだ、ということに気が付いたというのです。彼は、この「義」は、「われわれが獲得する義ではなくて、恵みの神が、人間がただ受身で受けることができる義としてお与えになったものだということに気が付いたのです。受身の義だということです。私たちがつかまえる義ではない。神が私たちに与えて下さる、義である」ということが分かったと言うのです。この時、ルターは、まるで自分が生まれ変わって、門を通って天国の中に導き入れられたような気がするとまで書いているのです。ルターは更に、「神の義をこれまで私は深く憎んで来た。それだけに今は、それはいよいよ愛すべく、甘いものとなった。」とまで言っています。あの「信仰によってのみ義とされる」というルターに発する宗教改革の原理が、パウロのこの手紙の発見から始まったのです。

新しい神の義
パウロは「律法とは関係なく、・・神の義が示されました」(21節)と言っていますが、キリストによる救いは律法の命じる行いを私たちが満たすことによって与えられるのではないのです。人間の方から、神との関係を修復することはできません。従って「今や、神の義が示された」とパウロが言っているのは、神の側からの働きかけであり、恵みによって与えられた救いの道なのです。
けれども一方、この新しい神の義は、まったく唐突に降ってきたわけではありません。これはかねてから「律法と預言者によって証しされて」いたのです。神がイスラエルの民と結ばれた古い契約は、民の不従順によって破棄されるほかなかったのですが、神は契約に対する真実のゆえに、ご自身の方から新しい契約を用意されたのです。
この新しい神の義は、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(22節)と語られています。神の義は私たちが満たすのではなく、イエス・キリストによって明らかにされ、それを信じる私たちに与えられるものです。

無償で与えられる恵み  
24節にあったように、それは「無償で」与えられる恵みです。つまり「ただで」です。私たちは、この救いの恵みをいただき、義とされ、神を礼拝することができるようになるために、何の代償も支払う必要はないのです。そのために支払われるべき代償は、全て、主イエス・キリストが、その十字架の死によって既に支払って下さっているからです。それはあたかも、私たちがお財布を出して支払いをしようとしたら、「いや、お代はもういただいていますから」と言われるようなものです。私たちの知らないうちに、神が、独り子主イエス・キリストの十字架の死という代償を、私たちのために支払って下さっていたのです。そのことを知らされてびっくり仰天し、そして喜び、感謝して、神のもとに、主イエスのもとに馳せ参じて、神をほめたたえ、礼拝しながら生きていく、それが信仰をもって生きることです。
この神の救いの恵みは、繰り返しますが無償で与えられるものです。地上の人生においてどんなよい業を行ったか、どんな優れた業績をあげ、あるいはどんな良い人だったか、ということと全く関わりなく、神が、み子イエス・キリストの十字架の死によって、すべての人の罪を贖い、義として下さったのです。私たち人間がすることは、この神の恵みによって与えられている義を感謝していただくことです。私たちの歩みは罪に捕えられており、それによって様々な悲惨なことがあります。主の恵みに応えていく私たちの信仰にもいろいろと欠けがあり、全く不十分なものです。しかし私たちは、神の贖いの恵みの下に置かれており、その恵みに信頼して身を委ねることを許されているのです。私たちが、それぞれの人生を、聖日の礼拝を守りつつ生きていく、その信仰の歩みもまた、御子イエス・キリストによる贖いの恵みなのです。その恵みに大胆に委ねる罪人が信仰による大転換を与えられるのです。 祈ります。

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